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◎伝統的養蜂のもつ労働としての性格◎
 以上、東日本と西日本の二つの地域で行われてきた伝統的養蜂を紹介した註[2]
 この二つの例に限らず各地で行われる伝統的養蜂の性格を、生産活動という視点からみていくと、一つの共通性が見いだせる。それは、このニホンミツバチの伝統的養蜂が家の生計を支えるような主たる生業でも、また生業を補完するような副業としても位置づけられていない点である。どちらかといえば周年的な生計維持のための経済的な価値からみて、それほど重要性を有していない、いうなれば趣味的・娯楽的といった〈遊び〉としての性格を強く示す生産活動なのである。これに従事する人びとは、自らの世帯の生計を支えるべく主たる生業を別に有しているか、あるいは一線を退き後継者に家の生計維持を委ねていることが多い。だからといって経済的恩恵が全くないわけではなく、時にはふつうの蜂蜜より珍重され高価に売れたりもする。しかし、それが採算として見合うものでは当然なく、ときには生業を圧迫しかねない状況をも含んでいる。
 たとえばミツバチの分蜂時期は、農作業でもっとも大事な田植え前後の時期に重なるわけである。しかし、そうした忙しい時期にもかかわらず、人びとはハチ群の獲得のため、生業となる農作業に優先して巣箱の設置や見回りに時間を費やし、これを苦にすることもまた無駄と考えることもない。このことは、経済的な生産活動にも勝る価値を、この伝統的養蜂が孕んでいるからにほかならない。
 次に、この伝統的養蜂は娯楽・趣味的な〈遊び〉といった性格が強いわけであるが、それにもかかわらずこれに関わる労働の肉体的な過酷さと時間的制約は普通ではない。少なからず〈遊び〉の領域を逸脱した側面をも有している。先の東尾岐で伝統的養蜂を行うEさんは、集落周辺を範囲としておおよそ七ヵ所に五〇個近いタッコを仕掛ける。さらに仕掛けた後は、これらを二、三日おきに見てまわり、タッコにアリが入り込んでいればこれを追いはらい、ミツバチをおびきよせるために前年の蜜かすを塗るという作業を繰り返す。
 群馬県上野村のNさんは、例年平均五〇群ほどハチ群を所有する。そのためには上野村周辺に留まらず県境を越えて長野県南佐久郡までも仕掛けに出かけ、およそ二〇〇個ほどのミツダルと呼ぶ円筒形の巣箱を仕掛けて歩く。ときには山道をミツダルを携え歩かなければならない。そしてハチ群が飛来・営巣すれば、それを十五日ほどの周期で見回りし、スムシと呼ぶ外敵ハチノスツヅリガ(Galleria mellonella)の発生を防ぐために、その都度ミツダルの底部を掃除するというのである。そのためには午前七時にでかけ、帰宅は午後九時を回るのだという。
 また愛媛県美川村のKさんなどは、松山市と高知市を結ぶ国道三三号線の山間、およそ七〇キロほどの区間の道路沿いに、ミツドウを五〇個くらい仕掛けている。これらを定期的にハチが飛来しているかその有無を確認し、運よく営巣していればこれを自宅まで移動するか、あるいは年間を通して定期的に営巣群の状況を見てまわりミツドウの掃除をしてやることを繰り返している。
 こうした作業を休みもいとわず行う行動には、必ずしも養蜂の最終目的である蜂蜜の獲得ということにだけではないことは確かである。
 そこには「ハチが来ることの楽しみ」ということばからもわかるように、自らが作った巣箱にハチ群が飛来し営巣するかどうかという〈獲得の楽しみ〉、そして仕掛けた巣箱に営巣したハチ群を飼養するという〈養う楽しみ〉という、この養蜂のもつ二つ過程が人びとをひきつける魅力となっていることが窺える。
 このようにニホンミツバチの伝統的養蜂には、松井健がいうマイナー・サブシステンスの特質を多分に見いだすことができるのである註[3]
◎民俗知識と技術◎
 養蜂が、自然の中に営巣するハチ群を見つけ野生のコロニーから蜂蜜を掠奪するハニー・ハンティングと大きく異なる点は、ミツバチを人の管理の下におくという、ドメスティケイト(家畜化)された飼養形態を示す点である。しかし、ニホンミツバチの伝統的養蜂は、セイヨウミツバチによる近代的養蜂とは異なり完全にドメスティケイトされているわけではない。なぜなら、これまで見てきたようにハチ群の獲得において、多くを野生のハチ群に依存するといった自然との深い関係性の上に存立しているからである。そうした点からいえば、ニホンミツバチの伝統的養蜂は、ドメスティケイトの前形態あるいは発展過程ともいえるセミ・ドメスティケイションと位置づけられるものといえる註[4]
 こうしたセミ・ドメスティケイションの特徴を考える指標として、養蜂の形態に三つの発展段階があることをかつて澤田昌人は指摘している。
I型−空の巣箱を適当な場所に置き、分蜂群が自ら営巣するのを待つ。採蜜時には巣箱内部の巣を全て取り去るため、蜂群は死滅・逃亡する。いわば掠奪的養蜂。
II型−I型とは異なり、所有群から出た分蜂群を捕える。採蜜期には、巣の一部を残すか、または採蜜する蜂群と採蜜しない蜂群を分けておき、通年蜂群を絶やさない、継続的養蜂。
III型−可動枠巣箱を用い蜂群を分割・合同したり、採蜜後も給餌等によって蜂群を維持する。ミツバチを完全に人間の管理下におく、近代的養蜂である註[5]
 ニホンミツバチの伝統的養蜂にみるセミ・ドメスティケイションの特質は、ハチそのものの改良ではなくI型→II型、II型→III型、I型→III型へという養蜂形態の中にある〈人〉の側の技術と知識の発展的過程および飼養の複合形態に潜んでおり、その民俗技術論的特徴は、ハチ群の獲得、営巣したハチ群の飼養管理、採蜜の方法とその際のハチの扱い方といった大きく三つの技術領域に見いだすことができるのである。
 ところで、この養蜂を存立ならしめ、人が働きかける技術の核となるのが巣箱の存在であり、構造を含む巣箱の〈質〉が、人びとがその年ハチを養うことができるか否かを大きく左右している。
 巣箱は、地方によりミツバチタッコ・ミツドウ・ミツダル・ゴウラなどいくつかの地域的呼称で呼ばれている。多くは内部が空洞になった円筒形の丸太を利用したもので、これを補完するように板材を張り合わせた長方体を縦型にした巣箱が用いられる。しかし、人びとが重視するのは前者である。この二つの形態の巣箱を併用する地域でその利用について聞くと、前者の形態の方がハチの営巣の確率は高いが、材料の入手が容易ではないため、入手が容易な板材を用いた巣箱を用いるのだという。
 また営巣の確率は、巣箱の過去の営巣歴とも関係するといい、過去にハチ群が営巣したものの方が営巣率が高いと考えられている。美川村の例でいえば、営巣歴のある、ミツドウをクイツキドウといい、新調したばかりの営巣歴のないミツドウをサラドウと呼んで区別している。
 もちろん、ハチ群の営巣確率は、巣箱の総体的形状ばかりではない。内部のくり貫き方・容積、内壁の形状など、細部の細やかな工夫が大きく関係している。
 そのことは「人がとてもよく仕上がったと思っても、それがハチの好みと一致するとは限らない。より自然でなければならない」ということばに集約される。
 このようにニホンミツバチの巣箱が、私たちの周囲にある道具と大きく異なる点は、単なる丸太にしか見えぬような外観もさることながら、一般の道具の多くが人びとの生産活動における合理性・効率性という点を重視しているのに対して、ニホンミツバチの巣箱は、そうした人に対しての合理性・効率性ではなく、ミツバチが好む、野生の営巣環境を復原できる道具であるという〈より自然に〉という方向性を有していることである。つまり、ニホンミツバチという野生の昆虫を「自然」ということばに置き換えて考えたとき、ここには自然へのヒトの働きかけにより、自然を文化の側に引き寄せ、その引き寄せた自然を変形や改変することなく、引き寄せた自然と微妙なバランスを保ちながら維持させているという実体が浮かび上がってくる。篠原徹は、こうした民俗技術を自然の「原形」的利用と述べている註[6]
◎まとめ―伝統的養蜂と自然◎
 これまで見てきたように、東尾岐においては「ヤマバチは毎年来るものだ」といい、春に捕獲したハチ群から、その年の秋には蜜をしぼる。こうした約半年という短期間の飼養により採蜜する単年型の養蜂形態をとっている。これに対して通年型の養蜂形態をとる愛媛県美川村東川の事例は、山野に棲息する野生群にハチ群の獲得を依存するのはきわめて稀で、多くは人びとが飼養する所有群から分蜂するハチ群に飼養の拡大を依存しているのである。そのために人びとは、ハチを殺さずに採蜜するという採蜜技術を獲得し、これを駆使することで維持・拡大している。この二つを比較したとき、東尾岐での養蜂技術は、一見残酷で、資源の枯渇につながる印象を与え、一方、ハチ群を死滅させず維持するという点では、東川での事例の方が技術的に進展したものといった評価を下すだろう。
 少なくとも技術的側面からみれば、そうした判断は正しいかも知れない。だが、視野をハチを供給してくれる周囲の自然環境ということまで広げて考えてみると、状況は少々違ってくる。
 東川の人びとは、一様に「ザツボクがなくなり、野生のハチ群がほとんどいない」といったハチの飼養に対する危機意識にも似た山野の変化を口にする。確かに周囲の山々のほとんどがスギやヒノキといった人の手による植林によって、頂上に到るまで針葉樹の林で覆われている。しかも植林されてから年数が浅い幹は細く、ハチが営巣できる状態にはほど遠い。
 こうした環境の変化が、所有群から分蜂するハチ群の収容にウェートをおくという捕獲形態を生み、さらに維持・拡大を確実にするための技術を高めるという、より人為的な働きかけを強くしなければならない養蜂形態へとつながっていったと考えられる。
 それに対して、東尾岐の養蜂形態は、ハチ群が野生で営巣できる自然環境が保たれ、その自然の豊さ(個別には環境の問題が少なからず起きている)により、毎年、人びとの養蜂を可能たらしめるだけのハチ群が棲息しているという事実に裏打ちされている。そのことが「ヤマバチは毎年、周囲の山野からやって来て、再び帰っていく」という、ハチをめぐる一つの自然観を形成し、単年型の養蜂の根底を成している。もちろん、東尾岐の人びとが、そのことを意識しているわけではないことは断っておかねばならない。
 このように、自然との関係にみられる民俗技術、それぞれの地域のもつ地域性という課題を視野に入れつつ、各地に継承されているニホンミツバチの伝統的養蜂の実態を明らかにしていくことは、同時に環境を考える一つの示唆をも与えてくれるのである。
 以上、二つの地域の事例を中心としてニホンミツバチの伝統的養蜂の特色を垣間みてきた。これまで見てきたように人びとはニホンミツバチの伝統的養蜂を、暮らしの四囲をとりまく自然と深いかかわりの中で成立させ継承してきた。つまりそこにはハチ−ヒトの関係、もう少し象徴的にいえば自然と文化の関係性の一つの形を見いだすことができるのである。
 しかしながら、山村で暮らし、ニホンミツバチを飼養してきた人びとは、これが自然との深いかかわりの中で展開してきたなどと意識することはなかった。なぜなら、彼らは自然を生活の領域と対峙するような別の実体として生きているのではなく、自然などと意識することなく自然の中に生きているからである。
 だからこそ、東尾岐の人びとが「ヤマバチは、毎年、春になると来るものだ」といい飛来・営巣に一喜一憂するのである。そして万一、春にハチが来なければ、養蜂の存立だけに留まらず、その異変が農耕をはじめとする生活全体の不安へと広がっていくのである。このように「ハチが来る」こと、これは東尾岐の人びとの営みであり、自然との交通の一つなのである。
 内山節が、「人びとが培ってきた自然との相互的な交通によって、自然が存在し、人間が存在する」と述べているが註[7]こうした自然と人の交通が、ニホンミツバチの伝統的養蜂を通してもまた確かに浮かび上がってくるのである。
〈福島県立博物館学芸員〉
 
註[1]佐々木 正己「ニホンミツバチ」一九九九 海游社 八六頁 拙稿「東日本のおけるニホンミツバチの伝統的養蜂」「日本民俗学」一九九五 三五頁
註[2]二地域のニホンミツバチの伝統的養蜂の詳細については、拙稿「東日本のおけるニホンミツバチの伝統的養蜂」「日本民俗学」一九九五 三二−六八頁、拙稿「ハチとヒトの生態学」「ミツバチ科学」一六−二、一九九五 六九-七六頁、拙稿「ハチとヒトの生態学II」「ミツバチ科学」一七−二、一九九六 四九-六〇頁、拙稿「ミツを飼う」「民具集積」一九九五 三五-五〇頁などを参照のこと。
註[3]マイナー・サブシステンスという概念については、松井健が提示したもので、これについては松井 健「マイナー・サブシステンスの世界−民俗世界における労働・自然・身体」篠原徹編「民俗の技術」朝倉書店 二四七-二六八頁 一九九八、などを参照のこと。
註[4]松井 健「セミ・ドメスティケイション」海鳴社 一九八九
註[5]澤田 昌人「ヒト−ハチ関係の諸類型」「季刊人類学」一七-二講式社 一九八六 八二頁
註[6]篠原 徹「自然を〈養う〉−養蚕・養蜂・鵜飼にみるヒトと自然」「天の絹絲」福島県立博物館図録 一九九八 一一八頁
註[7]内山 節「自然と労働」「国立歴史民俗博物館研究報告」八七 二〇〇一 二一−二二頁








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