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2 ニホンミツバチによる旧式養蜂の歴史
 ニホンミツバチによる養蜂がいつ頃から行われていたかは定かでない。文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」(大日本農史、明治十年)とされる。「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち飼う。しかれどもついに蕃息らず」という記載(六四三年)で、百済の人が奈良の三輪山で養蜂を試みたが、失敗に終わったという記録である。しかし実際にニホンミツバチのことを描写していると思われる記述はこれより少し前、同じ「日本書紀」の六二七年の項にもでてくる。
 平安時代に入ると諸国から宮中への蜂蜜献上の記録が見られ、当時すでに各地でニホンミツバチが飼われていたことが推察される。平安時代も末期になると、貴族[「今鏡」(一一七〇)の藤原宗輔]や庶民の間(「今昔物語」平安後期の成立)でもミツバチが飼われていた姿が描かれている。
 養蜂が本格的に行われるようになったのは江戸時代に入ってからで、蜂の生態観察も飼養技術も飛躍的に進んだ。貝原益軒は「大和本草」(一七〇九年)の中で、ハチミツを採蜜場所により、石密(山の岩場の割れ目などに営巣した巣から採取した蜜)、木蜜、土蜜、家蜜に分類したりしている。生態にも詳しい最初の養蜂技術書は久世敦行の「家蜂畜養記」で、蜂王および王台、巣箱の作り方、巣箱の台の高さ、巣箱を置く場所、闘争、分蜂、雄蜂、巣虫、採蜜法、製蝋法、の十項目からなる渡辺、一九八一)。挿図が良く、広く読まれたのは木村孔恭の「日本山海名産図会」(一七九九)であるという。造巣をする内勤蜂と採餌をする外勤蜂とを区別しており、分蜂の記載も詳しい。小野蘭山の「本草綱目啓蒙」(一八○三)からは、蜂蜜は全国各地で生産されたものの、薬店ではすべてが熊野蜜の名で売られていた、という当時の状況が読みとれる。
 日本の旧式養蜂を大成させたのは、和歌山県の貞市右衛門(一八二五〜一九〇四)といってよい。伝記(松本保千代編 一九五九)によると、巣箱の規格化を実行して数百群を飼い、小規模ながら移動養蜂まで試みている。私は一九九〇年、有田市の貞家を訪問し、群数や蜜の収量、売買のすべてを記録した大福帳を見せて頂き、当時の様子を実感することができた。それによると、翁晩年の一八八二から一九〇二年までの二十年間に、延べ三、六二九箱から一群あたり四・七キログラムもの蜜を採取している。これは現在のセイヨウミツバチによる商業養蜂の数字と比べれば五分の一程度であるが、ニホンミツバチとしてはすばらしい数字である。
 図[3]は一八七二年、オーストリアで開かれた万国博へ出品するために編纂された「蜂蜜一覧」の一部である。これはニホンミツバチによる旧式養蜂の総決算ともいうべきもので、分蜂群を収容するときに蜂を静めるための桶の水、五段重ねの継ぎ箱、蝋を分離する工夫など、感心させられる記載が随所にみられる。
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[3]「蜂蜜一覧」に描かれたニホンミツバチの養蜂(1872年)
 この「蜂蜜一覧」の後間もない明治八年、ドイツの養蜂技術が日本に紹介され、同十年、セイヨウミツバチ群が初めてアメリカ経由で日本に導入される。その後日本の養蜂は導入セイヨウミツバチを用いた近代化への道を歩み、ニホンミツバチは農家の庭先で昔ながらの方法で飼われる程度となってしまった。しかし一方、そのために、伝統的な飼い方が今に残ることになったともいえる。








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