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山蜜を飼う翁
 宇江 敏勝
 
 山蜜(ニホンミツバチ)の群れが今年は三つにふえた。いずれも自分の家のまわりの樹木の蔭に長方形の木箱をおいているのである。これまで私は蜜蜂を飼育した経験はなく、現代もべつに手入れなどはせず、ほとんど放置した状態だ。
 この里にも山蜜を飼う人はちらほらといる。だが、時代をさかのぼれば、紀伊半島南部の熊野地方はわが国でも屈指の養蜂地帯として知られた。その範囲は有田川、日高川、日置川、古座川、熊野川などの流域の山間部である。温暖な気象と、植生が多様で複雑で、しかも広大な森が野生の蜜蜂をはぐくんできたものだろう。いうまでもなく山蜜は木や野草の花から蜜源をあつめるのである。
 「木の花から蜜が噴いたわよう、蜂も食べきれなんだやろ」と私に語ってくれた古座川町(和歌山県)のNさんというお年寄りも、多いときには五十箱(群)ほども飼っていたそうだ。
 その古座川の蜜はとくに有名で、明治時代から大正にかけて、東京の三越百貨店で売られていた、という話も聞いた。藩政時代から、木炭や木材は帆船に積まれて江戸へと向かった。その船倉の中に、樽詰めの蜂蜜が珍重な献上品としてあったのかも知れない。のちになって三越百貨店へもほぼ同じルートで運ばれたものと考えられる。
 蜂蜜を採取するのは山で働く人々であった。少し飼っている者は貴重な甘味として子どもたちに与え、多い場合は売るのである。炭焼きや木材の伐採などをする現場付近に巣箱をおき、気を配りつつ年に一度蜜を切り、収入の一部としたのである。山蜜の場合は、蜂飼いを専業にする者はいなかったのではあるまいか。
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筆者が庭の茂みで飼う山蜜の巣箱
 時代はくだって、私が知る範囲では五十箱も飼うという者はいなくなった。砂糖は戦後しばらくすると山間部にもゆきわたったし、やがてセイヨウミツバチの瓶詰めの蜂蜜もはるかに安価で入手できるようになったからだ。
 しかし、その後も天然の甘味に対する根づよい憧憬が消えたわけではなかった。また、ある種の愛着をこめて山蜜を飼い続ける人もいた。時代とともに力は小さくなっていったけれども。
 加えて自然環境の変化による困難も待ちうけていた。
 熊野地方では古くから択伐方式による林業が営まれてきた。炭焼きにしろ建築用材にしろ、天然林の中から必要な太さの木を選んで斧や鋸でもって伐採し、若い木は残して生長を待つというやり方である。大小はあるにしても、山はつねにさまざまな種類の樹木におおわれていた。
 山の奥までも車道がつけられ、機械でもって伐採や搬出が行なわれるのは昭和三十年代以降である。しかも樹木の種類や年輪をとわず、根こそぎに伐られた。
 その跡には拡大造林といって、どこでも杉と檜ばかりが植えられた。国策による全面的な伐採と植林は、昭和六十年頃まで続けられた。結果、森林全体の中に占める人工林の割合は、日本全体では四割、和歌山県では六割にのぼり、わが熊野地方ではさらに突出して七八パーセントにも及んだ。蜜蜂は杉や檜の花には見向きもしない。
 蜜源となる天然林の広葉樹や、下生えの花咲く草が激減したのである。蜜蜂の活動にも大きく影響することとなった。
 昭和五十六年だったが、異常寒波のあった冬、この野中(和歌山県中辺路町)の里で、冬眠中の山蜜の集団が全滅したことがあった。その記録がいまも手許にあるが、里全体で約三十箱あったものが、生き残ったのはわずかに二箱の群れのみだった。
 蜂を飼っていた人の話によると、直接の原因は寒さによるものだが、そもそも夏頃から蜂の群れに生彩がなかったという。蜜の採取活動がじゅうぶんに行なわれていなかったからである。蜜の貯えがなければ、山蜜も脊族をふやすことができず、まして巣分れもおぼつかない。食物が少なく、蜂の数も限られて、集団としての活力が衰えたところへ、例年にない寒波に見まわれたのだ。
 山々が針葉樹に覆われ、広葉樹の花が極端に少ない状態は現在も変らない。
 さらに山蜜を飼う人たちの高齢化が進んでいる。野中地区約百四十軒のうち、山蜜のいるのは四軒で合計十五箱、六十三才の私がいちばん若く、ほかの三人は七十才半ばに達している。蜂も人も自然本来の勢いがないのである。
 そもそも私が飼うようになったのも、近所の人が高齢で亡くなったからで、おばあさんが遺された巣箱を一つくれたのである。一昨年のことだ。
 そこから昨年の五月に巣分れをしたが、油断をしていてどこかへ飛ばしてしまった。
 そして今年の五月十三日の真昼にまた巣分かれがあった。蜂の群れは数メートルの高さに渦巻きながら、近くの桜の枝の裏側にかたまり始めた。
 山蜜は巣分れを始める前に、偵察役の蜂が森の中に落ちつくべく巣穴を見定めているといわれている。しかし何千匹もの蜂がそこへてんでバラバラに飛ぶのではない。古い巣から出たところで、近くの樹木などにいったん集結した後、頃合いを見はからつていっせいに移動するのだ。
 私の場合はすぐに手の届く庭の木にかたまってくれたのである。私は刺されないように頭から網をかぶり、ラグビーボールのように細長い蜂のかたまりを、籠の中にかき入れた。
 それを用意していた長方形の巣箱に移して、一件落着である。さらに四日後の十六日に二回目の巣分れがあって、それも捕獲することができた。古いほうの巣と合わせて、三箱の蜂の群れがいま活動中なのである。
 蜜切り、すなわち巣箱からの蜜の採用はまだ未経験で、来年の夏はぜひやろうと楽しみにしている。巣箱の数ももっとふやしたい。熊野の山ふかい里に棲んで、蜂を飼う翁になろうかと思う。
<作家>








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