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<街道に面する屋敷構え>
図表6 街道に面する屋敷構えによるタイプ分け
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[1] 宮崎康久家(Aタイプ)
 
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[3] 西川俊治家(Aタイプ)
 
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[13] 宮崎商店(Aタイプ)
 
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[11] 清水強家(Bタイプ)
 
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[10] ギャラリー絃燈舎(Cタイプ)
 
 主屋の向きと正面に付く下屋の形式によって町家を分類したことは、前の「伝統的町家のタイプ分け」(37頁)で述べ、AからDの4タイプを示した。
 ここではAタイプ「正面坪庭付平入町家型」、Bタイプ「正面全下屋付平入町家型」、Cタイプ「妻入町家型」の3タイプを編年の指標として説明する。
 「正面坪庭付平入町家型」の町家は[8]中山公家、[2]小松屋、[1]宮崎康久家、[6]樋口正郎家、[5]本田智家、[14]保里川茂治家、[4]本田亘家、[13]宮崎商店、[3]西川俊治家である。中でも建築年代が判明する町家から判断すると、江戸末期から明治期にみられる形式である。
 「正面全下屋付平入町家型」で年代がわかる町家はないが[11]清水強家、[12]中野金物店がこれに当たる。
 「妻入町家型」の町家は[10]ギャラリー絃燈舎である。
 屋敷構えは下屋の深さに関係があり、Aタイプは2間以上から1間半と深いものが多く、Bタイプは1間半から半間とやや浅くなる。総合して考えると、Aタイプはより古く江戸時代から明治までにみられる形式で、Bタイプは明治期、Cタイプは大正期に下る。
 また、Aタイプの中には、坪庭の上手側に仏間を突出させる形式と、突出させない形式があり、屋敷構えと仏間位置の関係も深い。
 ここで坪庭に附属し街道に面して開く門にも注目したい。この門は「不浄門(フジョウモン)」「ゾウジモン」「中門(ナカモン)」「路地の口(ロジノクチ)」など、各町家で呼び名は異なるが、普段は使用せず、仏事の際にのみ使用することが聞取りでわかっている。坪庭や門は必ず仏間の近くにつくる。
 
<二階の壁面> 図表3

 調査地区における主屋の外壁は、大壁造漆喰塗りの町家と真壁造の町家がある。大壁造(土蔵造)は、都市の防火対策として発生し、密集する都市の中の町家に取り入れられ発展した。
 真壁造の町家は[10]ギャラリー絃燈舎のみで、それ以前に建てられた町家にはみられなかった。大正期に発生した新しい特徴と推測する。
 
<つし二階建と本二階建> 図表3

 実測調査をおこなった町家は、屋根裏を物置(「つし」)として使うものと、居室をつくるものとがある。ここでは前者を「つし二階建」とし、二階の床高から軒桁上端までの高さが180cm内外の低く天井を張らないものを「つし」とした。一方後者は「本二階建」とする。
 建築年代がわかっている本二階建の町家は、[10]ギャラリー絃燈舎、[13]宮崎商店の上手半部の2軒である。[10]ギャラリー絃燈舎以前の町家は「つし」つまり居室空間としてではなく、屋根裏の物置場としての「つし二階」しか造らず、背が低い。つし二階は窓が小さく、天井は張らずに梁組をみせる。島原の町家はつし二階全体を一室として使っているが、これに比ベギャラリー絃燈舎と宮崎商店の上手半部は軒高が高く、本二階建で、二階に居室部を設けている。
 島原の町家が、つし二階建から本二階建へと変遷するのは、大正になってからのことと推定できる。
 なお、本来つし二階であったものを後から天井の低い座敷をつくった町家も確認しており、改造過程からも、居室部が二階へと広がっていく変遷がよみとれる。
 
<階段の位置> 図表3

 階段が主屋の中央部に位置する町家が多い。階段を主屋の中央に取付けることは、二階の用途に関わってくるものと推測できる。前で述べた通り、つし二階は全体を一室の物置として使用するため、階段の位置を選ばない。端に階段を配置するより中央部に配置するほうが、使い勝手が良いという利点もある。これに対して二階を居室部とした場合、間取りを考慮して階段の位置を決めなければならない。限られた空間に有効的に部屋を配置するなら、階段は主屋の端に取り付けるのが普通となる。
 より中央に階段を配置する町家が古く、主屋端へ移行する過程としてまず土間境に移り、主屋端へ寄る。
 階段を主屋中央ではなく下手土間境に配置する町家は[7]星野國盛家、[11]清水強家の2軒である。
 また階段の配置は、主屋の規模も関係すると考えられ、規模の小さい[12]中野金物店、[10]ギャラリー絃燈舎の2軒は主屋の端に階段を配置する。
 上記した4軒以外の町家は全て主屋中央に階段を配置する。
 大きな流れとして、二階をつしとして使う場合は階段を中央に配置し、その後本二階建の誕生や、つし二階に居室を設ける改造による二階用途の変化にともない、階段は主屋の端に変遷すると考えられる。
 
<軒裏の塗込め> 図表3

 島原の伝統的町家は、軒裏の野地板や垂木の木部を漆喰で塗込めるものが多く、防火対策の一つである。軒裏塗り込めは、外壁が大壁造の場合に多くみられる形式で、明治末期まで残る。なお、塗込めの工法に違いがあり、垂木に沿って波型に塗込めるものと、角型に塗込めるもの、すべて平らに塗込めるベタ塗りの3種類に分けられる。塗込めの3種類は各時代に分散しており、種類による編年はできなかった。ただ角型に塗込める工法は手間や技術を要する仕事である。
 また、[2]小松屋は下屋の軒裏を塗込め、[6]樋口正郎家にも同様の痕跡があり、格式をあらわしたものとも考えられる。
 
<平入と妻入> 図表3

 島原の伝統的町家には主屋が平入のものと妻入のものがある。今回、実測調査できた町家の中で妻入は[10]ギャラリー絃燈舎・大正8年(1919)、[13]宮崎商店の上手半部・昭和6年(1931)のみで、これ以外は全て平入であった。
 昭和49年(1974)刊行の長崎県教育委員会編「長崎県の民家(後編)長崎県緊急民家調査報告書」(主任調査員・青山賢信)には、「ただ、島原市においては平入形式のものの他に妻入形式の町家数棟が見出された」と島原の妻入町家について特記しており、島原以外ではふれていない。長崎県において妻入町家の発展は島原地域だけの特徴として読みとれる。
 調査地区の島原街道筋には伝統的町家57軒のうち約25%の14軒が妻入であった。このうち前記した2軒は大正から昭和初期の建築が明らかで、この他の12軒も外観調査から同時期のものと考えられる。
 妻入町家の発生に関係する要素として敷地形態が考えられる。建物の梁間を広げるには構造的限界があるため、敷地間口の広い町家は桁行方向に伸ばせる平入の大規模な主屋を建て、うなぎの寝床のような敷地をもつ町家は敷地いっぱい奥に伸ばせる妻入の形式をとったと考えるのが妥当であろう。ただ今回の調査地区において、妻入町家の建築が大正から昭和初期に集中していることから、妻入町家はこの時期に盛んに建てられた特徴であると考えられる。
 
<床脇より広い床の間の幅>

図表7 床構え形式
実測記号 建物名 建築年代 床わき
形式 寸法 形式 天袋 地袋 寸法
[2] 小松屋 弘化 5年 2470 蹴込 × 1480
[9] 猪原金物店 万延 2年 2330 蹴込 × 1445
[1] 宮崎康久家上手 江戸末期 2460 蹴込 × 1480
[6] 樋口正郎家 江戸末期 2490 蹴込 × 1500
[5] 本多智家 江戸末期 2440 蹴込 × 1525
[14] 保里川茂治家 江戸末期 2450 蹴込 2450
[4] 本田亘家 明治14年 2450 蹴込 1520
[8] 中山公家上手 明治18年 2290 蹴込 1425
[3] 西川俊治家 明治42年 2418 蹴込 × 1523
[7] 星野國盛家 明治後期 2485 蹴込 × 1475
[11] 清水強家 明治後期 2335 蹴込 × 1625
[12] 中野金物店 大正 2930 蹴込 × 2010
[10] ギャラリー絃燈舎 大正 8年 1960 蹴込 × × 1000
[13] 宮崎商店上手 昭和初期 2940 蹴込 × 1960
○=有る ×=無し △=幅いっぱいに地袋がないもの。
寸法の単位はmm
上手と下手で建築年代の異なる町家は上手で表記した。

 主屋上手に配置する床の間の床柱の位置を部屋の中心よりややずらし、床の間の幅を広く構える町家が多い。床の間と床脇の幅の比はほぼ10:6である。
 床と床脇が同じ幅の町家は[14]保里川茂治家のみで、これ以外の町家は全て床の間の幅を広く構える。
 現在、島原で建てる住宅は床の間と床脇を均等に配るのが普通である。床の間と床脇の比を違えてつくる形式がいつから始まりいつまでの要素なのかは今回の調査では明らかにできなかったが、少なくとも現在にはなくなる要素である。








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