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<主屋主体部正面に出る小座敷>
図表5 主屋主体部正面に出る小座敷位置
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万町 堀部家
 
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[4] 本田亘家
 
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[5] 本田智家
 
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[6] 樋口正郎家
 
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[8] 中山公家
 
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[14] 保里川茂治家
 
 主屋主体部正面の外側へ突出させたり下屋として出した小さな座敷がつくられる町家がある。なお、ここでいう座敷は建築的にみて、長押を廻す、竿縁天井を張るなどのしつらえが整う部屋を指す。
 代表的なものは前記した[2]小松屋と[1]宮崎康久家の上手つくに突出部である。これを仏間として使用していたことは聞取りから明らかである。また、これに[6]樋口正郎家を加える。樋口家は主屋の上手妻面から正面に突出させるかたちで二室続きの座敷をつける。この座敷の柱は主屋側柱に添えて立てられていることから後の増築と考えるが、材料に新旧の差がほとんどなく、主屋建築後それほど時間が経たない間に建てたものと推測し、樋口家も、主屋から突出する座敷を備える町家として評価する。
 この他、下手につく下屋の上手側に小座敷を整える町家は、[4]本田亘家、[8]中山公家、また[5]本田智家は聞取りによる復原平面図(頁62)から、ゴジョウ(五畳)という部屋がこれに当たる。
 さらに、今回調査対象地区外ではあるが、島原街道筋万町の堀部家・嘉永元年(1848)をとりあげる。なお堀部家についての考察は、平成9年島原市から発刊された「街なみ環境整備建物調査」の図面を参考にした。堀部家は本田亘家、中山家と同じく、下手につく下屋の上手側に小座敷をつくる。ここで特に注目したいのが、堀部家はこの小座敷を仏間とすることである。なるほど、前の<仏間の位置>で述べた、江戸時代の指標「突出する仏間」を発展させた要因である、キリシタンではないことを強調するねらいから考えると、堀部家の「下屋上手の仏間」も同じことである。つまり、前にあげた[4]本田亘家、[8]中山公家、[5]本田智家の下屋に整えた小座敷が、本来仏間として機能していた可能性が高まるのである。また、[14]保里川茂治家も正面に入母屋屋根で突出する部分がつく。現在便所としているが、これが本来の用途であることは考えにくく、後に旅籠を始めた際の改造とするほうが自然で、以前仏間であった可能性は否定できない。
 さらに加えると、宮崎康久家の仏間の変遷である。
 聞取りによると、現在の宮崎家以前に住んでいた下田家時代は上手に突出する部屋を仏間とし、その後昭和34年に宮崎家が移住した直後の仏間位置は下屋上手の坪庭に接した位置だった。その後昭和60年ごろに、現在の主体部内上手表の部屋に移したという。
 以上の点を考慮すると、主屋主体部分より正面外側へ出す座敷は、キリシタン弾圧に影響を受け発達した仏間の建築的痕跡といえる。突出する仏間に加え、下屋上手につく小座敷も江戸時代の古い指標と考える。
 なお、仏間を突出させる形式は、キリスト教解禁の明治6年までと前記したが、本田亘家は明治14年、中山公家の上手半部は明治18年の建築である。つまり仏間としての用途は消滅するが、解禁になっても小座敷をつくるといった建築的要素だけは、明治前期まで残ることがわかる。








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