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3 社会背景を示す建築要素
 民家の形成や発展に大きく関わる背景として「時間軸」「空間軸」「社会軸」の3つが考えられる。時間軸は時間の流れを、空間軸は建物が建てられた土地や風土の地域性を、社会軸は封建社会に影響を受けた階層や格式、経済力を示している。
 今回の編年研究もこの3つの軸を念頭に進めた。
 太田博太郎は、「信濃」* で、「民家は地域的な差が大きい。全体のタイプが全然違うだけでなく、工具でも、各部の手法でも、地域によって使われた年代が相当違う。これは社寺建築ではみられないところで、民家の特殊性ということができよう。」と述べている。この考え方は、地域差を無視できるよう、調査対象の地域を限定することで、空間軸を一つに絞り編年研究を進めやすくした。これを例えるなら、関数の未知数を減らす、といったことだろう。
 今回調査地区として、島原以外の地域や同じ島原市内の武家屋敷地区などを含めず島原街道筋に絞ったのはこのためである。
 前節「2民家の編年」では、時間軸に沿った町家の指標を述べてきた。ここでは、主屋の規模や家の格式に影響を受ける建築要素をあげて説明する。これは年代を示す指標と同様に、当時の家柄や建物の歴史を物語る指標であり、島原市の歴史や当時の社会背景を知る上でも重要な要素である。
 
*「信濃」は昭和41年から同42年に「戦後における民家史研究の発展」「講座 民家調査の方法」として連載したもの。
 
<小屋組> 
図表8 主屋二階規模と小屋組形式
実測
記号
建物名 建築年代 二階規模 ○登り
△水平
×交差登り梁
敷梁の本数
桁行 梁間
[8] 中山公家下手 江戸末期 7.5 2.5 ? ?
[2] 小松屋 弘化 5年 9 4 △× 1
[1] 宮崎康久家上手 江戸末期 6.5 3.5 2
[6] 樋口正郎家 江戸末期 8 2.5 ○△ 1
[5] 本多智家 江戸末期 5 3 △× 1
[14] 保里川茂治家 江戸末期 7.5 4 ? ?
[4] 本田亘家 明治14年 9.5 4 ○△ 1
[8] 中山公家上手 明治18年 7.5 2.5 1
[13] 宮崎商店下手 明治39年 4.5 4 ○△× 1
[3] 西川俊治家 明治42年 6 3 ○△ 1
[7] 星野國盛家 明治後期 5.5 3 ○△ 1
[11] 清水強家 明治後期 6.5 3.5 ? ?
[1] 宮崎康久家下手 大正 6年 6.5 3 × 1
[12] 中野金物店 大正 3 5 ? ?
[10] ギャラリー絃燈舎 大正 8年 5.5 2.5 △× 1
[13] 宮崎商店上手 昭和 6年 6×2.5 2.5 ? ?

図表9 小屋組の形式3種
z0045_02.jpg
 
 島原の町家は小屋梁の掛け方に特徴がある。1棟の主屋の中に2〜3種類の違った小屋組を併用する町家があり、これを3種類に分類し、「登梁」「水平梁」「交差登梁」と名付ける。
「登 梁」 軒高より高い棟通りに敷梁をかけ、両軒桁からこの敷梁に登梁をわたし、これに束立てして母屋と棟木を支える。登梁は敷梁上で継ぐものと、敷梁に引っ掛けただけのものがある。敷梁は柱や、併用する和小屋組で支える。
「水平梁」 軒桁に水平な梁をかけてその上に束立てし母屋を支える。棟通りは束に貫梁を渡し、この上に敷梁を桁方向にかけてつなぎ、棟束を立てて棟木を支える。敷梁を水平梁に直接かけるものもある。
「交差登梁」 基本的には登梁構造と同じであるが、登梁が敷梁の上で交差しているのが特徴である。交差登梁は角材に製材されているものが多い。
 島原の町家がつし二階建から本二階建へと変遷することは前にも述べたが、小屋組の変遷は基本的に二階の発展に大きく関わっている。
 つし二階建の多くは、水平梁と登梁を交互に用いている。背の低いつし二階は水平梁を架けると梁が頭につかえてしまう。空間を高くとる工夫として梁を斜めに架ける登梁を使用した。これが本二階建へ変遷すると桁高が高くなるため天井を張った上に水平梁を組める。この時の小屋組は水平梁のみとなる。
 ただ、[1]宮崎康久家の上手半部は敷梁を柱で支え、これに登梁をかける形式で、水平梁や交差登梁を併用しないことや、[13]宮崎商店は上記3種類全てを併用するなど、小屋組3種の組合わせに関する見解は未解決である。
 つし(物置)である小屋裏は、本来人目につく場所ではないので意匠的な要素があらわれにくい。いいかえれば、つし二階で目視できる構造や材料、技術などは意図的に造られたものではなく、無意識に近いものであるため、純粋にこの時代の特徴を示す指標として捉えられる。小屋材の材種や形態、小屋材が製材されているか否か、その製材方法などに、時代や社会背景の特徴があらわれる。これを明らかにするためには材料の表面を注意深く観察する必要がある。今後の研究課題としてあげておく。

<土間境に立つ太い柱> 
図表10 主屋規模でみる土間境の太い柱の本数と寸法
実測記号 建物名 建築年代 規模(間)*1
桁行×梁間=面積
本数 断面寸法
[2] 小松屋 弘化 5年 9×8.5=76.5 2本 9寸・2本
9寸・1本
[4] 本田亘家 明治14年 9.5×7.5=71.3 5本 8.5寸2本、6.7寸
8寸、7.3寸、7寸
[6] 樋口正郎家 江戸末期 9×6=48.0 4本 6.5寸
[14] 保里川茂治家 江戸末期 7.5×5=37.5 2本 8寸、7.7寸
[11] 清水強家 明治後期 6.5×5.5=35.8 2本 7寸、6.5寸
[1] 宮崎康久家下手 大正 6年 6×5.5=33.0 * 2 3本 5.8寸、5.7寸、5寸
[7] 星野國盛家 明治後期 6.5×5=32.5
新建材貼付で不明
[3] 西川俊治家 明治42年 6×5=30.0 1本 5寸
[5] 本多智家 江戸末期 5×6=30.0
下手切断のため不明
[13] 宮崎商店下手 明治39年 4.5×6.5=29.3 * 3 2本 6.7寸、2本
[8] 中山公家下手 江戸末期 7×4=28.0 0本
[12] 中野金物店 大正 3×6.5=19.5 0本
[10] ギャラリー絃燈舎 大正 8年 6×3=18.0 0本

*1 主屋規模は下屋も含む。
*2 規模は主屋全体の規模
*3 上手と下手で建築年代の異なる町家は、下手で表記した。

 土間境に他の柱より太い柱を立てる町家と立てない町家については編年の指標として前記した。ここでは太い柱の本数について述べる。
 結果的には、今回調査した町家の建築年代範囲の中で、太い柱の本数は時代を示す指標にならなかった。しかし、太田博太郎は「今井町民家の編年」*で「古い時代に構造柱が太くされた傾向は農家でもみられたことで、今井町でも初めは構造柱を太くし、しだいに大黒柱一本の形式に変わっていった傾向を推定することができよう。」と述べている。島原においても、より長い時代範囲で考えることができれば、変遷するひとつの要素とも考えられる。
 なお、玄関口や店舗で人目につく土間に太い柱を立てることで、家の豊かさを強調したとも考えられる。主屋の規模が大きいほど、太い柱の数が多くなり、断面寸法も大きくなっている。
 太い柱の大きさや本数が家柄をあらわす指標とも考えられる。

<主屋裏の居室が土間に張出す>

 土間境裏側の部屋が土間方向に半間から1間張り出し、土間の間口がここで表側より狭くなる。
 このような形式の町家は[2]小松屋、[1]宮崎康久家、[8]中山公家、[6]樋口正郎家、[5]本田智家、[14]保里川茂治家、[4]本田亘家、[3]西川俊治家、[11]清水強家の9軒あった。
 そうでない例として以下の町家をあげる。[7]星野國盛家、[13]宮崎商店は、土間部を改造しているため、資料にならない。[12]中野金物店は1階全体を店舗とし、そのほとんどが土間で他の町家と形式が異なり比較できない。[10]ギャラリー絃燈舎は、唯一の妻入の主屋で、調査した他の町家とは異なり前店形式をとるため比較が難しい。以上のような例を除けば調査したすべての町家がこのような形式をしている。
 階段を主屋中央に取り付ける町家が多いことは前に述べたが、階段室の分、居室が土間へ張出したとも考えられる。しかし、本研究の時点では、この要因を明らかにすることができなかった。間取りの変遷をよみとるには、より長い時代を研究範囲とする必要がある。

<上手を北にとる>

 調査した町家の中で[5]本田智家を除いて、全てが北方を上手としている。
 参考としていえることは、調査地区の北側に島原城があり、西側には雲仙普賢岳がそびえ、東側には有明海が開けているといった自然環境である。東西方向を筋とすると、雲仙普賢岳がある地形の高いほうを上手としている。武家が建つ地域では、西から東へ上の丁、中の丁、下の丁と町名をつける。
 一方向を意識して建物の上手を決める習慣は、地域の環境に大きく影響されていることをあらわす。
今後の研究課題となる建築要素

 ここであげる建築要素は、限られた調査日程の中での不足要素、あるいは今回調査できた町家が分布する時代範囲約100年間の間では変遷がみられなかった要素である。研究をより深めるためには、詳細な再調査や、より古い物件を見出し対象時代範囲を広げること、他の地域との比較検討を重ねることが必要といえよう。参考として以下にあげる。

<部材の断面寸法>

 二階床を支える大引の断面が縦に長い長方形で配ると力学上強い。建築技術の発展を長い時間の中で考えると、このような工夫がされるまでは、長方形の材を横にねかせて使うか、あるいは正方形に近い断面であったと推測することもできる。
 また、成の大きな差鴨居を入れるのは、構造上に強化するための目的から、ある時代に家の格式をあらわす特徴に変化する場合がある。これは前に述べた太い柱についても同じことがいえる。
 各部材の断面寸法を検討できるよう、今後は細部の調査が必要となる。

<胴差と差鴨居の二重構造>

 同じ位置の上下に断面の大きな胴差と差鴨居を二重に差す町家があった。主屋の規模や格式に関わるものであろうか。[2]小松屋、[4]本田亘家住宅、[6]樋口正郎家、[14]保里川茂治家がこれに当てはまる。

<二階窓の建具>

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二階窓の建具
 
 [1]宮崎康久家、[4]本田亘家の二階窓に用いられる建具と建具廻りの装置は古い形式であった。
 建具は四方に桟を廻すが上桟が建具板よりやや下につき、上端は板を切ったままにし、縦枠の上端が凹型に作られ、これに鴨居を挟むだけの形式である。
 建具、枠ともに、寸法を決めずに作ってから大きさを揃えることができる工法である。つまり仕事の精度が低いのである。仕事の技術や精度が低から高へ移行するのはいうまでもない。仕事の精度が低いということは古い要素といえる。
 残念なのは、窓がアルミサッシュに変わっている町家が多く、調査が十分にできなかったことである。

<床構えと床脇の造作> 図表7

 実測調査をおこなった全ての町家が共通して、床の間は框床、床脇は蹴込み床形式で、年代を示す特徴を導き出すことができなかった。

<桁高、座敷天井高> 図表11

 桁高は、つし二階建から本二階建への変遷や建物の規模に影響する。また座敷の天井高は、座敷構えの発展に関わると考えられるが、今回の調査で得られた年代範囲の中では、座敷における大きな変遷がみられなかった。
 
図表11 桁高と内法高
実測記号 建物名(屋号) 建築年代 桁高 内方高 座敷
天井高
[8] 中山公家下手 江戸末期 13.90 5.66
[2] 小松屋 弘化 5年 18.54 5.71 8.98
[9] 猪原金物店 万延 2年 15.01 5.66 7.43
[1] 宮崎康久家上手 江戸末期 17.23 5.70 8.46
[6] 樋口正郎家 江戸末期 17.33 5.69 9.13
[5] 本多智家 江戸末期 15.12 5.71 8.73
[14] 保里川茂治家 江戸末期 16.88 5.69 9.11
[4] 本田亘家 明治14年 17.72 5.71 8.88
[8] 中山公家上手 明治18年 18.12 5.70 8.75
[13] 宮崎商店下手 明治39年 17.49 5.72
[3] 西川俊治家 明治42年 17.16 5.72 8.71
[7] 星野國盛家 明治後期 約14.36 5.69 9.04
[11] 清水強家 明治後期 未調査 5.78 8.89
[1] 宮崎康久家下手 大正 6年 17.31 5.71
[12] 中野金物店 大正 約21.00 6.01 10.15
[10] ギャラリー絃燈舎 大正 8年 20.92 5.71 8.02
[13] 宮崎商店上手 昭和 6年 6.01 9.13
([9]) 猪原金物店
洋トラスの建物
大正〜昭和 21.06

<上手半部あるいは下手半部のみの建替て>

 調査した14軒の中で、複数棟の建物をつなぎ合せた町家が[9]猪原金物店の1軒、半部切断したまま規模を縮小した町家が[5]本田智家、[12]中野金物店の2軒あった。いずれも、店舗として主屋規模を拡張するか、もしくは反対に道路拡幅などで土地を分断されたために主屋規模を縮小している。
 この他の改造の例として、上手半部あるいは下手半部のみを建替えている町家が[1]宮崎康久家、[8]中山公家、[13]宮崎商店の3軒あり、これらの要因を明らかにすることができなかった。こういった改造は特殊であり今後の調査課題である。
近世から近代への過渡期のみかた

 民家の編年研究が、研究論文*、調査報告書** として初めて発表されたのが昭和30年代初期のことである。この当時の民家調査、編年研究の方法論は50年近く経った現在も活き続けており、当然ながら今回の調査研究も当時の方法を基本におこなってきた。
 しかしここで注意しておかなくてはならないことは、当時調査された民家が近世の封建時代に建てられた物件に集中しており、社会背景に影響を受ける事柄を定義できたこと、つまり社会軸といった未知数を減らすことが比較的容易であったことがあげられる。具体的にいうと、封建社会は身分階層を生みこの差別は家柄だけでなく建築にもあらわれるため、反対に建築の規模や形式で民家を階層の違いに分けることができた。同等民家のグループで比較検討することで、未知数を減らしたのである。
 現在はもちろん封建的な束縛はなくなり、これに加え空間的、時間的な観点も考慮せずに自由な住宅が建築されるようになっている。現在の建築からは、職業はもとより、時代や地域性をもよみとるのは不可能に近いといえる。
 今回調査対象とした民家が建築された時代は、封建社会が崩壊し、新しい時代へと激変する時代の過渡期にあたる。社会背景を江戸時代のような封建社会に定義することも、近代とすることもできない難しい時代である。近世から近代へと移り変わる時代に建築された民家の編年研究をおこなうには、今までのような封建社会を前提とした方法論では限界が生じる。これからは、過渡期をみる新しい方法論を生み出さなければならないと考える。
 
図表12 「近代」を前近代からと現代からみる
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 当然、激変する時代ではあるが封建的な要素が急激に消滅するわけではなく、その名残はある時代まで残ると考えられる。封建的な要素は次第に薄れ、新しい社会に影響された要素に姿を変える。あるいはこれと平行して近代の全く新しい要素が別の流れとして誕生する場合もある。さまざまな要因が入り混じり、複雑な建築要素を生み出すのである。これをよみとるのは容易なことではない。
 今までの方法でわかるのは、古い要素がどの時代まで残るのかということである。しかし江戸時代が崩壊したこの時代では、年代が下るにつれその要素は薄れ、あいまいなものになる。必要なのはこの考察に加え、新しい近代の要素がどこから始まるのかを探りながら時代を遡る観点である。その両視点を同時に持つことが、この時代をよみとる手がかりとなる。
 
*太田博太郎他「今井町民家の変遷」
「日本建築学会論文報告集」昭和33年
**「神奈川県における近世民家の変遷 藤野町牧野の場合」
 昭和33年 神奈川県








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