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2 町家の編年
編年の時代範囲
 本節では、実測調査をおこなった町家14件について編年考察をする。建築年代が判明した、最も古い町家は[2]山崎本店酒造場(以下、小松屋とする)・弘化5年(1848)、新しい町家は[13]宮崎商店の上手半部・昭和6年(1931)である。この年代の差は約100年間で、この間に建てられた町家の変遷を追うことになる。100年間で町家の変遷を読みとるにはやや短く難しいが、この時代は江戸時代末期から明治・大正時代を経て昭和初期にわたり、封建社会が崩壊し近代化へ向けて激動した時代でもある。こういった社会背景の中で成立した島原の町家には建築的変遷が顕著にあらわれる可能性が高い。
編年の条件
 江戸時代は封建社会であり家柄や身分、格式等に縛られ、これが建築の規模や形式、材料などにあらわれていることが多い。身分、格式の違いによって、建築が同時代に別の変遷をあゆむ場合があるため、編年の条件としてまず格式別に分けることから始める。
 しかし、ここで対象としている時代は、近代へと移行する社会背景に伴い、封建的な習慣が薄れ、身分や格式を建築に表現するといった点を、江戸時代と同様に定義することができない。つまり、指標となる要素が時代の変化によるものなのか、階層の違いによるものなのかを判断するのが難しい時代である。
 したがって本論ではまず同一条件上で、全ての町家を考察し建築要素を導きだした。そのあとに、この指標が年代を示すものなのか、階層を示すものなのかを検討したうえで編年考察をおこなう。
上手と下手で建築年代の異なる町家
 調査した14軒の町家の中に、後世の改造により上手と下手で建築年代が異なる主屋を4軒確認した。つまり、上手か下手のいずれかをそのまま残し、これにもう一方を接続させて建て替えをおこなっているのである。これらの事例は、上手下手それぞれが各年代を示す形態を維持しているので、編年考察をする場合は各部ごとに個別に扱う。
 また、[9]猪原金物店は古い建物を活かした店舗が、現在人々に親しまれ、町内のシンボルになっている。この建物は後世の改造により建築年代の異なる3棟の建物を繋ぎ合わせ、規模を拡大している。大きな改造を重ねたため建築当初の姿を読み取れず、編年考察か他の町家と同一条件でできないため、編年考察の資料からは除外した。
編年の手順
 編年考察は、まず棟札等により建築年代が判明した町家を年代順に並べて、これを基準とした。これらを比較検討し、年代を示す指標を導きだした結果によって、建築年代が明確でない町家の年代を推定していく。そして島原の町家の変遷を追うとともに、島原の町家の特徴を明らかにする。
編年の指標
<内法高>
図表11 桁高と内法高
実測記号 建物名(屋号) 建築年代 桁高 内方高 座敷
天井高
[8] 中山公家下手 江戸末期 13.90 5.66
[2] 小松屋 弘化 5年 18.54 5.71 8.98
[9] 猪原金物店 万延 2年 15.01 5.66 7.43
[1] 宮崎康久家上手 江戸末期 17.23 5.70 8.46
[6] 樋口正郎家 江戸末期 17.33 5.69 9.13
[5] 本多智家 江戸末期 15.12 5.71 8.73
[14] 保里川茂治家 江戸末期 16.88 5.69 9.11
[4] 本田亘家 明治14年 17.72 5.71 8.88
[8] 中山公家上手 明治18年 18.12 5.70 8.75
[13] 宮崎商店下手 明治39年 17.49 5.72
[3] 西川俊治家 明治42年 17.16 5.72 8.71
[7] 星野國盛家 明治後期 約14.36 5.69 9.04
[11] 清水強家 明治後期 未調査 5.78 8.89
[1] 宮崎康久家下手 大正 6年 17.31 5.71
[12] 中野金物店 大正 約21.00 6.01 10.15
[10] ギャラリー絃燈舎 大正 8年 20.92 5.71 8.02
[13] 宮崎商店上手 昭和 6年 6.01 9.13
([9]) 猪原金物店
洋トラスの建物
大正〜昭和 21.06
○=有る ×=無し △=幅いっぱいに地袋がないもの 単位(尺)

 内法高が5尺7寸前後と、それ以下、それ以上に分けることができた。ここでいう「5尺7寸前後」とは、5尺6寸8分から5尺7寸2分の範囲をいう。大工は建物を建てる際に、高さ関係の寸法を印した矩計棒(実寸のものさし)をつくる。設計寸法が5尺7寸のときの、大工によって生じる矩計棒の目盛差を前後2分とし、これを含んだ範囲を5尺7寸前後とした。
 5尺7寸前後より低い内法高の町家は[8]中山公家の下手半蔀のみであった。
 5尺7寸前後の町家は、[2]小松屋、[1]宮崎康久家、[6]樋口正郎家、[5]本田智家、[14]保里川茂治家、[4]本田亘家、[8]中山公家の上手半部、[13]宮崎商店の下手半部、[3]西川俊治家、[7]星野國盛家、[10]ギャラリー絃燈舎、である。
 内法高が5尺7寸前後より高い町家は、[11]清水強家、[12]中野金物店、宮崎商店の上手半部である。
 まず5尺7寸前後以下の町家として1棟しか例のない中山公家の下手半部ついて考える。当家は内法が5尺6寸6分と、他の町家に比べて特別に低い。ここで、[9]猪原金物店・万延2年の内法が中山家下手同様5尺6寸6分であることに注目すると(図表11)、江戸時代の古い遺構と考えることもできる。しかし、他に江戸時代建築の小松屋の内法がこれほど低くないことに、やや疑問は残る。
 5尺7寸前後の町家は、古いもので弘化5年の小松屋から、新しいもので大正8年のギャラリー絃燈舎まで、各時代に分散しているように思える。しかし、他の編年指標を全て総合して町家を年代順に並べると(図表3)、星野國盛家を境にして、前後異なる特徴を示した。星野國盛家以前はすべて5尺7寸前後に当てはまり、5尺7寸が内法の基準と考えられていた。これ以降は5尺8寸から6尺前後の町家があらわれ、寸法にばらつきがでる。
図表3 調査地区島原街道筋の町家の編年表
実測番号   建築年代 規模
桁行×
梁間
内法高
(尺)
土間境
太い柱
仏間
位置
正面下屋深さ 和釘 主体部外正面に出る小座敷 屋敷構え 階段位置 構造 軒塗込め 向き 床構え
○5.6前後

○5.7前後

○5.8〜6.0前後
○無

×有
○突出部 △上手表 ×その他 ○2間

△1間半

×1間

×’半間
○使用

×未使用
○無

×有
○Aタイプ

△Bタイプ

×Cタイプ
○主屋中央

△土間境

×その他
○つし

×二階
○有

×無
○大壁

×真壁
○平入

×妻入
○床が床脇より広い

×床と床脇幅が同じ
[8] 中山公家 下手 江戸末期 7.5×2.5
[2] 小松屋 弘化5年 9×4 ×
[1] 宮崎康久家 上手 江戸末期 6.5×3.5 (△)
[6] 樋口正朗家 江戸末期 8×2.5 ×
[5] 本田智家 江戸末期 5×3 ×
[14] 保里川茂治家 江戸末期 7.5×4 × × ×
[4] 本田亘家 明治14年 9.5×4 × ×
[8] 中山公家 上手 明治18年 7.5×2.5 (△) ×
[13] 宮崎商店 下手 明治39年 4.5×4 ×
[3] 西川俊治家 明治42年 6×3 × × ×
[7] 星野國盛家 明治後期 5.5×3 × × ×
[11] 清水強家 明治後期 6.5×3.5 × × × ×
[1] 宮崎康久家 下手 大正6年 6.5×3 × × (○) (○)
[12] 中野金物店 大正 3×5 × × × × × × × ×
[10] ギャラリー絃燈舎 大正8年 5.5×2.5 ×' × × × × × × × ×
[13] 宮崎商店 上手 昭和6年 6×2.5 × (△) × (○) (○) × × トタン貼 ×

・指標はより古い年代をあらわすものから順に並べた。
・指標「屋敷構え」のAは「正面前坪庭付平入町家型」、Bは「正面全下屋付平入町家型」、Cは「妻入町家型」
・主屋で上手と下手で建築年代が異なるものは分けて考察した
・指標によって、上手と下手で分けて考察できないものは、上手と下手のうち古いほうを基準とした。
・-は指標に無関係なもの (記号)は古い半部を基準としたもの 特は特別な形式なもの ?は調査不可能、未確認のもの。

 したがって内法高5尺7寸を意識して建てたのは明治前期までで、その後、この基準が崩れるとともに内法高が高くなる傾向にあるといえる。

<土間境の太い柱>
図表10 主屋規模でみる土間境の太い柱の本数と寸法
実測記号 建物名 建築年代 規模(間)*1
桁行×梁間=面積
本数 断面寸法
[2] 小松屋 弘化 5年 9×8.5=76.5 2本 9寸・2本
9寸・1本
[4] 本田亘家 明治14年 9.5×7.5=71.3 5本 8.5寸2本、6.7寸
8寸、7.3寸、7寸
[6] 樋口正郎家 江戸末期 9×6=48.0 4本 6.5寸
[14] 保里川茂治家 江戸末期 7.5×5=37.5 2本 8寸、7.7寸
[11] 清水強家 明治後期 6.5×5.5=35.8 2本 7寸、6.5寸
[1] 宮崎康久家下手 大正 6年 6×5.5=33.0 * 2 3本 5.8寸、5.7寸、5寸
[7] 星野國盛家 明治後期 6.5×5=32.5
新建材貼付で不明
[3] 西川俊治家 明治42年 6×5=30.0 1本 5寸
[5] 本多智家 江戸末期 5×6=30.0
下手切断のため不明
[13] 宮崎商店下手 明治39年 4.5×6.5=29.3 * 3 2本 6.7寸、2本
[8] 中山公家下手 江戸末期 7×4=28.0 0本
[12] 中野金物店 大正 3×6.5=19.5 0本
[10] ギャラリー絃燈舎 大正 8年 6×3=18.0 0本
*1 主屋規模は下屋も含む。
*2 規模は主屋全体の規模。
*3 上手と下手で建築年代の異なる町家は、下手で表記した。

 土間境に他の柱より太い柱が何本かある町家と、ない町家があった。ここでは、太い柱の有無に注目した。なお、太い柱の本数や断面寸法は100年間の変遷に影響するものではないと判断し、これに関する考察は後に述べる。
 調査した町家の14軒中、11軒が土間境に太い柱を1本以上持ち、持たない町家は[8]中山公家の下手半部、[12]中野金物店、[10]ギャラリー絃燈舎の3軒のみである。ギャラリー絃燈舎の大正8年建築は明らかで、中野金物店も同時期の建築であることはほぼ間違いない。土間境に太い柱を持たなくなるのは大正期の新しい要素と考えられる。
 しかし中山公家に関しては、上手半部のほうが新しく棟札から明治18年の建築がわかっているため、下手半部は少なくとも明治18年以前の建築は明らかで、部材の風喰状態から考えても年代は江戸時代まで遡ると考えられる。中山公家の下手半部に太い柱がないことは、むしろ太い柱を持つ時期を越えてさらに古い時代の指標として考えた。

<仏間の位置>

図表4 仏間位置の変遷
z0040_01.jpg
小松屋↓
z0040_02.jpg
保里川茂治家↓
z0040_03.jpg
清水強家↓
z0040_04.jpg
中野金物店
 
 聞取りによる復原から仏間の位置に注目すると、主屋正面上手に突出させる部屋、主屋主体部の上手表側の部屋、これ以外の部屋、の3ヶ所に分類できる。
 主屋主体部の上手正面に小部屋を突出させてこれを仏間とする町家は、最も古い[2]小松屋と[1]宮崎康久家の2棟である。
 主屋主体部上手表側に仏間を配する町家は、[8]中山家、[6]樋口正郎家、[5]本田智家、[14]保里川茂治家、[3]西川俊治家、[7]星野國盛家、[13]宮崎商店がある。
 これ以外の位置に仏間を配する町家は、[4]本田亘家が主屋上手裏側に、[11]清水強家は中央列裏側、[12]中野金物店は2階に仏間を配する。
 主屋正面に突出させて仏間をつくる形式は、最も古い小松屋の事例からもわかるように、江戸時代の指標として考えられる。2畳から3畳ほどの小さな一室を、あえて主屋主体部から突出させるといった独特な町家の発展過程には、何らかの特別な要因が関わっていると考えるのが妥当であろう。要因のひとつとして、キリスト教禁制の歴史が結びつく。突出する仏間は、キリスト教が厳しく弾圧された島原で、仏教徒であることつまりキリシタンではないことを強く表現したものであり、島原特有の建築文化として位置づけることができる。
 一方、キリスト教が解禁になるのは明治6年である。キリスト教が解禁になると仏教徒であることを強調する必要がなくなり、仏間は主屋主体部に入り込み、主屋主体部分に入り込んだ上手表の部屋に移行する。さらに年代が下ると、主屋裏側や二階に仏間を配する町家があらわれる。
 
<主屋正面に付く下屋の深さ> 図表3

 島原の伝統的町家は主屋の正面と背面に下屋をおろすが、ここでは、街道に面した屋敷構えに関わる正面の下屋のみに注目した。下屋は深いもので2間以上、浅いもので半間と様々である。
 下屋の深さが2間以上の町家は[2]小松屋、[6]樋口正郎家、[5]本田智家である。1間半の町家は[8]中山公家、[1]宮崎康久家、[4]本田亘家、[13]宮崎商店、[3]西川俊治家、[11]清水強家である。1間の町屋は[14]保里川茂治家、[12]中野金物店である。半間の町家は[10]ギャラリー絃燈舎のみである。
 大きな流れで考えると、年代が古いほど下屋が深い傾向にある。主屋正面に2間もの深い下屋をおろすのは江戸末期までで、1間半の下屋は明治期で主流になり、半間の下屋になると大正期に入る。
 島原街道筋の伝統的な町家は比較的大きな敷地を持つため、街道から主屋を後退させて前面に深い下屋を下ろしたり坪庭をつくるなどの空間的余裕があった。地割が細分化されるようになると、狭い敷地いっぱいに本二階建の町家を建てるため下屋は浅くなる。
 
<和釘(角釘)と洋釘(丸釘)> 図表3

 現在、建築に一般的に使われている釘は断面の丸い釘である。本論ではこれを「洋釘」とする。この洋釘が日本で普及したのは明治時代のことである。安政5年の開国を皮切りにさまざまな文化や技術が流れ込み、日本は近代化へと動きだす。日本で始めて洋釘が輸入されたのが明治初期のことで、その後明治10年代には輸入による洋釘が全国的に普及する。明治31年には安田製釘が創業、日本で初めて洋釘が製造・販売され、その後、大正時代には洋釘の輸入はほとんどなくなり、国産の洋釘の使用が一般化する。
 洋釘が普及する以前、我が国で使われていた釘は四角い断面の「和釘」であった。和釘は、鋼を手で打ち、1本1本作りだすといたった手間のかかる仕事のうえ安いものではなかった。釘の需要が増大した明治時代、洋釘は安価で大量に自国で生産できるようになり、またたく間に全国へ普及した。そして和釘は一気に姿を消すことになる。
 つまり使用されている釘が、和釘か洋釘かで、洋釘が全国に普及した明治10〜20年代以前の建築かそれ以後かを推定できる。
 今回の調査の結果、和釘を使用した町家の中で最も新しいものは[4]本田亘家・明治14年(1881)で、これ以降の町家に和釘の使用は認められなかった。この4年後に上棟した[8]中山公家の上手半部・明治18年(1885)はすでに洋釘を使用している。したがって島原の和釘使用の下限を、ほぼ明治14年とすることができた。
 和釘の使用を確認できた町家は[8]中山公家の下手半部、[2]小松屋、[9]猪原金物店、[6]樋口正郎家、[5]本田智家、[14]保里川茂治家、[4]本田亘家であった。
 洋釘を使用し和釘を確認できなかった町家は、[8]中山公家の上手半部、[3]西川俊治家、[7]星野國盛家、[1]宮崎康久家の下手半部、[12]中野金物店、[10]ギャラリー絃燈舎、[13]宮崎商店の上手半部である。
 なお、[1]宮崎康久家の上手半部、[13]宮崎商店の下手半部、[11]清水強家は、和釘か洋釘かが未確認である。








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