第3章 旧吉田宿活性化の方向性
1 何故、旧吉田宿を活性化する必要があるのか?
(1)仮説:衰退過程に歯止めがかかった旧吉田宿
<吉田宿の成立>
武蔵国を治める秩父氏の居館として、11世紀に始まる。
<江戸時代>
18世紀後半には秩父盆地最大の宿場として栄えるが、その後徐々に旧大宮郷(現秩父市中心市街地)へ賑わいが移行する。
<明治・大正時代>
荷駄業の継地として、流通物資集散の場所として、中心集落としての地位を維持する。
<昭和時代>
宿場機能が消失し、大火後の経済成長期に、周辺市町の中心市街地が拡大する中で、相対的な中心性が失われる。
<平成時代>
住民の高齢化、まちなみの老朽化が進み、自治体の広域化が始まれば、存在価値が希薄化して衰退が早まることが予想される。
しかし
吉田町では、桃山時代から伝えられているといわれる椋神社の例大祭「龍勢」を柱に据えて、独自のまちづくりを進め、旧吉田宿では町民の発意により、旧武毛銀行本店を活用した創作活動の発表「はじめ一歩展」「二歩展」「三歩展」が開催され、活性化の取り組みが始まりつつある。
(2)活性化の必要性
<吉田町民の縁(よすが)を結ぶ場所として>
旧吉田宿に住まう人、業を営む人にとっての自己実現の場所としてはもとより、「龍勢」に代表される独自の地域文化を育んできた、吉田町民にとって共有の「吉田人の縁を結ぶ場所」として、活性化しつづける必要がある。
<秩父広域ネットワーク上の魅力ある場所として>
秩父広域内の中心市街地間競争の時代から、中心市街地の連携による魅力ある広域ネットワークが求められる時代の中で、吉田町が目指す「暮らしいきいき心なごむ里」の中心として、広域ネットワークの中の個性的な拠点として役割を果たす必要がある。
<町民と民間企業と行政の協働事業展開の場所として>
旧吉田宿の歴史的建築物を活用した町民の発意や、歴史的建築物で操業を続ける民間企業、地元の商店をはじめ、多くの町民や町外の人々とともに旧吉田宿の活性化に取り組むことにより、吉田町が目指す町民と行政の協働を実現し、吉田町に新しいまちづくりのしくみをつくり、全町の活性化につなげる必要がある。
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▲町民発意の活動を伝える新聞記事