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2 旧吉田宿のまちなみ形成史
○武蔵国の中心地<秩父氏館が立地した中世>
 旧吉田宿の集落形成は、11世紀の終わりに秩父武基が下吉田の台地に居館を構え、以後5代に渡って秩父氏館となった時代にさかのぼる。曲の手に流れる吉田川と、そこに流れ込む山女沢に浸食された台地は南部を除いて天然の要害をなし、前方はるか「武甲山」をのぞみ、秩父連山が囲む、居館として適した地であった。3代目の重綱から6代目の重忠まで、武蔵国全体の荘官は秩父氏に統率されており、吉田館は中世において武蔵国全体の政治、経済、文化の中心地となったことが推察される。
○秩父地域で最も栄えた宿場町<物資集散地としての発展した近世>
 江戸時代に入ると秩父街道の宿場町である吉田宿は上信方面の継場、宿場として重要な役割を果たし、18世紀後半頃は秩父郡内の宿場町で最も栄えた。しかしながら、江戸末期になるにしたがい大宮郷(現秩父市)の商人の勢力が増大し、吉田宿の繁栄は次第に大宮郷の方へと移っていった。
○新しい商店街への転換<蚕糸業の盛衰と共に歩んだ近代>
 秩父地方では古くから養蚕で業をなしていた。明治以降、生糸輸出の好況により旧吉田宿においても生糸を中心とした取引により栄えたが、一方で生糸の価格変動は農民の生活を左右し、松方デフレ等による価格の下落は秩父事件勃発の要因ともなった。
 明治末年から大正期にかけての吉田宿は荷駄業の継場として流通物資集散の場所であるとともに、生糸や絹を生産し、換金して生活用品に変えるための中心市場となり、新たな商店街へ移行する時期にあったと言える。
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▲明治30年代の吉田宿(画:青葉左一氏)
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▲大正末年の吉田宿のまちなみ(画:青葉左一氏)
○中心性の喪失<高度経済成長に取り残された現代>
 昭和32年2月、吉田商店街上町より突如火災が発生し、旧武毛銀行や東亜酒造の店蔵など一部を除いて全焼する大火に見舞われた。
 まちなみは多くの救援により復元されたが、養蚕の衰退に代わる新たな産業を見出すことができず、その後宿場町としての機能が低下していった。また、自動車の普及により、日常的な買い物や都市的サービスの面においても川と斜面に挟まれた狭小な地形による駐車場不足や道路付けの悪さによって、競合する近隣集落に比べさらに中心性を喪失していった。
 宿場時代は各町40戸程度で安定していたまちなみも、本町では一時20戸程度まで減少した。
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▲昭和32年大火の被災状況(吉田町史)
○変革を迫られる旧吉田宿<試行錯誤の今日>
 近年、旧吉田宿周辺における町営住宅の建設と民間の建売住宅によって、本町の人口は増加し、仲町においてもほぼ横ばいとなっている。しかしながら、新しい住民のほとんどは集落外部に様々な機能を求める傾向にある。また、旧吉田宿では自動車で利用できる商店や求心力のある施設もなく、バイパスの建設が進み、商店街の衰退は決定的となっており、一度失った中心性の回復にはつながっていないのが現状である。
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▲旧吉田宿の人口変動








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