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2.町づくりへ
(1)町並み保存の目標
 町並み保存の目標は、貴重な文化財としての歴史的町並みを保存することだけではない。いきいきとしたコミュニティを維持・再生・強化することが、それと同等、あるいはそれ以上の目標とならねばならない。市民生活の中心になるべき都市の核を維持・再生し、地域社会を活性化することでなければならない。そうしてはじめて、歴史的な資源がもっとも生き生きとした形で、私たちの生活の中で使われる。本当の意味での保存が達成される。伝統的建造物群保存地区を設定することは、達成しなければならないハードルであるが、それだけで町並み保存が全うされるわけではない。
 それにしても、黒石の中心市街地の状況は厳しい。人口は一貫して減少を続けている。黒石市全体の人口も1980(昭和55)年をピークにわずかづつ減少を続けているが、中心市街地の人口の減少のスピードはそれをはるかに上回る。商業も厳しい。黒石の商圏は、弘前や青森に商圏を奪われ続けてきた。そして1994(平成6)年の調査ではついに、黒石市じたいが黒石市の第一次商圏(販売額のシェアが50%以上の地域)ではなくなったのである。今や、黒石市は黒石市の第二次商圏(30 49.9%)であり、商圏内にとどまる町村におけるシェアも30%以下の第三次、第四次商圏である。とくに中心市街地の商店は、商店数、販売額ともに減少している。なかでももっとも目抜き通りであった一番町通りの商店数、販売額の落ち込みが激しい。1997(平成9)年3月には、中心市街地随一の大型店マイカル黒石店が撤退した。地下1階、地上4階、延べ面積1万2650平方メートルをほこる寄り合い百貨店・大黒は1992(平成4)年12月に「ふれあいストリートDAIKOKU」としてリニューアル・オープンを果たしたが、現時点で一部のフロアが空き床となっている。
 このような中で、こみせを特徴とする歴史的な街区を修復し、居住人口を回復するとともに、市民生活の中心の場として整備・再生すること、および観光客をひきつけることは、中心市街地再生、いや黒石再生の切り札と言うべきであろう。一般的な買い周り品で周辺都市や郊外大型店にかなわないとしても、観光によりこれまでの商圏とは異なった広域から来街者をひきつけることは、黒石にしかできないいわば独断場であり、大きな経済効果をもたらすはずである。現在のところ、黒石の町並みはガイドブックなどでもまだそれほど大きく取り上げられていない。観光は、黒石にとってまだまだこれから可能性のあるマーケットなのである。
 町並み保存を、このような町づくりとして展開していくためには、ふたつの条件が満たされている必要がある。第一は、町並みを手がかりに町づくりを進めるという住民・市民の幅広い合意があることである。伝統的建造物群保存地区になることの合意形成はもちろん、将来の町の姿についてビジョンの共有すること、そして協力しあう基盤を構築することが必要である。第二は、衰退気味の町の中で、必要・適切な「開発」を実践していく意志をもった主体があることである。
 幸い、黒石ではこのふたつの条件が満たされつつある。
(2)合意形成
 20年前の1984(昭和59)年にまとめられた町並み報告書では、「関係住民の意思統一」について、アンケート調査で保存賛成の意見が31人中71%に達したにもかかわらず、調査の期間中の住民の反応などを総括して「関係住民の大半が、原則的に保存賛成の態度を示しているとしても、完全な意志一致までには、なお、かなりな年月を要するものとみるべきだろう」と慎重な結論を下している。今回の調査では、とくに住民の意見を聞くアンケートなどは行っていない。しかし、いくつかの状況証拠は合意形成の時機が熟していることを示している。
 第一は、決定的な状況の変化だ。1984年の町並み報告書は、住民の意思統一が困難な理由を、中町地区が中心商店街の一部を構成する商業地であること、「生活プラス営業の場」であること、住民の職業が多様であることに求めている。しかし、中町は今や当時の意味での商業中心ではなくなっている。
 第二に、1984年の調査以降、繰りかえし住民を巻き込んだ町づくり活動が取り組まれてきた。すでにそれらの成果を引用してきたが、改めてまとめると次のようなことが行われてきた。これらの中で、繰り返しこみせの重要性が主張されてきた。
・1983(昭和58)年度:伝統的建造物群保存調査
・1990(平成2)年度:都市拠点総合整備事業(定住拠点緊急整備事業)
・1994(平成6)年度:特定商業集積整備基本構想
・1996(平成8)年度:こみせ通り街路基本計画
・1997(平成9)年度:横町活性化実施計画
・1998(平成10)年度:中心市街地活性化基本計画
・2000(平成12)年度:商業タウンマネージメント構想
 現在、この調査と平行して住民たちの「こみせ保存会」の組織化が進められている。関係住民の意思統一は、調査の段階ではなく、黒石市はじめ町並み保存の意志をもった人々が不退転で取り組む段階にきているのである。
(3)町づくりを実行する体制
 黒石では、市民が主体的・能動的に町づくりのための「開発」へ取り組む体制もできている。2000(平成12)年6月27日に設立された第三セクター「津軽こみせ株式会社」がそれである。同社は、中心市街地活性化法にもとづくTMO(タウンマネージメント機関)の役割も果たしている。全国で設立されているTMOの大多数が商工会議所におかれ、もっぱら企画・調整機関に徹している中では特異な存在であり、具体的な事業に取り組むことこそ重要と考えた関係者の意欲と意志がうかがわれる体制である。
 黒石市の中心市街地活性化基本計画は、1998(平成10)年11月に第一回委員会がもたれ、報告書は翌年7月に発行されている。同計画が、とくに交通計画について詳しく検討していることは前述の通りである。全体としては、[「こみせ」が輝き、「真の豊かさ」を実感できる街こみせを核にしたまちづくり]をまちづくりの基本コンセプトとし、プロジェクトの選定と今後のTMO体制について検討が行われている。こみせ通りに関しては、「こみせの再生・修復」を建築協定又は地区計画によって、「こみせを演出する道路整備」を建設省の生活環境整備事業(くらしの道づくり事業)によって、短・中期的に取り組むとしている。
 この基本計画を受けたTMO構想は、商工会議所が1999(平成11)年春より取り組み、1年をかけて成案を見た。そしてこの構想を実施する主体として、黒石市、商工会議所、日専連津軽、横町向上会、こみせ通り商店街振興組合などの団体をはじめとする出資者116名によって、資本金5000万円で第三セクター・津軽こみせ株式会社が設立されたのであった。会社は、かつて市民有志がマンション建設を阻止すべく買収し、「こみせ駅」「こみせ会館」を運営していた建物(鉄骨2階建て)に事務所を構えた。そして、この建物を活性化拠点施設として整備する事業を最初の仕事として取り組んだ。黒石の物産を集めた売店と津軽じょんがら節の演奏を聴きながら食事のできるスペースを備えており、展示や津軽じょんがら節の教室なども開催されるカルチャー施設で、「津軽こみせ駅」として2001年7月にオープンした。
 TMO構想には、このほか、以下のようなプロジェクトがあげられている。
・商店街整備事業(横町・中町・前町・上町・一番町)
・店舗集団化事業(横町・前町)
・既存施設の活用(松ノ湯、土蔵、屯所など)
・商店街空き店舗の活用(まちづくりサロンの設置と空き店舗出店促進)
・大黒再生事業(市ノ町)
・大規模空き店舗の活用(乙徳兵衛町、住宅の整備も行う)
・まちかど広場等の整備
・まちづくり協定の策定(こみせ条例制定をめざす)
・「津軽こみせ」新商品開発
・共同イベント事業
・街なか情報発信事業
・ゲストハウス整備・運営事業(こみせ通りの伝統民家を宿泊施設として活用)
 このうち、「まちづくり協定の策定」の具体的展開が、今回の町並み調査に相当する。あげられている事業の対象はこみせ通りだけではないが、実施されれば、伝建地区による町並みのコントロールや建物の修復・修景事業と連動して大きな成果があがると期待される。課題は、市民・住民の参加を実現するフォーラム機能と、機動的な判断が必要な会社の経営とをどのように両立させることができるかであろう。会社がTMOであるということは、このふたつをひとつの組織のなかに抱えてこんでいるということである。フォーラムと会社が緊張関係を保ちつつ、相乗効果を生み出すような組織体制の工夫が要請されるところだ。
 しかし最大の課題は、事業としての採算性であろう。確かに経済情勢はよろしくない。おそらく先駆例として念頭に置かれている長浜市の株式会社黒壁の事業開始が1988年という好景気のまっただ中であったことも頭をかすめる(もっとも当時の長浜市の中心商店街は1時間に犬一匹というさびしい状況にあった)。しかし、このような状況だからこそ、ほかの選択肢はないのである。経営者側のふんばりや創意工夫、市民・住民の暖かい支援、そして行政の的確な施策が期待されるところだ。
 伝統的建造物群保存地区とともに、住民主体のディベロッパーが町づくりの推進を担う仕組みは、おそらくこれからの歴史的町並みや中心市街地再生の切り札となっていくであろう。黒石の実践はそのモデルとして、未踏の荒野を切り開いているのである。








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