基本計画、実施計画、実施競技、開催市町村の決定過程
1.ラハティ大会視察
97年6月の組織委員会発足時、大まかな事業費の試算はあったものの、ワールドゲームズを実際に見たことのある関係者は県内におらず、秋田大会の具体的なイメージは描けなかった。基本計画策定のためのモデルは全くない状態でのスタートだった。こうした状況の6月中旬、三浦事務総長ほか組織委員会と県推進室職貝合わせて5人、それにアドバイザリー契約業者3人が1週間にわたってラハティ市の準備状況を視察。同年8月7日〜17日の大会には林会長ほか多くの役職員が視察し、大会後にはラハティ市組織委員会からのヒアリングも行うなどしてアウトラインの把握に努めた。
ラハティ市は世界ノルディックスキー選手権などの競技大会やGAISF総会などの開催経験があり、2006年冬季オリンピックの正式立候補に向けて準備を進めているなど国際スポーツ都市を標榜していた。しかし、ワールドゲームズは初めての夏の大会で、しかもIWGAからの強い要請を受けた代替開催地であり、準備期間も2年半しかなかったことなどから準備不足は否めず、予想していた「国際大会」とは様相がかなり違っていた。約100キロメートル離れた首都ヘルシンキはもとより、人口10万足らずのラハティ市内ですら関心はそれほど高くなく、観客席に関係者しかいない競技会場も少なからずあった。本県からは県議会議員はじめ200人を超す視察団が訪れたが、ワールドゲームズそのものに否定的な印象を持った人も多かった。
2.実施競技、開催市町村の決定過程
組織委員会設立時の基本方針として
(1) 公式競技については県内で開催可能な限り全競技を実施する。
(2) 公開競技については日本国内および秋田県内で人気の高い競技、実施することが極めて有効と思われる競技の中から5競技程度を実施する。
この2点が確認されていた。ワールドゲームズの基本理念として、開催地は施設のない競技について実施を断ることが出来る。加えて、費用がかかりすぎないことを条件に実施競技を絞り込むことにした。
一方、開催市町村については
(1) 全県を対象とした希望調査を行う。
(2) 秋田市および雄和町についてはそれぞれ八橋運動公園および県立中央公園をメーン会場に設定する。
この2点が組織委員会設立時の基本方針だった。97年10月、県内全市町村に開催意向調査文書を発送。11月の締め切りまでに17市町村から競技名も盛り込んだ開催希望が寄せられた。12月、第1回調整委員会のため来県していたIWGA役員がこの17市町村に足を運び、施設も視察した。さらに98年1月には、開催希望を表明した全市町村と公式競技の県内団体への説明会を開催。諸条件を提示の上、個別に意向確認を重ねた。
第2回調整委員会には会場候補地として12市町村、公式競技候補としてIWGA加盟31競技を課題の有無によって2つに分類して提示した。IWGAからは全選手が一堂に会して交流することも総合大会の重要な要素であり、そのためにも1時間程度で移動可能な範囲に絞りたいとして県北地域の開催に強い難色が示された。第3回調整委員会でペロタ・ヴァスカ、ラケットボール、サーフィンの3競技を実施競技から除外、ネットボール、パラシューティング、ラグビー、スカッシュについては引き続き検討課題としたほかは基本的に実施の方向とした。パラシューティングの選手輸送に防衛庁の全面的協力が得られるめどがついたことから、第4回調整委員会でこれら4競技についても実施の方向を確認した。これを踏まえて99年10月、大阪でのIWGA総会出席のため来日した秋田大会参加予定国際競技団体(IF)の全会長、事務総長を秋田に招待し、それぞれの競技会場を視察するとともに実施に向けての具体的協議を行った。しかしその後、ネットボール、スカッシュについてはIF側から参加辞退の申し入れがあった。
公開競技については、オリンピック、ワールドゲームズいずれにも入っていない競技団体の日本連盟等に参加の意向を確認するなどしたところ、10を超える団体から実施希望が寄せられた。その中から、IWGA正式加盟競技ながら演武のみという特性の合気道はじめ5つの競技の実施が決まった。
3.競技日程の決定過程
競技日程については実施競技がある程度固まった第4回調整委員会以降、競技団体等を通じてそれぞれの競技人口、日本選手の活躍期待度、日本における人気等を勘案し、本格的に原案づくりに取りかかった。基本的には長野オリンピック等の視察結果を基に、日本人選手がメダル獲得の可能性の高い競技を最初に実施し、大会の早い時期に盛り上げを図ることとした。また、平日に実施する競技については、観客の利便性等も考慮して開始時刻を夕方に設定するなど配慮した。その結果、最初の週末には13〜15競技、最後の週末には11競技が行われ、平日も6〜9競技実施されることとなった。
原案は99年秋、秋田で開催した第5回調整委員会、IF会長、事務総長会議で概ね了承を得た。その後、各IFとの調整の結果、若干の微調整を経て最終競技日程が確定したが、一部競技で前売り券発売後に日程変更となり混乱を招いた。
4.基本計画と実施計画の策定について
大会事業費については96年2月、民間主体の招致委員会が県議会スポーツ振興議員連盟に開催を働きかけた際には11億円で可能と説明していた。しかし、開催決定後の試算ではかなり難しいとの判断から、組織委員会設立時に15億円にかさ上げした。
初年度に予定されていた基本計画策定事業は、並行で進めていた実施競技と会場市町村の選定が固まらないまま、大会のアウトラインのみをまとめて98年7月に完成した。その後、公式27、公開5の実施競技を6つの市町村で開催することを盛り込んだ改訂版の基本計画を翌99年1月に決定した。
しかし、大会の知名度は一向に上がらないのにPR活動にほとんど予算を割けず、従ってTV放映権の販売も苦戦を強いられ、開催契約上の義務事項でもある国際映像の制作費も確保困難、スポンサー企業を募ることも無理に近い、さらには15億円の事業費では競技実施だけでもかなり厳しいことが危惧された。このままの状態では、大会の目的である秋田からの情報発信や、県民の自信の発揚、とりわけ次代を担う子供たちに夢を与えるなどは達成困難であると判断せざるを得なかった。
このため再度、上記目的を達成するための最低限の事業費はどのぐらい必要かを精査した結果、およそ25億5000万円が必要であるとの結論に達し、99年秋に開催契約の当事者である県当局に伝えた。これを受けて県は、計画の中身を再吟味の上で県議会に打診したが同意を得られず、精査を重ねた結果、約23億円とすることで2000年2月県議会で了承を得た。
以上の経緯を経て、最終的に県内8市町村で開催することとした実施計画案が同月の理事会において承認された。
5.基本計画の概要(1999年1月策定)
第1 基本コンセプト
・ 競技会と並んで文化イベントも重視
・ 世界との交流と情報発信
・ 地方都市秋田からダイレクトに世界に等身大の日本を発信するローカル・トゥ・ローカルを目指す
第2 大会概要
・ 名称[正式名称]第6回ワールドゲームズ
[通称]秋田ワールドゲームズ2001
・ 開催地 秋田県
・ 運営主体 財団法人秋田ワールドゲームズ2001組織委員会(略称AOC)
・ 参加国 約50カ国(地域を含む)
・ 参加選手数 約3000人(役員を含む)
第3 大会運営
・ できる限り簡潔にし、関係団体、競技関係者、ボランティアの参加を仰ぐ
・ 世界への情報発信の条件整備に力を入れる
・ 入場は原則として有料とする
第4 式典
第5 ボランティア
・ 組織化を図り大会後も地域におけるボランティア活動の普及に寄与するよう努める
第6 財政
・ 総事業費は約15億円
・ 関係自治体には2分の1の負担を求め、残額については民間企業や各種団体、個人からの広告料や協賛金、寄付金などのかたちで確保する
・ 関係自治体からの負担は7億5000万円を上限とする
6.実施計画の概要 (2000年2月策定)
第1 大会の概要
・ 会場市町村
秋田市、雄和町、天王町、大潟村、横手市、六郷町、本荘市、岩城町
・ 参加競技団体
公式競技=22国際連盟
公開競技=5国際連盟
・ 選手役員数
公式競技=約2500人
公開競技=約750人(いずれも役員含む)
・ 参加国・地域 約80
・ 競技数 公式競技26 公開競技5
・ 種目数 公式競技158種目
公開競技11種目
・ 会場 公式競技19会場
公開競技5会場
・ 観客動員計画 26万人
第2 財政計画
収入の部
・ 自治体からの負担金収入 1,549,477千円
・ 民間 750,000千円
大会テーマ
「感動の新しいかたち」を大会テーマと定め、新しい感動を創る、3つのかたちをテーマとした。
●スポーツ大会の新しいかたち
スピード、持久力、体力、技術を極限まで磨いたトップクラスのアスリートたちが世界一を決める競技を通して得られる、スポーツ本来の感動と興奮を大切にします。
スポーツが持つ文化的な側面を再認識し、従来のスポーツイベントにとらわれない全く自由な発想で開・閉会式や表彰式、文化イベントや交流イベントを演出します。
●交流とふれあいのかたち
国や地域、民族や言語を超えて集う選手、役員、観客と地元住民との交流を積極的に図ると共に、活字や電波を通して世界へ情報を発信します。
第6回ワールドゲームズを契機に地球はよりコンパクトになり世界の人々が平和と友好の輪を広げます。
秋田の風土が長年培ってきた「まごころ」を合言葉に、ホスピタリティあふれる大会運営を心がけ、大会に集まった人々がそれぞれの故郷に帰ってから、秋田、日本の良さを伝えるような大会運営をします。
●挑戦と創造のかたち
第6回ワールドゲームズは、新しい競技施設を造りません。
巨大な資金をかけなくても内容の濃いスポーツの祭典は可能であるはずですしそのモデルとなる大会を目指します。それが地域環境とスポーツの新しい関係を築くことにもなります。
また、行き過ぎた華美な運営を極力抑え、秋田という地方都市ならではの等身大の運営を心がけます。
そうすることが21世紀の幕開けを飾るスポーツの祭典にふさわしく、世界中の地方都市と住民に自信と希望を与えると考えるからです。
公式ロゴマーク等
ワールドゲームズ全体のイメージ創りのため、専門デザイナーにより公式ロゴマーク等を制作した。
1.公式ロゴマーク
本大会のシンボルマークとして、競技会場、大会関連施設等に表示したほか、広く統一マークとして使用するため、1998年5月永井一正さんのデザインにより制作した。
世界性を表す地球、赤のAは燃える秋田、緑のWはワールドゲームズの躍動感と秋田の自然を表している。
2.マスコットキャラクター
大会をより親しみやすいものにするため、秋田の伝統行事「なまはげ」をモチーフとして、1999年12月秋田市在住のデザイナー石川貴教さんのデザインにより制作した。愛称は公募の結果、翌2000年1月大曲市立四ツ屋小学校3年(当時)藤田諒君の作品「ナミー、ハギー」に決定した。
3.コミュニケーションキャラクター
「世界の国から、輝く太陽がやってくる。」をコンセプトに、大会に集う人々のコミュニケーションツールとして、1998年K2 (長友啓典さん、黒田征太郎さん) のデザインにより太陽マークを制作した。
4.ポスター
ワールドゲームズのイメージを広くPRするほか、本大会時の演出ツールとしてポスターを制作した。
1)第1弾ポスター
ワールドゲームズの認知度が全く無い時期だったので、ワールドゲームズが秋田で開かれること、世界中から人々が集まる大会があることを告知する目的で制作した。
[1] 制作時期/98年7月
制作枚数/4,500枚
2)第2弾ポスター
ワールドゲームズが、トップアスリートが競い合う国際総合スポーツ大会であることを告知する目的で制作した。
[1] 制作時期/99年9月
制作枚数/3,000枚
3)第3弾ポスター
県民参加型ポスターと位置づけ、デザインを広く県民から公募することにより、ワールドゲームズヘの関心度を高め、大会への参加意識の高揚を図る目的で制作した。デザインは公募の結果、秋田市立四ツ小屋小学校5年(当時)加藤健太郎君の作品に決定した。
[1] 制作時期/2000年10月
制作枚数/3,000枚
4)第4弾ポスター
大会が目前に迫っていることをアピールし、大会期間中も装飾として各箇所に掲示する目的で制作した。
なお、選手・観客等が記念として持ち帰るのにも対応できる制作枚数にした。
[1] 制作時期/2001年7月
制作枚数/10,000枚
音楽制作
ワールドゲームズイメージソングとテーマソングを制作し、大会のイメージアップを図った。CMのほか、本大会で使用した。
1.イメージソング
99年8月21日に発表。秋田市出身のエレクトーン奏者、加曽利康之さんが作曲。「秋田大会」のドキドキ感をはじけるようなリズムにつなげ、これから訪れる出会いと興奮をストーリーにしたインストルメンタル曲。主にCMやPRイベントに使用した。
2.テーマソング「風になれ〜Like A Wind〜」
2001年2月16日に発表。イメージソングをベースにアーティスト、森川美穂さんが力強さや爽快感をモチーフに作詞し、自らポップでパワフルな声で歌い上げた。日本語バージョンと英語バージョンがある。
加曽利 康之
森川 美穂