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I 大会のあゆみ
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総括
1.運営
 外国人が9割以上を占める4,000人超の選手役員が参加し、日本では国際競技会開催実績のないものも含め31競技170種目を、県内8市町村21会場で実施した。しかも、本県にとって国際競技大会の開催経験は、大会9ヶ月前のパワーリフティング世界男子選手権がほとんど唯一という、いわばぶっつけ本番で臨んだ大会だった。だが、期間中は台風11号の接近により一部競技とワールドゲームズプラザの日程を変更しただけで大きな混乱はなく、大会運営に支障を来すような事件事故の発生もなかった。基本計画から実施計画へ移行段階に予算が膨らんだとはいえ、オリンピックはもとより国民体育大会などに比べてもけた違いに少ない予算の枠の中で、効率的な運営を支えてくれたのは3,800人のボランティアだった。
 ただ、宿泊手配の面で若干の混乱があった。宿泊はIF単位を基本原則とし、選手の参加予定数調査を基に宿泊施設の規模に応じた配宿計画を立てた。基礎データとして資格審査申請書と同時提出を求めていたトラベルプランの提出率は1ヵ月前の段階で4割弱であったうえ、パスポート外の役員数が調査とは大きく違ったIFも少なからずあるなどしたため、実際の配宿作業は大幅な変更を余儀なくされた。
2.情報発信
 999日前、500日前、1年前、半年前、100日前と節目節目にPRイベントを実施するなど、知名度向上に最大の努力を払った。秋田県外での効果はなかなか見えて来なかったものの、結果的には取材用IDカードの申請は予想を上回るペースだった。大会直前の7月ごろから全国紙等でも紹介記事が散見されるようになり、8月に入ってNHKが番組宣伝などを全国放送したこともあって、情報発信量は徐々に増えていった。NHKが教育テレビで全国中継した開会式の視聴率は、秋田県内では民放も含め同時間帯すべてのチャンネルの中で最高となり、全国的にも教育テレビとしては異例の高率だった。翌日の主要全国紙も1面で開幕を伝え、地元紙はもとより全国の地方紙も大きなスペースを割いて連日伝えた。これも、配信した共同通信社の予想を上回る掲載率だった。
 特徴的だったのが普通のスポーツ記事としてだけでなく、競技の面白さや選手の人間模様等にスポットを当てた記事や写真が運動面以外にも数多く載ったことだった。
 海外については、放送権を買った局がラハティ大会を下回ったことは残念だった。特に欧州をカバーするスポーツ専門局が条件面で折り合わなかったため、毎日のハイライト映像が放送された国・地域が大幅に減少した。また、北米大陸での放送が今回も実現しなかったことは、ワールドゲームズの大きな課題と言えるだろう。しかしながら、海外放送権販売代理店制作の週1回のスポーツ番組では、2週にわたって紹介された。この番組は世界133局で放送されている。このほか中国、ドイツのテレビ局、ブラジルのラジオ局のほか、活字媒体でも3つの海外通信社をはじめ専門雑誌等が記者を派遣した。秋田から世界への情報発信としては未曾有の量だったと言えるだろう。
3.国際交流
 90を超える国や地域から4,000人を超す選手役員やスポーツ関係者、観客などが集まったことにより、さまざまな国際交流が繰り広げられた。特にワールドゲームズでは選手は一般のホテルなどに宿泊するため市民と触れ合う機会が多く、競技出場前の緊張した時間以外は競技会場でも気軽に観客らと言葉を交わす光景があちこちで見られた。これを一層促進したのが秋田市中心部に設けられたワールドゲームズプラザ。ステージでは県内の伝統芸能やパフォーマンスが披露されたほか、夜は竿灯なども披露され多くの外国人の注目を浴びた。
 外国人選手役員をもっとも身近で世話をしたボランティアの中には、帰国後も彼らと連絡をとり交流を続けている人も少なくない。秋田経済同友会主催の小中学生対象の少年少女語学ボランティアはじめ、子供たちにこうした国際交流の機運が芽生えたのは本県の国際化にとって大きな意義を持つと言えるのではないか。
 世界にはさまざまな考え方の人々がいることを知り、そうした人と数年にわたって交渉を重ねてこれだけのイベントを成し遂げたこと自体、秋田県にとっては貴重な国際交流の機会だった。
4.県民の自信の発揚
 開催決定後もしばらくは、悲観的な見方をする県民は少なくなかった。一つは、秋田でそんな国際大会を開けるのかという見方と、秋田でやるのだから大した大会ではないという見方があった。しかも国際大会としては極めて限られた予算。
 そうした悲観論は、開会式の成功によって完全に吹き飛んだ。多くの会場で客席が埋まり、オリンピックにも引けを取らないという評価もされ、国内はもとより海外でも報道されるなど注目を集めた。多くの幸運にも恵まれたとは言え、ほとんど国の補助もなしに実現できたことで、秋田もやればできるという気運は生まれた。
 なかんずく、そうした高揚感に地元の多くの子供たちに直接触れてもらえたことは貴重な経験となったであろうし、ふるさとを見直すきっかけともなり得たのではないか。それがふるさとに対する自信につながり、より住みやすいふるさとづくりへの新たな情熱を生むことを期待したい。
5.新しいかたちの提示
 ワールドゲームズ自体、肥大化と商業化が批判されたオリンピックヘの反省を基に生まれた。新しいマルチスポーツイベントの在り方を目指して回数を重ねたが、主に知名度不足のために目的達成までは道遠しというのが第5回大会までの状況だった。理念は掲げられているものの、それを具体化する運営方法はほとんど開催地に任せられているといってもいい状況だった。逆にそれが、秋田独自の運営方法をある程度の自由裁量の下で作り上げることが可能となった。
 基本的に既存施設を利用するという大原則に加え、用具器具についても可能な限り競技団体の協力を仰ぎ、スタッフについても、競技に不可欠のものは競技団体の責任で配置してもらい、補助的任務は極力ボランティアに担ってもらうことを基本とした。日本人に馴染みの薄い競技を面白く見てもらうためには、選手の息づかいを感じることができるような距離で観戦してもらうことにしたことも、会場が盛り上がった要因の一つと考えられる。
 新しいかたちのスポーツイベントの在り方はかなりの程度提示できたと思われるが、どの程度のインパクトを与えることができたか、今後の推移を見守っていかねばならない。
 
招致委員会の設立
 秋田にワールドゲームズ開催の話が最初にあったのは、1994年晩秋から初冬にかけてのころと思われる。もともと発端は民間の人のつながりから生まれたもので、年月は関係者の記憶に頼る部分が多い。
 94年10月の国際ワールドゲームズ協会(IWGA)総会で、97年の第5回大会の開催予定地である南アフリカのポートエリザベス市が社会状況の急変により開催が困難となっていることが報告され、代替開催地を12月初めまで募ることが決定された。この総会に出席していた師岡文男AOC常務理事(上智大学教授)が、2001年大会に関心を示していた首都圏の都市などのほか、直前までミネソタ州立大学機構秋田校の初代学長だった諸星裕AOC常務理事(現桜美林大学副学長)を通して秋田にも話を持ち込んだ。しかし、準備期間が短かったため具体的な動きにまで至らないまま、翌95年1月、第5回大会開催地はフィンランド・ラハティ市に決まった。同市は世界ノルディックスキー選手権など国際大会の開催経験が豊富で、2006年冬季オリンピックの開催候補地にも名乗りを上げていた。
 同月、県企画調整部長名で「97年大会にも興味を持っているが、2001年大会の開催を強く希望する」旨のフローリック会表宛の文書をFAXで送った。これに対しフローリック会長からは同月末、2001年大会への立候補を勧める返事が届いた。これを受け民間では4月ごろから、2001年大会招致の可能性などを探る動きが再び活発化した。11月には招致発起人会が設立され事業費等を試算、翌月には招致委員会が発足した。
 
招致決定・開催契約
 しかし、明けて翌96年1月、当時の県知事は開催に消極的な姿勢を示したため、招致委員会は2月末に県知事宛に招致立候補要望書を提出するとともに県議会スポーツ振興議員連盟役員会にも趣旨説明と支援要請を行い、総事業費は11億円でも可能と説明した。翌3月7日、同議員連盟は総会で招致推進を決定。翌日、知事も立候補を正式表明した。
 招致委員会は4月から招致ビデオやポスター、パンフレット等を製作して招致活動を本格的に展開。県も6月補正予算に招致委員会への負担金等の計上作業を始めた。
 4月8日にはIWGAのフローリック会長が初来県、翌月中旬にはコ・コーレン事務総長も同行して再来県した。
 民間のみで構成されていた招致委員会を、行政、競技団体関係者も加えた組織とするため7月25日に第1回拡大招致委員会を開催し、以後これを招致委員会とすることとした。8月11日、フローリック会長から林招致委員会会長宛に「IWGA理事会は秋田招致を受け入れ、年次総会で推薦することを全員一致で採択した」旨の文書が届いた。これを受け県地域開発課はIWGAとの開催契約書、立候補条件書、IWGA規約等の検討を行った。
 10月17日、モナコでのIWGA総会で県知事とIWGA会長とが開催契約書に署名、プレゼンテーションも行った。
 
組織委員会の設立
 2001年大会開催の正式決定をうけて96年10月29日、招致委員会が開催され、開催契約書に基づいて同日付けで招致委員会は準備委員会へ移行することとし、今後の対応方針を話し合った。組織委員会を次年度早い時期に設立することを目標に、開催事業費の積算、県組織と運営主体となる組織委員会の在り方とそれぞれの必要人員、民間資金と行政負担の在り方などを検討課題とした。県の試算により事業規模は15億円に見直され、翌97年5月、県議会開会中のスポーツ振興議員連盟総会で説明した。
 6月3日、秋田ワールドゲームズ2001組織委員会設立総会。会長は林善次郎・招致委員会会長が引き続き務め、理事50人の任意団体としてスタートした。しかし、活動に制約が多いなどから法人化が検討され、翌98年3月24日、民法第34条に基づく秋田県知事認可の財団法人に組織替え。基本財産は7000万円。秋田県が3500万円、民間が14者から合わせて3500万円をそれぞれ出捐した。メンバーはほとんど任意団体から引き継いだ。財団化に伴い、理事会の牽制機関として評議員会も設置。評議員は理事と同数の50人とした。
 理事には大会の招致に賛同した民間企業の代表者、開催会場地の市町村長、日本ワールドゲームズ協会役員等、評議員には県内経済団体、交通旅客関係企業、県体育協会関係者等が就任した。また、文部大臣、外務大臣、日本体育協会会長、日本オリンピック委員会会長等を名誉顧問に、各競技団体の日本連盟代表者を顧問に迎え、体制を整えた。
 
事務局の設置
 組織委員会発足にあたり最も困難を極めたのは事務局スタッフの確保だった。サポート役の県は97年4月、県地域開発課にワールドゲームズ担当者4人を配置、翌5月6日にはワールドゲームズ推進室を発足させた(室長含め6人体制)。
 一方、民間は4月中旬に組織委員会発起人会を立ち上げたが、バブル景気崩壊後の不況の中での人材提供にはどこも難色を示した。結局、5月下旬になって事務局長は林会長の秋田魁新報社から、事務局員は三浦事務総長の秋田日産自動車から出すことでまとまり、スタート後に理事企業を中心に従業員の派遣を要請していくこととした。その結果、10月には加藤建設、11月に北都銀行、12月に秋田銀行、2月に北都銀行から出向というかたちで順次スタッフが加わっていった。
 98年4月で15人だった事務局員は、その後毎年増員し、2000年4月に秋田県ワールドゲームズ推進室と同室となり、2001年4月には大会運営本部体制を見越して、総務部、大会運営部、文化式典部、競技会場部、マーケティング部、広報部の6部体制とし、大会時には総数112人となった。
 
  組織委員会 秋田県WG推進室 業務体制
1997年
6月
2人 6人 組織委員会設立時、別個の事務室
1998年
4月
15人 6人 それぞれ別個の事務室で業務を処理
2000年
4月
46人 35人 一つの事務室内で共同で業務を処理
管理調整、営業広報、競技業務の3部門
2001年
8月
112人 大会運営本部体制
 
調整委員会の開催
 大会開催契約書に基づき、大会の重要決定事項を審議するための最高議決機関として調整委員会を設置し、97年12月に第1回調整委員会を開催し、以降春と秋の年2回開催した。調整委員会は下記のとおり13人とし、これらメンバーに加え、必要に応じてIWGA、AOCの役員がオブザーバーとして出席した。第1回調整委員会は、ソティロフ副会長とヒンダー財務局長を除く11人が出席した。
 
IWGA: ロン・フローリック会長、ボブ・ダ・ディー首席副会長、ストイル・ソティロフ副会長、コ・コーレン事務総長、ルーカス・ヒンダー財務局長
AOC: 林善次郎会長、三浦廣巳事務総長、御牧平八郎常務理事、鎌田壽常務理事、七山慎一常務理事、諸星裕常務理事、玉利齋常務理事、秋田県企画調整(振興)部長
 
第1回調整委員会
97年12月14日(日) 秋田ビューホテル
主な決議事項: 秋田市、雄和町を中心に会場を県内分散型で開催する。
第2回調整委員会
98年4月24日(金) 秋田市文化会館
主な決議事項: 21競技の実施を決定。
第3回調整委員会
98年10月13日(火) メリディアン・ビーチ・プラザホテル(モナコ、モンテカルロ市)
主な決議事項: 公式26競技、6開催市町村決定。
第4回調整委員会
99年4月16日(金) 秋田市文化会館
主な決議事項: 公開5競技決定。
第5回調整委員会
99年10月11日(月) 秋田市文化会館
主な決議事項: 世界のトップアスリートの参加確保。
第6回調整委員会
2000年6月3日(土) 秋田市文化会館
主な決議事項: 表彰式で国旗、国歌を使用する。
第7回調整委員会
2000年10月24日(火) グリマルディ・フォーラム(モナコ、モンテカルロ市)
主な決議事項: 開会式における入場行進の方法。
第8回調整委員会
2001年2月15日(木) 秋田県高度技術研究所
主な協議事項: 帰国便乗り継ぎのための選手・役員の輸送方法。
第9回調整委員会
2001年8月14日(火) 秋田県庁第2庁舎
主な協議事項: 大会運営の最終確認。








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