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生き方・自分流
ネットで伝える戦争体験
命あるうちに、戦争の真実を後生に語り継いでおくことが私の使命だと思っています
筒井紀久枝さん(80歳)
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ホームページの運営を担当しているのは娘の新谷陽子さん(左)
昨年の終戦の日、8月15日に自費出版した自分史「大陸の花嫁」
 終戦から56年。戦争を体験した世代が少なくなってきている今日、21世紀を生きる若い人たちに戦争の真実を語り継いでおきたいと、インターネットで情報を発信しようという動きが盛んになっている。京都府在住の井筒紀久校さんもそんな一人だ。昨年1月、同居する娘の新谷陽子さん(44歳)の力を借りてホームページを立ち上げ、「大陸の花嫁」として清州(現中国東北部)に渡った体験をまとめた自分史の掲載を始めた。平和の大切さや命の重さを知らない若い世代へ、80歳の井筒さんが残すそのメッセージの意義は大きい。
(取材・文/城石 眞紀子)
 
 京都駅から近鉄線で30分。奈良県との県境に近い城陽市に住む井筒さんを訪ねた。
 一時は体調を崩して32kgまで体重が落ち、寝たきりにもなったが、自分史を書き下ろすと「つきものが落ちたように」すっかり健康を取り戻し、今では地域の老人施設でボランティアができるまでに回復。もともと中国残留孤児支援などのボランティアやお年寄り仲間との交流に動き回ってきた行動派だけに、何もせずにじっとしているのは苦手なのだという。
 「今頃はもう、この世にいないと思いましたけどね。ホームページに寄せられる若い人たちからの感想メールに、生きる力をもらったのかもしれません」
 そう言って井筒さんは穏やかな笑顔を見せた。ホームページ開設から1年。閲覧者の数は5000人をゆうに超えた。
国策に従って渡満、戦後の苦難を生き抜く
 福井県今立町に生まれ、尋常小学校もそこそこに紙漉き女工となった井筒さんは、当時奨励されていた「大陸の花嫁」に応募。昭和18年3月、顔も知らなかった満州開拓団の男性のもとに嫁ぎ、中国東北部の都市・チチハルから200キロ内陸の地に入った。
 「女は兵隊には行かれない。少しでもお国のためになればと思いましたし、貧しくて苦しい生活にも“ケリ“をつけたかった。半分諦め、半分憧れの気持ちでした」
 満州開拓団は、旧日本軍の指導で「東洋平和のため王道楽土を築く」という大義名分のもとに送り込まれた国策移民で、その入植者の数は31万人にものぼった。そこでの日本人は、敗戦間際まで現地住民を抑圧し、横暴を極めていたという。
 だがそれは敗戦で一変した。敵国の真っ只中で祖国の敗戦を知ったのは、終戦から2日遅れの20年8月17日。開拓団の男性はほとんど召集され、残っていたのは女子どもだけだった。それから現地で生んだ一人娘とともに、21年10月に命からがら引き揚げるまでの1年余りは、まさに筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた。
 「敵に捕らわれて生き恥をさらすよりもと、自決をした人もいた。ソ連兵が連日のように乱入し、夜には現地民の盗賊が襲い、いつ殺されるやらと、毎日毎夜が恐怖の連続。逃避中は、飢えと寒さと伝染病で、大人も子どももバタバタと死んでいきました。しかも私は子どもが一人だったから、自分の身から離さないよういつも背負っていることができましたが、“生めよ殖やせよ“と囃された時代。国策に従って5人も6人も子どもを生んだ人は、女一人の身では、とてもその子らを守っていくことはできませんでした。“子どもを泣かすな、処分してしまえ“と、怒鳴られてわが子を殺したり、殺すことができずにそこへ置いていったり、中国人に預けたり。また母親自身が殺されたり、栄養失調で亡くなったり…。そんな子どもたちが残留孤児になった。とにかく誰も彼もが、自分ひとり生きるのが精一杯だったんです」
井筒さんのホームページ
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毎日ワープロに向かうのが日課
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 苦難は帰国後も続いた。やっとの思いで連れて帰った娘は栄養失調のすえ、2歳半で亡くなった。その後、シベリア抑留から復員した夫を温かく迎えることができず、離婚。一度は捨てた故郷に出戻り、再び紙漉き女工になったものの、村の人たちから注がれる同情と哀れみの視線にいたたまれなくなり、逃げ出すようにして満州時代の友人を頼って神戸へ。まさに戦争によって運命を弄ばれた半生であった。
21世紀への平和を願い、綴った戦争体験
 その後、井筒さんは現在の夫と再婚して京都に移り住み、2人の子どもをもうけて立派に育て上げた。だが平和な暮らしを営みながらも、繰り返し思い出すのはあの満州での日々。
 「子どもが小さい頃は和裁の内職をしていましたが、同じこのお腹から生まれた子なのに、片や泣くことも笑うこともなく2歳半の短い命を閉じ、片や毎日大笑いして、大泣きしている。その違いを見るにつけ、何とこの子(陽子)は幸せなのかとね。何より私自身、前半生は苦難の連続でしたが、後半生は誰よりも幸せだった。その幸せを思うとき、私は満州の荒野に屍を晒した同胞を思い出さずにはいられませんでした」
 そうしたことから、「自分の生涯を何らかの形で残しておきたい」と考えるようになり、20年ほど前からNHK学園通信講座「自分史講座」を受講。記憶をたぐってコツコツと書きためた体験談「生かされて生き万緑の中に老ゆ」は、9年前にNHK自分史文学賞大賞を受賞。さらに80歳になった今、21世紀への平和を願って、「命のある間に、自分の満州体験や満州に取り残された“中国残留孤児““中国残留婦人“のことなどを、後世に伝えておくことが私の使命」と、戦時中の日本人としての反省と、自身の戦争体験を綴った「大陸の花嫁」を自費出版した。
 「もう、あんな忌まわしい戦争なんて思い出したくもない。ゆっくりのんびりとした老後を送りたい…。そう思っても十分許される年齢に母はすでに達しているはずなのに、まだ書き残していることがあるという。病に臥して、私に口述筆記を頼んでまでも、語り継ぎたいというその執念には、娘ながら脱帽しました」と話すのは、4歳の頃から寝物語に戦争体験を聞かされ続けた陽子さん。そしてその思いの強さに打たれて、「若い世代に読んでもらうには、インターネットを活用するのがよいのでは」と提案したのだという。
 「母は自分が五感で感じた体験したことだけを純粋に語っているのですが、そこには戦争加害者としての日本人の姿も、そしてそれが後に被害者として変わっていく姿も赤裸々に綴られている。戦時中の年齢や立場、過ごした環境で、戦争への思いは異なるようですが、肌身の体験に勝る真実はないので、これが若い人たちの正しい歴史認識の一助になればと思ったんです」
 
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昭和18年3月、大陸の花嫁として渡満する前の壮行会
 
 驚かされるのはそのリアリティー。まるで昨日のことのように鮮明に当時のことが綴られていること自体が、その体験の重さを物語る。
これからも命の重さを伝えていきたい
 「生きる気力を与えられた」「命の大切さを知った」「戦争の愚かさを痛感した」「どんな形であっても戦争はダメだと心から思った」……。
 今、井筒さん親子の元には、こんな感想メールが次々と送られてくる。
 「これまでに出版した自分史に対する反響は、ほとんどが同世代からのものでした。でもホームページを訪ねてくださる方は、圧倒的に若い方が多い。戦争体験を後世に伝えたいと思っている方が、熱いメッセージを送ってきてくださったこともあったし、私の個人的な手記や体験談を、それぞれのホームページ上で活用してくださってもいる。まだまだ健全な精神を持っている頼もしい若者が多いことに、励まされました」
 ただそんなときに起こった、今回の同時多発テロ事件とそれに続く米軍のアフガニスタン侵攻。これに、井筒さんは大きなショックを受けたという。
 「命の重さを強調することで、万人に戦争の愚かさが伝えられるなどという昨日までの確信が、根底から覆されたような暗い気持ちになりました。新聞のコラムにも書いてありましたが、今回のテロ集団の最大の武器は“命の軽さ“なのですから。そしてテレビに映し出されるアフガン難民の姿は、五十数年前の私らの姿そのものでした。何時も、女性や子どもという一番弱いところにしわ寄せが来るのが戦争なんです。また、勝っても負けてもお互いの国が多くの犠牲を出す愚かしいもの。21世紀を生きる若い人が、そんな戦争の残虐さを二度と味わうことのないよう、これからも命の重さを伝えていかなければと思っています」
 自らの戦争体験を語るには、辛いことも多かろう。だが世界各地で内戦や紛争が起き、国境を超えた無差別暴力が横行する今だからこそ、後を受け継ぐ私たち若い世代はその「思い」をきちんと受け止め、あの狂気の時代のことを決して風化させてはならない。








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