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尾崎 雄
(プロフィール)1942年6月生まれ、フリージャーナリスト、老・病・死を考える会世話人、元日本経済新聞編集委員。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほか。現在仙台白百合女子大学で非常勤講師として死生学、終末ケア論等を教える。
9月11日、ニューヨークで見たこと知ったこと
 2001年9月11日、私は見たくないものを見て、知りたくないことを知ってしまった。
炎上する世界貿易センタービル
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 この日、私は医師、看護婦ら29人からなる米国医療視察団の一員としてニューヨークのダウンタウンを走るバスの中にいた。9時10分ころ、快晴の空に煙を噴く世界貿易センタービルが車窓に映った。
 その日最初の視察先であるセント・ビンセント・カソリック・メディカルセンターに着くとそこは既に非常体制。院内では被災者の家族らしい人がパニック状態になって職員に支えられている姿も。視察は中止。消防車やパトカーが現場に突進する路上に出ると、火炎に包まれた世界貿易センタービルが…。群衆から叫びがわき起こり、ビルは灰色の噴煙に包まれた。アラブ人らしい人たちが何か叫ぶ。巨大な煙の塔が崩れたあと米国経済力のシンボル、世界貿易センタービルは影も形もなくなっていた。
 「8機の旅客機がハイジャックされ、うち4機がワシントンのペンタゴンとニューヨークの世界貿易センタービルなどに突入。残り4機は未発見。米空軍が行方を追っている」。いち早く飛んだデマはほとんど真実だった。翌12日の新聞には一面をぶち抜いた見出し「イッツウオー(テロではない戦争だ)」が躍り、全米テレビネットワークは24時間特別報道に塗りこめられる。ブッシュ大統領は国立大聖堂で挙行された犠牲者追悼ミサで「我々は戦争を仕掛けられた。冷静だが激しい怒りに燃えている」と報復の決意を国民に宣言。ニューヨーカーは、昼はビルとショーウインドーを星条旗で飾り、夜は犠牲者のためにキャンドルを灯して大統領の決意に応えた。
 
 我々の視察団はテロ発生から空港が再開し祖国に向かう搭乗機が飛び立つまでの1週間、生存の瀬戸際に立たされたのだが、ビルの炎上目撃と同時に事の重大さを認識したのは29人のうちたった1人。1993年、世界貿易センタービルが初めて爆破テロに遭った時ニューヨークの医療機関で働いていた看護婦、Kさんだった。彼女は「最初に火災を見た瞬間、アメリカ人ならバスを止め、一刻も早く引き返したはず」と日本人旅行者の危機管理意識の欠落を指摘する。
 「21世紀初の戦争の一撃」(ニューヨークタイムス)とされるテロ現場を目撃しながら残り28人は身辺に迫る「自らの死」を意識できなかった。視察団には合わせて18人の医師、看護婦が参加していたが、その半数はテロ後もニューヨークの施設見学を予定通り続けたいと希望し、それが不可とわかるとほとんどの人たちはショッピングに観光にと連日“悲しみの町“に繰り出して行ったのだ。
 日本の医療者のすべてが危機管理能力を欠いているわけではないだろう。だが、私は、「第三者の死」の悲しみを分かち合う感性に乏しく自らの命の危機管理すら十分にできない人たちが医療現場で生と死を扱う仕事に携わる姿を想像して、ゾッとしたのである。








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