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生き方・自分流
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 群馬県は榛名山麓の群馬町に、農家の空き家をそのまま利用した、痴呆症のお年寄リが暮らす小規模グループホームがある。正式名称は「稲荷台ホーム」だが、地元では「いいじまさんち」で通っている。4年前、飯島龍一郎さんという青年が始めたので、そんなふうに呼ばれているのだそう。元は峠道でバイクを乗り回す「峠族」だったという彼が、なぜ福祉の道へと進み、そして28歳という若さで、自らホームまでつくってしまったのか…。その心の軌跡と日々の奮闘ぶりを追った。
(取材・文/城石 眞紀子)
 「いいじまさんち」では現在、介護保険指定のグループホームと無認可の通所介護を行っており、9名の重度の痴呆のお年寄りが入所中。スタッフは20代の男性を中心に常勤9名のほか、ボランティアが日に2、3名。だが、スタッフがマニュアル通りてきぱきと働き、お年寄りは介護されるという図式ではなく、高齢者と若い人たちが普通に暮らしているといった雰囲気で、実にほのぼのとしたもの。
 「みんなドライブ好きなんで、今も何人かは外出中。毎日、どこかしらに出かけてますね。それも行き当たりばったりで、時には片道2、3時間かけて新潟まで海を見に行ったり、温泉に行ったりもする。で、帰りには回転寿司に寄って、買い物をして…。席に着くなりしょうゆを飲もうとする人もいるもんだから、それを止めながら、自分もバクバク食って。スーパーでは買い物カゴに、お菓子や雑貨などを思いきり入れてレジに向かうもんだから、“後で棚に返しますから、計算するふりをしてくれませんか“と、こっそりレジの女性に頭を下げてお願いする。たとえボケてたって、そういう形で社会の流れに参加し続けるのが自然だと思うし、そういう年寄りと一緒にいると、飽きることがなくて楽しいもんですよ」
 そう言って、飯島さんはハハハと笑った。それにしても、五分刈りの頭にTシャツというこの外見からは、NPO法人の理事長という肩書はとても想像できまい。
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元養蚕農家の空き家を借りて「稲荷台ホーム」を開設。飯島さんの住まいもココ
1冊の本を契約に福祉の世界へ
 高崎市内の高校を卒業したものの、色弱で進学も就職も思うようにいかなかったことから、飯島さんは自分を受け入れてくれない社会に反抗。髪を染めてバイクにまたがり、街中を走る暴走族からやがて峠族に。本人いわく「転落の日々」を送っていたが、そんな時に出会った1冊の本を契機に、彼の人生は変わっていった。
「それは神風特攻隊に関する本で、特攻隊の生みの親である大西中将の遺書に“これからの若い人は福祉に尽くしてほしい“とあったんです。で、福祉って何だろうと思い、暇つぶしに勉強でもしてみるかと考えましてね」
 22歳で福祉系短大に進学。卒業後は「年寄りと遊んでて、金になるならラクなもん」と群馬県内の特別養護老人ホームに就職。ところがそこで体験した介護の現実に、大きな衝撃を受けた。
 「たとえば食事介助一つをとっても、年寄りはもっと食べたがっているのに、時間がくれば“はい、おしまい“と片づけてしまったり、オムツをする必要のない年寄りにまでオムツをあてる。“一生のお願いだからトイレに行かせてくれ“と懇願してるんだから、それぐらいのことやってやればいいのに…。すべてが職員の都合優先で、年寄りの施設なのに“年寄りのため“というのがまったく考えられていなかったんです」
 自由のない、ただ生かすだけのやり方に憤りを感じた飯島さんは、半年でここを退職。「もっとましなホームはないのか」とあちこち探し歩いた。
 「ところが、既存の施設はどこも似たような状況。それなら、最期まで人間らしく暮らせるような場を、自分でつくろうと決心したんです」
自宅なんだから管理はしない
 それからはまず資金づくり。2年ほどトラックの運転手をした。その合間にはNPOや市民活動の勉強をしたり、知り合いのつてをたどってカンパを集め、古い農家の空き家を探し出して借りたというから、さすがの実行力だ。
 こうして飯島さんは28歳にして「在宅福祉たらっぺ会」を立ち上げ、1997年10月、群馬県で初めての民間の宅老所「稲荷台ホーム」を開いた。目標は一つ。「お年寄りのためになる介護をする」。ただそれだけだった。
 「最初のうちはほとんど利用者はなかったけれど、まずは自分たちがそこに住んでみて、畑仕事を教わったり、青年会などの地域活動に参加しながら、地域に溶け込むことから始めようと考えていたので焦りはありませんでした」
 そうこうしているうちに、地元の店がチラシを貼ってくれたり、近所の人が口コミで紹介してくれるようになり、利用者も次第に増えてきた。だが、肝心のスタッフは次々と辞めてしまった。
 「みんな、施設介護に疑問を持ち、理想の介護を求めて集まってきた人たちでしたが、思った以上に大変だったんでしょうね。うちは“一人ひとりの年寄りが自分らしく生きる“がモットーなので、いっさい管理はしない。だから、食べたいときに食べて寝たいときに寝るし、皿を洗いたいなら洗ってもらう。たとえー時間ぐらいかけて2枚の皿を交互に延々と洗っていても、水道代は30円ぐらいだと思って諦める。また玄関には鍵をかけていないので出放題なんですが、出て行く人を無理に引き止めたりもしない。後ろからこっそりついていって、キョロキョロしだしたら「近道を知ってるよ」と声かけして戻る。つまり年寄りが納得するまで辛抱強く待つわけです。それが許せるかどうか。だから仕事としての“効率“を求める人は続かないんです」
 さらに大変だったのは経営。一か月の利用料から食費や家賃などの経費、スタッフの給料を払うとほとんど残らず、飯島さんの給料は出ないという状態が、2年半近く続いた。
 「たまに講演などに呼ばれても、何を話すかよりも、着ていく服がないことが問題で、こっそり年寄りの靴下を借りたこともある。だんだん、はくパンツもなくなった時に介護保険になったんで少しは救われましたが、“収入はない、一緒にいる時間も全然ない“と、ついには嫁さんにまで逃げられてしまいました」
 飯島さんは笑いながら言うので悲壮感を感じないが、かなりシビアな状況だ。
安定したらNPOでいる価値はない
 こうして様々な曲折を経て、現在の「いいじまさんち」が出来上がってきたわけだが、「スタッフの中には住み込むヤツも出てきて、ようやく、年寄りが暮らす場所ではなく、助け合ってみんなが暮らす場所になりつつある」という。
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スタッフは20代の若者が中心。「オレが一番ジジイなんです」と飯島さん。
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鬼怒川への1泊旅行。「不安はあったけど、結果は大成功。みんな大喜びでした」
 「昨日も新米スタッフが年寄りに米の研ぎ方を教わってたし、いろんな悩み事を聞いてもらったりもしている。オレの場合も、別れた嫁さんの話をスタッフにするとみんなにバラされちゃうけど、年寄りだとすぐ、忘れてくれるからいい(笑)。まあ、ボケてる人もボケてない人も、人付き合いが楽しくできて、なおかつ自分が自由にできれば、それが一番じゃないですかね」
 そんな飯島さんは、この4年間を振り返ってこう話す。
 「ひと言でいえば、波乱の連続。でも、それでいいと思ってるんですよ。現状でよしとすれば事業も人も安定するでしょうが、そうなると、ただ仕事を受けるだけの団体になってしまう。常に問題意識を持って、社会をより良くしていこうという気持ちをなくしたら、NPOでやってる価値はありませんからね。だから、これからも波乱の運営を続けていかないとね」
 その言葉どおり、昨年1月にはNPO法人格も取得し、新たな試みとして、今年の1月には前橋市清野町に2施設目の多機能型グループホーム「清野ホーム」を、さらに8月には藤岡市立石に心身障害児(者)の生活サポート事業を行う「サービスステーションかてて」も立ち上げた。今や総勢20名の大所帯である。
 「相変わらず金はないけど、お金の代わりに知恵を絞り出せば何とかなるもの。その意欲さえあれば、新しいことができるんじゃないですか。何でそんなに頑張れるかって? う〜ん、退屈な人生を送りたくない。ただそれだけかな」
 いつの時代でもこうした若い力が社会を変えていくものだ。気負いもなく、自然体で福祉に取り組むその姿が、かえってそれを予感させた。
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お年寄りだけでなく、猫までが安心してくつろげる場!?
このホームではお年寄りが望めばご飯作りを手伝ってもらうことも








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