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特集 新しいふれあい社会を考える
定年後の理想と現実
あなたは第二の人生をどう生きたいですか
 高齢社会を迎えて、「定年後」の生き方への関心が高まっている。会社という組織から解き放たれ、生活のリズムも激変する中、どうすれば充実した「第二の人生」を送れるのか。そこで、実際に定年を迎えた男性やその奥方、またこの分野に詳しい識者に、それぞれの立場から話を聞いた。定年後の生き方は十人十色。ぜひとも、自分流儀の定年後のデザインを描く参考にしてほしい。
私の定年後その1
企業社会から地域社会へ。
ボランティア活動に賭ける第二の人生
婦唱夫随でボランティアの世界へ
 「煩雑な人間関係から解放され、定年後は庭木の手入れでもしながら、のんびりと過ごそうと考えていたんですが、思わぬ方向へと引きずり込まれてしまいました(笑)」
 こう語るのは、3年前に定年退職を迎えた後、在宅福祉サービス活動などを行うNPO法人さわやか徳島の理事長へと転身を果たした麻野さん。
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 総務・労務・人事畑で40年近くを過ごしたサラリーマン時代は、典型的な会社人間。人よりもずっと早く出社し、深夜まで会議と称して、職場の仲間と飲みあかす日々。子育ても含めて家のことはすべて、妻に任せきりで過ごしてきた。そんな麻野さんがボランティアの世界へと足を踏み入れたのは、同団体の発起人代表であった妻・信子さんの影響だという。
 「自宅が団体の事務所を兼ねていたこともあって、数年前からご婦人たちが家にお寄りくださっては、何やら楽しそうに活動をしているのは知っていましたが、会社勤めも忙しく、ほとんど無関心のままでした。それがどうしたものか、定年が近くなるにつれ、ご婦人たちからのお誘いが多くなりましてね。あれよあれよという間に、さわやか福祉財団のリーダー研修や2級ホームヘルパーの研修の申し込みまでしていただき、受講することになってしまったんです」
 そして、研修先で「年金をもらうようになったら、国家公務員も同然。健康なのに遊んで暮らしていたらバチが当たる」という話にも触発され、やがて妻の活動をサポートする形で、NPO法人の手続きなどを手伝うようになり、推されるようにして理事長へ。
 「話をいただいたときには一瞬驚きましたが、こんな私でも皆さんのお役に立つならと、軽い気持ちでお引き受けしました。現役時代はずっと妻が陰で支えてきてくれたわけですから、今度は私が手伝う番かなという思いもありまして(笑)」
 以来、団体の経理、事務部門などを一手に引き受けているほか、毎月1回の学習会の開催責任者も担当。また昨年は「全国ボランティアフェスティバル」第2部で事務局責任者・総合司会を務めたり(写真=下)、JA板野で「NPOとボランティア」と題した講演も行うなど、まさにボランティア活動にどっぷりと漬かった生活を送っているという。
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(右)自宅事務所を開放しての研修会。正面奥が麻野夫妻
(左)デイサービスの一環で初詣に。中列左右が麻野夫妻
◆安心して暮らせる社会の一助になりたい
 「お蔭さまで毎日忙しく、定年後ののんびりとした生活とは無縁になってしまいました。私の部屋もすっかり様変わりして、パソコンや印刷機、コピー機などが並び、私の机も事務机として活用されています。それらがいつの間に整ったのかと思うほど、自然な形で準備されていて、改めて女性パワーには敬意を表するばかりです(笑)」
 麻野さんは謙虚にこう話すが、仕事で得た知識や経験を十二分に生かしてくれる彼の参加によって、団体の運営が安定したことは想像に難くない。実際、妻の信子さんも、「現場の活動で人手がない時は送迎サービスなどで助けてくれたり、普段はボランティアで集まる人の話を聞いてくれたりもする。元々人事をやっていたので、人の話を聞くのは得意だし、自分が自分が、という人ではないのですごく無欲。横のつながりを大切にするボランティア団体の長としてはとてもいい」と、その存在の大きさを手放しで評価する。
 また当のご本人も、地域社会という企業社会とは違う世界に身を委ねたことで、「新たな発見や学ぶことも多く、生活にハリが出た」とその効用を語る。
 「人の役に立つことの喜びを教えてもらいましたし、仲間の皆さんとその喜びを分かち合えるということが、この活動の大きな魅力。またお年寄りと接することで、自分自身の老後を考えさせられるいいきっかけにもなりましたね。というのも、家に引きこもっていると、人間どうしても暗くなってしまう。いい人間関係を築くことが、老後を明るく楽しく過ごすための大切な条件なんだと気づかされました。また元気なうちはできることをやっておくことが、困ったときには助けてもらおうという受け入れ体制をつくることにもつながるとも感じています。今のお年寄りを見ていると、あまりにも助けてもらい下手の人が多いですからね」
 そして自ら実感した助け合い活動の大切さを広めるためにも、今後は近隣地域で、こうした団体を立ち上げるための支援活動に力を入れ、安心して暮らせる社会の一助になりたいと抱負を語る麻野さん。
 「今振り返ってみると、定年とは、私にとって人生の一つの大きな区切りだったように思います。仕事を引退したとき、次の人生をどう生きるか。もちろん趣味の世界に生きるのも一つの方法でしょうが、まだまだ老いて体の自由が利かなくなるまでは十分時間がある。その間を、地域や社会のために役立つのもいいものだ。そんなふうに感じている昨今です」
私の定年後その2
国際交流を通じて、世界各国の人や歴史を知ることが生きがい
●退職当初はカルチャー教室三昧!
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 「現役を引退した当初は、これから一体、何をしたらいいのかと、途方に暮れました」
 学徒兵の主計官だった頃から数えると46年間金融経理に従事。55歳で銀行を去るまでは出世競争に明け暮れ、「夜、ご飯を家で食べた記憶がない」という猛烈サラリーマン。その後、関連会社の監査役を11年間勤め、66歳で会社を退職したという佐藤さん。
 「私の場合、仕事の傍ら、20代の頃から短歌会「金雀枝(えにしだ)」の会員として、短歌を愉しんできた。ですから第二の職場に行って時間的なゆとりもできてからは、短歌の勉強にも励み、1987年には歌集「双脚集」を、89年には入門書「今日から短歌にご入学」を上梓しました。そういう意味では、ライフワークともいうべき趣味は持っていたわけですが、それでも今まで何十年も毎日規則正しく会社に行ってたわけですから、日中ずっと家にいる生活は耐えがたかったんです」
 そんな佐藤さんは、思いつくままにカルチャー教室に通い、それで1週間を丸々埋めた時期もあったという。やがてそんな生活に飽き足りなくなり、「せっかく束縛がなくなったのだから、今まではできなかったことをやろう」と決意。妻の政子さんとも相談をして、夫婦で在住する神奈川県と横浜市の国際交流協会の会員となり、外国から来る研修生のホームステイ、ホストを務めるボランティアを開始したという。
 「私自身は、勤め先の会社が外国資本と資本提携をし、役員に外国人が入ってきたことから、57歳にして一念発起。週3回英会話を習い始めたのをきっかけに、インドネシア語やフランス語、中国語なども勉強。妻は妻で、アメリカにいる二女夫妻の出産を手伝うために渡米する機会があり、やはり同じ頃から英会話の勉強を始めていたので、少しはお役に立てるんじゃないかと思いましてね」
●国際交流記録を綴った短歌集も上梓
 以来、年に2回ずつ、海外からのホームステイを受け入れてきた。その数はもう30名近くにものぼり、国籍もヨルダン、中国、パキスタン、ミャンマー、バングラデシュ、カナダなど様々だという。またこの間、年1、2回のペースで海外旅行も楽しんできた。それもお仕着せのパック旅行ではなく、そのほとんどは長女、二女夫妻と一緒のドライブ旅行である。
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インドネシアからホームステイで来た留学生と平塚の七夕祭りへ。左は妻の政子さん
 「ホームステイといい、海外旅行といい、知り合った外国人からその国の風俗習慣、国情、地理歴史などを聞くことは、私にとってかけがえのない喜びとなりました。特に我が家に泊まった人はアジアの人が多く、例外なく国は悲惨な歴史を背負っていて、聞くほどに胸が痛かった。お蔭でこの10年余、狭い見聞ながら、本ではない、生の世界史に触れることができました。また、こうして出会った人たちが故国に帰ってから、逆に私たちを招待してくれたこともありましたし、その後も長く文通を続け、体の調子が悪いといえば漢方薬を送ってくれたり、結婚式の招待状まで送ってくれた人もいました。そんな交流がまた、生活にハリを生み、生きがいにもつながったように思います」
 そうした日々に、雫のようにこぼれ出た国際交流の記録を、佐藤さんは昨春、「グレシャムの紋章」という歌集にまとめた。
 「神ならず人が造れるオランダの国地平線にてポプラ並木消ゆ」
 「キャンプ活動熱こめて語りまた嘆くインド青年の低き識字率」
 「サンダルの足寒からんミャンマーを貧しとは言いつつ暗しとは言わず」
 いずれも正に個人的な国際交流実践記録ともいうべき作品だが、こうした外部からの刺激が、また佐藤さんの作歌活動にいい影響を与えたようだ。
 そんな佐藤さんは77歳になった今、「定年退職後の66歳からあとの人生が、こんなに楽しいものになるとは夢にも思わなかった。すべての煩雑なことから解放されて、まさに太陽の明るみに照らされているような心持ちです。健康でさえあれば、人生の華が咲く季節なのかもしれませんね」との感想を漏らす。
 この夏は、デンマークとスウェーデンの旅を楽しんできた。佐藤さんの海を超えたふれあいの旅はまだまだ続くことだろう。
私たちの定年後
共通の情報や体験を増やすことが夫婦円満の秘けつ
定年を前にして夫婦の気持ちにズレが
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 「会社のライフプランセミナーを受けたこともあって、50代に入った頃から、第二の人生についてはいろいろ考えていました。そして、少しずつ準備を進めてきたんですよ」
 そんな多田さんは、第二の人生の目標を「情報発信」に定めたという。
 「「人貧乏」という言葉を聞いたことがありましてね。普通、貧乏といったらお金がないことをいうんですが、友達がいないとか、お付き合いが少ないというのはこれも一つの貧乏だと。それで、お世話になった方々などに、私が感動した情報を提供しながら、いい人間関係を維持していければと思いました。小さい頃から図書館の仕事に興味があり、会社では長年企業内教育に携わってきたこともあって、情報を集めて、発信することは、さほど苦にならないことでしたから」
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セミナーでは夫婦で体験談も披露
 そのために、早くからパソコンを導入し、50歳から個人情報紙「さんしょ情報」を月1回発行。また専門情報を入手するために、早稲田大学の「土曜講座」を聴講したり、日野原重明氏の「ライフ・プランニング・センター」などにも入会。
 「健康・生きがいづくりアドバイザー」の資格を取得するなど、あれこれとその日に向けての準備を進めてきた。
 「ただ定年後の生きがいについては考えてはいたものの、夫婦や家庭のことについて何かを準備するということは頭の片隅にもなかった」
 だが妻の気持ちは違っていた。「夫の定年が近づいてくると、不安な気持ちでいっぱいになりました」と、瑞枝さんは当時の心境を語る。
 「うちの場合、一人娘は早くに独立して2人の時間は長かったものの、それまでの関係はご多分に洩れず、“亭主元気で留守がいい“を地でいっていました。それが1年365日24時間夫が家にいるとなると、これまでのように自由気ままには過ごせないのではないか。そのプレッシャーが大きかったんです」
 そして3年前、60歳を迎え、多田さんは、非常勤の監査役となり、セミリタイア生活へ。そしてその気持ちのズレが、夫婦の関係に微妙な不協和音を呼んだ。
 「毎日長時間顔を合わせていると、360度から夫の言動が見えてきます。すると今までは気にならなかったことが気に障るようになり、ストレスは溜まり、気持ちはイライラ。家にいるなら、家事ができるようになるために手伝ってよと、もめたことも一度や二度ではありませんでした」
▼「仲良しの増進」準備で生活の変化に対応
 そこで、多田夫妻は、互いの気持ちのすり合わせを図るために、健康増進も兼ねて、早朝散歩を始めたという。
 「家の中だとどうしても感情的になりがちですが、人目のある外でなら冷静に話ができる。だから、文句はその時に言おうと、決めたんです」と瑞枝さん。
 こうして散歩の時間を活用して、家事分担から夫婦関係のあり方まで、様々な事柄をよく話し合った。そして夫婦共通の趣味である海外旅行以外にも一緒に出かける楽しみも持とうと、講演会やパソコンショーなどの催し物にも夫婦で参加し、体験や情報を共有することに努めたという。
 「すると徐々に考え方も近づき、会話も増えて、内容も深いものになっていきましたね。その結果、昨年6月、62歳で現役を引退する頃には、互いに今後の心の準備も整い、生活のペースも掴めてきました」という多田さん。
 そんな多田夫妻は、元の勤め先のライフプランセミナーで、OBとして自らの定年前後の体験談を2人で語る役を務めているという。また昨年からは「さんしょ情報」をバージョンアップし、「夫婦で読む〈豊かな熟年〉」を発行。その冒頭では経済や社会問題から夫婦のコミュニケーションに至るまで、様々なテーマについて夫婦が語り、会話形式で載せている。この情報紙の編集長は夫だが、企画は2人で考え、校正・発送部長は妻と、まさに二人三脚での制作作業である。
 そんなお2人に、最後に定年後の理想と現実について伺った。
 「定年後の取りあえずのスタートは、仕事人間としてのお詫びで家庭サービスから。後は、念願の気ままな「情報発信」とチョッピリ、地域などへのお返しのボランティア。しかし、最後まで続くのは、奥さまサービスと家族サービスでありたいですね」(多田さん)
 「相手のイヤなところが気になると次々とそれが見えてきて、重い気分になりますが、良いところだけを見ていれば、毎日がさわやか。定年前から心の整理、(あきらめ?悟り?)などの仲良しの増進準備が大切だな、と思うこの頃です」(瑞枝さん)
定年後の理想と現実 読者の投稿から
●私も45年間の会社生活を終え、現在古希を迎えましたが、私の仲間や周辺でもいまだ会社人間から脱却できず、肩書や前職にこだわり、地域社会から孤立し、家庭で不満をこぼすボヤキ人間となっている姿を見かけます。このような人でも退職時の挨拶文には「第二の人生を有意義に楽しく生きていきます」としています。
 私自身も退職すれば、自由となり友人とゴルフも十分にできると思っていましたが、それも1年足らず。生活のリズムも変わり体調を崩す人を目にして、第二の人生はただ遊ぶだけでは生きていけない、と考えていたところ、幸いなことに、先輩から「地域での人間関係を大切にするように」とのアドバイスをいただきました。
 そして「人間らしく生きるために、いささかでも社会に恩返しする」ことに気づいて、すすんで自治会活動やボランティア活動にも汗を流すとともに、一人でもできる俳句と絵画を楽しんでいます。そして「生涯現役」でありたいと日々好日を目指しています。
(千葉県 76歳 男)
 
●2年前65歳になり、退職した。退職時の臨時収入でパソコン一式を購入。またこれまで一番自由にならなかった時間を自分で管理するため、週間日程表を作ることにした。2年間の実績を見ると、[1]外部とのつながりは、同期入行者との毎月初めの夕食会、大学のゼミの仲間との3か月に1回の昼食会、日経などの公開講演会(月4〜5回)に出席。これはまず予定通り。[2]地域活動は、早速、地元の区民会議、教育部会に所属していろいろなグループに芋づる的に参加。印象はこれまでの異業種交流の付き合いから予想していたのとは大違い。一層、教育問題にのめり込むことになった。[3]趣味関連は月1〜2回の写真専門学校、年1〜2回の海外旅行をはじめ、概ね順調。地域の生涯学級カメラ教室で友人と一緒に初心者の方々のお手伝いをすることにもなった。
 以上これまでのところ、総体としてはまずまずといったところであるが、肝心の時間管理が問題。宮仕えのときは仕事最優先であったが、現在はすべて自分の選択によるものであり、優先順位を掴みにくい。ということで週休2日制というよりも、毎日が月曜日。何とか自己責任で積荷をやや減らしたいと思う今日この頃である。
(神奈川県 67歳 男)
 
●私の現実…階段を上がる時、脚が重く感じ上がらない、この事実が老いることだと思っていました。私自身も長いこと運動機能は老化とともに衰え、訓練しても運動機能が改善できないという誤解をしていました。年を取れば取るほど筋力を鍛えることが必要です。
 私の理想…転倒、骨折、寝たきり防止。健康寿命を延ばし、要介護期間の短縮に協力しよう。脚を強くし、病気に関係なくいつまでも自力で歩けると介護保険から出る費用も少なくなり、お国や市町村は財政が助かります。介護保険はいつでも使用できるへそくりと思って、老化防止に努力し、自助、独立自尊に向けてがんばり、笑って、歩いて、天国に行きたいと思っています。
(東京都 72歳 男)
 
●定年後の私の理想は、ずばり「晴耕雨読」の生活です。私の実家は戦前から続く農家でしたが、子どもの頃に米作りをやめ、父は田舎の農協に職を得、私は大学を出て、今、東京でサラリーマン生活を送っています。その父も2年近く前に急死し、田舎では年老いた母が大きな家と少しばかり残った農地を守り、耕しながら暮らしています。
 これからの少子高齢社会に向けて、日本では福祉問題がますます重要になってきますが、世界的には人口増加や環境悪化などで食料需給が逼迫してくるのが必至だと思います。そうなると、今の日本のような飽食は許されず、遠からず基礎的な食糧は自給せざるを得ないと思います。
 ですから定年後は田舎に帰り、晴れた日にはマイペースで無理をせずに農作業をし、できるだけ自分で耕した田畑でできた食糧で賄い、余暇時間は趣味や教養を深めるための時間を楽しみたいと考えています。その延長線上で近隣の人とのお役にも立つことができれば、福祉やボランティア活動ともどこかでつながるものと考えています。
(千葉県 41歳 男)
 
●私の理想は主人と2人で事務所を開くことです。3年前に両親が倒れ、介護のために私は20年間続けた自営の仕事を辞めました。そしてその時に夫婦で話し合いをし、「あなたもあなたの人生を大切にしてください。このチャンスで何かを起こしたらどうですか」と主人に助言。その結果、主人は父のしていた電報配達を継ぎ、仕事も変わりました。当時私は49歳、主人は51歳。一足早い定年を迎えました。
 その後両親は奇跡的に回復し、今落ち着いた生活の中で、60歳からの生き方を考え、私は臨床心理士を目指して、4月から通信制の福祉大学に入学。主人は司法書士を目指すことにしました。そうしてお互いに仕事を通して人様とかかわっていく中で、泣いたり笑ったりしながら、生きることを楽しめたらいいなと。まだ始まったばかりの定年後の生活ですが、頑張っていきたいと思います。
(群馬県 52歳 女)
※投稿は一部抜粋、編集しています。
 
 さて、こうしてそれぞれの人の思いを聞いてみると、つまるところ、定年後の問題とは、第二の人生計画と夫婦関係のあり方に尽きるともいえる。
 そこで長年にわたって多くの定年退職者の取材を続けてきたノンフィクション作家の加藤仁さんに第二の人生計画の立て方について、また、中高年女性のカウンセリングにかかわってきた清水女性問題塾代表の清水博子さんには、定年後の夫婦関係のあり方について、助言をお願いした。
インタビュー 識者に聞く「定年後」
第二の人生計画について
何のために生きるかを自身に問いかけ新たなる役割を掴みとろう
ノンフィクション作家 加藤 仁さん
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定年後の最大の問題は役割喪失
 今、なぜ定年後が問題になっているのか。それはひと言でいえば、「日本人の個としての生き方が問われてきているのではないか」という加藤仁さん。
 「会社人間と呼ばれる人々は、企業にとってふさわしい人間であれと共同体の一員として染め上げられ、そして在職中は重すぎるほどの責任ある役割を背負ってきました。ところが定年になって個に立ち返ると、そうした役割から解き放たれてしまう。そうなったときに、自分は何をしたいのか、どう生きたいのかを自身に問いかけ、新たなる役割を掴みとらなければならないわけですが、これがなかなか難しい。というのも、長年の会社勤めで“命じられたままに動く“という受け身の習い性が染み付いていますから、自ら能動的に行動を起こすということに慣れていないんです」
 だからいざ、定年後のフリーな暮らしが始まってみると、何から手をつけたらいいのかわからない。戸惑い、今一つ充足感がないという人が多いのではないかと、加藤さんは指摘する。
 「もう一つの問題として、サラリーマン時代に何を求めて仕事をしてきたかというと、つまるところは肩書と給料に凝縮されるわけです。定年後、それでしか自分自身を表現できなくなってしまっている人も少なくない。すると、どういうことが起こるのか。たとえば趣味を持とうと、IT研修会などに参加しても、年若い先生の教えに素直に従えないんですね。それで文句をつけたり、しつこく食い下がることで無意識のうちに自分の存在をアピールしようとするわけですが、それをいなされたり、かわされたりすると、ひどくプライドを傷つけられたような気になってしまう。面白くなくなって途中で“もう、やめた“と投げ出してしまう。こうしたことが往々にしてあるわけです。キリスト教の教会活動などが盛んな西洋社会と違って、日本は横のつながりが希薄な社会。でもその横のつながりを楽しむような気持ちを持てないと、自分の身を置く居場所がなくなりかねない」
自分のために、やりたいことをやろう
 つまり、定年後をイキイキと暮らすためには、会社や肩書といったプライドを脱ぎ捨て、地域社会の中で、新たな役割を見いだすことに尽きるわけだが、言うは易し、行うは難しの面もある。そこで、その行動のヒントについても伺った。
 「一つには、サラリーマンになる以前に、自分がどんな人になりたかったのか、ということを考えてみるのもいいのではないでしょうか。たとえば私がこれまでに取材をした中には、自分は料理人になりたかったと、定年後に料理の勉強をして店を開いた人もいましたし、鳥人間になりたいとハングライダースクールに通って67歳にして飛べるようになったという人もいた。またある損保会社の社長などは、65歳以降は東洋史の勉強をしたいときっぱり引退。九州大学の大学院に入って、研究旅行では学生と一緒にざこ寝をしながら、1年に1本は論文を書いている。このように目的意識がはっきりしている人は、面子とか肩書といった、小さなことにこだわらなくなるし、自分の青春と向かい合うことで若さもキープできると思いますね」
 また最近は、自分のやりたいことや得意なことを通じて、人の役に立つことに生きがいを見いだしている人も少なくないという。
 在職中に身につけたコンピュータの知識を生かして、インターネットを使って障害者向けの在宅コンピュータ教育を始めた人。あるいは趣味のアマチュア無線を通して視覚障害者に、毎朝、新聞のテレビ欄を読むボランティアをしている人。そして、日曜大工の腕を生かして、一人暮らしの高齢者宅などに手すりを付けに行っている人等々。
 「とにかく、今の時代は、その気になればほとんどの夢を叶えられる時代になっている。それも大金を必要とするのではなく、年金の範囲内のごく普通の生活を送りながらです。ですからまずは、何でもいいから、興味のあることに食らいついてみること。それで違うと思えば、さっさと方向を転換すればいい。いずれにしても、60代は企業の上下関係からも、子どもを扶養する義務からも解放される年代であり、体力も気力もまだまだありますから、いわば人生の黄金期。何かをやろうとすればかなりのことができるし、新しいことにも十分挑戦できる。自分のために、新たなる役割を見いだした人たちは、いくつになってもいきいきとしている」
定年後の夫婦関係のあり方について
夫婦で家庭を運営するんだという意識を持ち、心身の支え合いを
清水女性問題塾代表 清水 博子さん
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増える夫在宅ストレス症候群
 「定年というと、男性のその後の人生設計についてばかりが取り上げられがちですが、定年による生活の変化は、夫婦関係にも大きな影響を及ぼします」というのは清水博子さん。
 それまでほとんど家にいなかった夫が、定年でいつも家にいるようになると、心にストレスが溜まり、それがもとで心身症になる妻が増加。清水さんの主宰するカウンセリングルームには、そんな「夫在宅ストレス症候群」ともいうべき悩みを抱える女性たちが、数多く相談に訪れているという。
 たとえばA子さんの夫は、「俺は本当によく働いた。どんなに苦しくとも、お前たちのために頑張ってきた。お蔭で年金で何とか暮らしていける。家のローンももうない。まるまる俺のものだ。これからは余生を自由に暮らすぞ」。そんな言葉を何十回と聞かされているうちに、「じゃあ、あなたは家族のためだけに仕事を続けてきたというの?家のローンだって私のパートの稼ぎ分がなければ、返せなかったじゃない。家だって、名義はあなたでしょうが、中身は私がつくってきたのよ。子どもが大変なときでも、何の相談にも乗ってくれなかったくせに…」。そんな思いが次々とわき起こってきて、A子さんは夫の話を聞くのが苦痛で苦痛で仕方がなくなってしまったという。
 またB子さんの夫は、定年後これといった趣味もなく、ほとんど一日中居間に座って、新聞かテレビを見ている。そんな無口でおとなしい夫を目の当たりにしているうちに、「いったいこの人は何が楽しくて生きているのか。昔からそうだけど、まったく面白くもおかしくもない人」と苛立つようになり、夫の存在がうっとうしくてたまらなくなってしまったとのこと。C子さんは、持病で入院した際に枕元に来て、「俺の今晩の飯はどうするんだ」と言った言葉にショックを受け、「夫は家事をうまくこなす以外に、自分のことを人間とは考えていないのではないだろうか」と、自分の存在に疑問を抱くように。それ以来、夫と口を利くのが嫌になってしまい、メモによる伝達だけで済ますようになってしまったという。
 「夫の定年で向かい合う際に起きるストレスで特徴的なことは、感情レベルでの夫婦観のすれ違いです。きっかけはほんの些細なことなんですが、四六時中顔を合わせ、毎日繰り返されることで、だんだんと妻の心の中に亀裂が走ってくる。そして“これからずっとこの夫と暮らしていかねばならないのか“と思うと老後の悲哀が見えて、希望がなくなってしまうんだと思います」
定年を機に、結婚生活の仕切り直しを
 清水さんは、この妻たちの夫在宅ストレスの原因について次のように指摘する。
 「日本の社会では、良くも悪くも、これまで夫は仕事、妻は家事・育児という性別分業がなされてきました。仕事にアイデンティティーを見いだして、長く家庭や家族と向き合うことをわずらわしいこと、女の領域と避けていた夫。こうした状況にあっては、妻の関心が夫へ向くことはなく、子育てが終わって以降はその心の隙間を社会参加をすることで充足していったのです。こうして夫を求めない妻と、妻に向き合わない夫が誕生する。
 ところが定年で、夫が家庭という異文化圏に入ってくる。それも、従来の性別役割意識のまま“亭主関白“をよしとしてです。そうした夫は、妻は家事を一生して当たり前。自分だけはやりたいことをやり、妻の気持ちを支えたり、癒すというメニューを持ち合わせない。そんな夫の無神経さ、意識の古さが往々にして妻の心をひどく傷つけるようです」
 また妻自身の問題として、夫の在宅によって、「妻とはこうあるべき、こうするべき」と思い込んでいる良妻賢母意識が過剰反応してしまう面もあるのではないかという。「夫が仕事の役割を終えて家に入るのに、不満を抱えるとは妻として何事か、やさしく迎えなければならない」と、苛立つ自分の気持ちに罪悪感を抱き、それがまた精神的負担に拍車をかけてしまうのである。
 「いずれにしても長い結婚生活の間に、夫と妻の間には心理的な距離ができてしまっていることが多いわけですから、定年による生活の変化は夫婦にとって新しい局面なんだという認識のもとに、夫婦二人の今後をどう生きるかについて話し合うことが必要でしょう。その際に大切なのは、二人で家庭を運営していくんだという視点であり、自立性と依存性で夫婦等しく、生活を相補的に分担することにあります。そうした心身の支え合いを実現することが、やがて来る良い老後設計にまでつながるものだと思いますよ」
 長寿がすすみ「定年後」は今や余生というには長過ぎる。さて、皆さん自身、あるいは周りの「定年後」にはどんな生きざまが見えますか?








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