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生き方・自分流
地域で支え合っていかなければ
在宅では死ねないことを
みんなに気づいてもらいたい
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託老所「あんき」代表者
中矢 暁美さん(54歳)
 
 年を取っても、体が不自由になっても、施設ではなく住み慣れた地域で、自分らしく当たり前の生活がしたい…。誰もが望むそんなささやかな願いを叶えるべく、1997年3月、勇敢にもたった一人で託老所「あんき」を立ち上げたのが中矢暁美さん。それは愛媛県で初の民間託老所でもあった。「老いや死を考えることは、前向きに生きることと同じくらい大切なこと」と語る彼女の目指す福祉とは。この4年余りの活動を振り返りつつ、思いの丈を語ってもらった。
 (取材・文 城石 眞紀子)
 
 愛媛の空の玄関口・松山空港から車で10分、松山市の海岸寄りに位置する漁師町、西垣生町にある託老所「あんき」に到着した。そこは築70年は超すという古い日本家屋で、中に入れば土間に、畳の部屋に、床の間。神棚や壷など、そこにある様々な小物たちも使い古されたものばかりで、まるで昭和30年代にタイムスリップしたかのよう。そしてこの懐かしさ漂う風景の中で、8名のお年寄りが、自分の家にいるのと同じようにくつろいでいた。
 「ここではしてはいけないことも、しなければならないこともない。おしゃべりをして、ご飯を食べてお茶を飲み、天気が良ければ散歩にも行くし、汗をかけば風呂に入る。ごく普通の日常生活を送っています。だから誰が利用者で、誰がヘルパーなのか、一見しただけじゃわからんでしょ。でも、そういうふうに普段着で付き合えるのが一番いい福祉だと、私は思ってるんですよ」
 そう言って豪快に笑う中矢さんは、とにかく元気で明るい人。さすがはあんきの“親分”だけのことはある。
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築75年の日本家屋を改修して託老所に
自分が入りたいと思えるような施設をつくりたかった
 高校卒業後看護婦となり、20歳で結婚。子育てが一段落した81年に、松山市のホームヘルパーとなった中矢さんは、在宅介護に携わる一方、看護婦として特別養護老人ホームに勤務するなど長年福祉にかかわってきた。そんな彼女が託老所を設立しようと思ったきっかけは、大規模施設での介護のあり方に疑問を感じたことにあるという。
 「初めて特養を訪れたとき、機械浴というのを目にしましてね。ものすごいショックを受けたんです。こんなんで、まるで流れ作業のようにして人間をお風呂に入れるのかと。しかも入所者はみんな一様に、目がボオッと虚ろで、無表情。一体これは何やろうと思い、その訳を知りたくて勤めさせてももらいましたが、結論からいえば、自分が年を取ったときにそこに入りたいとは思えなかった。ならば、自分が入りたいと思えるような施設を、自分の手で立ち上げるしかない。そう考えるようになったんです」
 とはいえ、福祉は行政がやるもので、民間がやるものではない、そういう保守的な風潮が強いこの地域で、個人が託老所を開設するのは大変なこと。特に中矢さんは「自分が死にたいとするところから、福祉を変えていかねば意味がない」と、地元開設にこだわっていたからなおさらだ。
 「変人はもちろんのこと、何かいかがわしいことをやっているんじゃないか。そういう冷ややかな目で地域の人から見られることは必至。果たして、それに自分は耐えていけるのだろうかと思うと、なかなか踏み出す勇気が出ませんでした。でもあるとき、知人から助言を受けましてね。“やりたい、やりたいと思って死ぬのも一生。やって失敗しても一生。成功しても一生。どれを選ぶかだし、たとえ失敗したとしても、それがあんたの人生のどれだけに値するかといえば、大したことじゃない。何をそんなに恐れているのか”と」
 そしてこの言葉に後押しされてついに開設を決断。託老所の名前を“気楽”を意味する松山弁“あんき”としたのは、この場所をお年寄りにとって、自分の家のように安らかであんきなところにしたいとの思いを込めてのことだった。
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家庭的な雰囲気の中で、利用者は
自宅にいるのと同じようにくつろげる
行政のお墨付きが必要と介護保険事業に参入
 こうして地元の民家を借りて改修をし、たった一人で、どこからの補助も受けずに託老所を始めた中矢さん。その画期的な取り組みと、心を大切にしたケアは、新聞やテレビなどにも取り上げられ、問い合わせや見学者が殺到。一時はボランティアも大忙しだったという。だが肝心の利用者といえば、毎月1人か2人。経営的には大赤字が続いた。
 「老人保健施設や病院などにも営業に行きましたが、ほとんどの人は託老所がどんなところか知らないので、利用者を回していいかどうかわからなかったようです。行政のお墨付きではないので“あやしい”と思ったんでしょうね。また公的補助がないため、利用者に負担がかかりすぎる(1日3500円)ことも大きなネックでした」
 そんな託老所運営がようやく軌道に乗ったのは3年後。介護保険事業に参入してから。「それまで“あそこでは行政がすすめないことをしよる”といった見方をしていた人たちも、居宅・通所・訪問の3つの介護事業に参入したことで行政のお墨付きになったと、あんきの存在を認めてくれるようになったんです。おかげで今では、毎日6〜10人の利用者が来てくれるようになりました」
 そして赤字を脱したことで次なるステップとして、近くにもう一軒借家を借り、夜間のショートステイも開始。「ちょっと疲れたから今晩預かってほしい」といったニーズにも臨機応変に応えられるようにと、ここは敢えて“保険の枠外”でやっているという。
 「わざわざ託老所と別の場所を借りたのは、昼間のデイサービスからそのまま継続して利用する人も少なくないので、朝になったらさあ行くよ、夜になったらさあ寝に帰るよ、という雰囲気を醸し出すことが必要だと思ったから。生活にメリハリがないと、私たちだってボオっとしてしまうやろ。まあ、こういうムダをしているからちっとも、もうからないんですわ(笑)」
地域通貨も取り入れて助け合いの輪を広めていきたい
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地域通貨を利用した習字の時間

 ショートステイを始めてからというもの、中矢さんは1日24時間、365日無休で介護にかかわる日々。「最近はちょっと疲れ気味かも」と苦笑いはするものの、その口の端が乾かぬうちに、「ゆくゆくはお年寄りが互いに助け合い、労り合う痴呆のグループホームもつくりたい」といった夢を熱く語るのだから、まったくそのバイタリティーには驚かされる。一体、彼女をここまでつき動かしている“思い”とは何なのだろう。
 「元気なときはみんな、福祉や老後の問題を他人事のように考えていて、“自分だけは痴呆にならない。ポックリ死ねる”と思おうとしている。でも、現実にはそううまくはいかない。ならばそこから目を背けるんじゃなくて、ぼけても、寝たきりになってもいいような準備を今のうちからしておかなければいかんという、危機感ですかね。地域住民が手をつなぎ、みんなで支え合っていかないと、決して在宅では死ねないんですから」
 そのことを一人でも多くの人に気づいてもらい、そして助け合いの輪を広げていくための“仕掛け”として、愛媛県の地域通貨モデル事業に申し込み、地域通貨「いまづ」を流通させることもし始めたという。
 「メニューは主に日常の助け合いですが、近くに住むお習字の先生に、週1回、あんきで教室を開いてもらったりもしている。それによって半身麻痺の方が、習字への意欲に燃えてイキイキし始めたり、先生自身もがんの手術をして以来、家にこもりっきりだったのが生きがいを取り戻すなど、双方に思わぬメリットが生まれているんです。今後は地元の中学生なども巻き込んで、世代交流もしていければいいですね」
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今出の海岸の小石をイメーシした地域通貨「いまづ」

 地域の人が、地域で、地域の人を支えていく。言葉は簡単でも、実現には並々ならぬ苦労があることは、この4年間でイヤというほど味わった。それでもハードルが高ければ、高いほど燃えるタチ。「あんきの存在がその一助になれるよう、とにかく頑張っていきたい」という中矢さん。その意志は、どうやら鉄よりも固そうだ。








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