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新たな“生と死”を求めて 3
尾崎 雄
(プロフィール) 1942年6月生まれ、フリージャーナリスト、老・病・死を考える会世話人、元日本経済新聞編集委員。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほか。現在仙台白百合女子大学で非常勤講師として死生学、終末ケア論等を教える。
 
「今日われ生きてあり」
 
 「この手紙がとどくころは、沖なは(縄)の海に散ってゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるしてください。(中略)静ちゃんの名であづけてゐたいうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかってください。時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売ってお金にかへなさい。兄ちゃんのかたみなどより、これからの静ちゃんの人生のはうが大じなのです」。「今日われ生きてあり」(神坂次郎著)の一節である。
 「祖国の難に一命を捧げた隊員たちの特攻機が、250キロ爆弾を抱えてよろけるように飛び立っていった町。そんな隊員や、それを取り巻いた人びとの、さまざまな昏い思いが罩(こ)められている町、知覧」。昭和20年5月20日、大石清伍長は敵艦に突入するとき、妹が作ってくれた人形が恐がらないよう背中にしょって知覧基地を飛び立っていった。
 「僕の生命の残りをあげるから、おばさんはその分、長生きしてください」と言い残して出撃した少年飛行兵もいた。本書にはそんな珠玉の物語19話が収められている。
 私は昭和17年生まれ。昭和20年には空襲警報のサイレンを聴き家族に手を引かれて防空壕に逃げた最後の世代に属する。同年の友人に奨められて本書を新幹線の車中で読み、慟哭、滂沱すること十数回に及んだ。ここに登場する青年たちは、自分よりも家族、恋人、婚約者や世話になった人々を気遣い潔く死んでいった。いま私自身の息子は当時の特攻隊員と似た年頃。冷静にこの本を読むことはできないのだ。それにしても、彼らは、なぜ、かくも潔く死んだのか?
 十数年前の春、桜が満開の京都を思い出す。日本医学総会は初めて患者と一般市民に門戸を開いたが、がん告知のシンポジウムに登場したがん患者の告白が忘れられない。一人は「なぜ隣の奥さんでなくて、よりによって私ががんなの!」と不条理に対して憤りをぶつけ、もう一人の女性はさわやかに語った。「がんであると告知されたとき、病室から見える木々の緑がこのうえなく美しく輝いていました。この世界はなんと素晴らしいんだろう」。私は、人は死と向き合ったとき世界が美しくなるということを知った。
 特攻を志願、死を自己決定し、予め死を受け入れた青年にとって、静澄な心境で死に臨むことは死を知らぬ我々と違って、それほど困難なことではなかったのだろう。作家、神坂次郎氏が「敗戦以来ひたすら集めつづけてきた資料」を基に本書の筆を起こしたとき、戦争が終わってすでに37年の歳月がたっていた。それまでは「心を罩(こ)めて書けば書くほどその作品が、戦争を知らない若い世代から更に乖離していく」ことを恐れていたからである。
 そして約20年。平成の若者たちにとって「死」とは……。








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