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生き方・自分流
ハンドルを握って37年
「人とのご縁を大切に」をモットーに元祖タクシーオバサンは花のお江戸を今日も快走中!
東京個人タクシー太陽協会会長
青野 輝子さん(75歳)
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 真っ赤な服に金髪。見た目もとびきりド派手なら、その生き方もまた実にエネルギッシュ。女性タクシードライバーの草分けとして、ハンドルを握って37年。決して順風満帆な人生ではなかったが、どんなピンチも持ち前の負けん気とプラス思考で乗り越えてきた。そして、75歳になった今でも現役で走り続け、その傍ら、テレビ・ラジオへの出演やエッセーの連載、全国各地での講演なども精力的にこなす。「生涯現役」をうたうこのスーパーおばさんにとって”老い”の二文字は無縁のようだ。
(取材・文/城石 眞紀子)
 
 春とはいえ、まだ肌寒さが残る昼下がり。東京・杉並区の青野さんの自宅に向かう途中で、携帯電話が鳴った。
 「今どこにいるの?何ならこれから愛車で迎えに行ってあげようと思って」と、はずむような明るい声。あと30分ほどで駅に到着する旨を伝えると、今度は改札まで出迎えに来てくれた。
 「せっかちで、おせっかいなのが性分なんですよ」というが、何とまあフットワークの軽いことか。おまけに40年来続けているというそのド派手スタイルに見惚れていると、「名前が青だから、頭の黄色と服の赤を合わせると信号と同じ。安全運転の証なんですよ」と、小気味よい言葉がポンポンと飛び出す。
 「今も、夜の8時から午前3時ぐらいまで、花のお江戸を流しているバリバリの“現役”ですからね。疲れないかって?全然へっちゃら。だって、生きることに気合が入ってますもん」と豪快に笑う。
 こんなアクティブな75歳は見たことない。そこにいるだけで周りがパッと明るくなる、そんなオーラすらあった。
家を捨てた夫との離婚を契機に生きることへ挑戦
 愛媛県松山市に生まれ育った青野さんは、小さい頃からウソや曲がったことが大嫌い。木刀を振り回していじめっ子を追い回すような負けん気の強い子どもだったという。
 女子師範学校を卒業後、17歳で小学校教師となるが、「神国だ、聖戦だ」と信じ、教えてきたことへの自責から、敗戦直後に退職。その後「どうしても、東京に出たい」と、22歳で単身上京。政治家の秘書やOL生活を経て、26歳で見合い結婚。一女の母となった。
 「ところが、私はこの通り、思ったことをズバズバ言ってしまう性格でしょ?内向的で口の重い夫はそれが気に入らなかったようで、ほどなく、愛人をつくって家を出ていってしまったんです」
 生活力を失った青野さんは途方に暮れた。だが、待てど暮らせど帰らぬ夫に、ある日ついに見切りをつけた。
 「去る者は追わずじゃ。娘と自分の二人分の食いぶちぐらい、何とかしたる!そう決心したんです」
 ありったけの知恵と勇気と行動力を総動員して、生きることへの挑戦を始めたのである。
 とはいえ、乳呑み子を抱えて離婚した女が、安定した収入を得るのは今ですらたやすいことではない。ましてや当時は戦後まもなくの昭和30年代初頭。それでも内職で細々と食いつなぎながら、どうしたらよいのかを考え続けた。そしてある日、娘をおぶってのお使いの帰り、往来の車を眺めていた時に、フッとひらめいたという。
 「これからは自動車の時代が来る。そうだ、車のセールスマンになろう!」
 これが青野さんにとっての転機となった。
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今の最愛なる「亭主殿」は10歳年下で、同じ個人タクシー運転手。「飲む、打つ、買うはいっさいしない。曲がったことも大嫌い。負けん気の強い私をいつもカバーしてくれる、拾いものの亭主です(笑)」
「女はダメ」と断られても諦めず「女でもよかった」と言わしめる
 車を売るからには、まずは運転免許が必要。そう考えたものの、食べるのに精一杯の身で軍資金などゼロ。それでも妹から借金をして免許を取得し、日野ルノーを購入した青野さんは、その足で日野ルノー販売に乗り込み、「雇ってくれ」と直談判。
 「うちは男しか雇わないと門前払いに遭いましたが、雇ってくれるまでここを動かないと粘りに粘り、ついに相手を根負けさせました」
 こうして、「テストケース」という条件付きだったが、晴れてセールスの職を得ると、子連れでセールスに走り回り、数年後には、大学卒の初任給が1万3000円の時代に10万〜30万円の収入を得てセールストップに。だが日野ルノーの製造中止で、その会社は閉鎖。同業のトヨタや日産へ転職する人が多い中、「昨日までルノーを売っていた人間が、すぐに他社のモノを売るなんてできない」と、あっさり退職。今度は腕に覚えのある車の運転で稼ごうと、車を売り込んでいたタクシー会社に、自分を売り込もうと考えた。
 「ところが、当時のタクシー業界は今に輪をかけての男社会。タクシー会社を22社も回りましたが、“女はいらぬ”のひと言で、皆断られました。そして23社めにしてようやく、車のセールス時代に知り合い、後に夫となった亭主殿の口ききで、彼の勤める会社にもぐり込むことができたんです」
 またしても「テストケース」という条件付きだったというが、車のセールスをやっていて地理に詳しかったことが武器になり、何と水揚げは初日からトップ。3か月後には「水揚げ四天王」と呼ばれるまでになった。
 「車のセールスのときもそうでしたが、雇わないと言われたところを雇ってもらったのだから、“女だってよかった“と言ってもらえるように、がむしゃらに働きましたよ。それがまた自分自身の張りになり、生きがいにもつながったように思います」
毎日を一生懸命生きることが若々しさを保つ秘訣!
 以来、個人タクシー業務への切り替えを挟み、37年間。総走行距離は180万KM超、延べ14万7171人(2001年2月末現在)のお客さんを乗せ続けている。この数字は女性タクシードライバーではまず、追随する者はない金字塔だ。
 「この仕事が一番長続きしたということは、やはり性に合っていたんでしょうね。せっかちなもんで、今日の努力が即、目に見えるのがいい。そして何より、ほんの数分、数十分でもタクシーという一つ屋根の下で一緒に過ごすと、いろんな人生を勉強させてもらえる。それが楽しみでね」
 上役と部下の忍ぶ恋の不倫カップル、夜の蝶々さん同士の内輪話、若い男女の愛の告白、そして別れ話…。実にいろいろなドラマを見聞きする中で、つい一緒になって考えたり、悩んだりしてしまうという青野さんは、「人の2倍も3倍も人生を生きた気がする」と振り返る。また、3度も偶然乗りあわせて恋人の相談を受けた男性、産気づいた奥方を乗せたのが縁で子どもに自分と同じ「輝子」という名前を付けてくれた夫婦など、今も心に残る出会いもあった。もちろん、これだけの数ともなれば、いい客ばかりではない。乗り逃げや自転車泥棒に出くわしたこともあれば、首を絞められかけたこともある。
 「それでも、よほどのことがなければ会えない偶然の出会いですから、その人がどんな人であれ、お乗りいただいたお客様には、“ご乗車ありがとうございました“という気持ちです。結局、私は人間が好きなんでしょうね」
 さらに、そうした出会いのひとコマとして、編集者に車中で四方山話をしたのが縁で、その半生を綴った本も出版。それをきっかけに、テレビ出演や講演の依頼なども舞い込むようになった。
 「昔から、生きるためにすぐ稼げる仕事ばかりやってきた。でも、その人生に共感して、あちこちからお声をかけてもらえるんだから人生って面白いもの。人様とのご縁を大切に、をモットーとしてきた私としては、こんなうれしいことはない。おかげで、生きてて退屈する間もありませんよ」と笑う。
 人は困難にぶつかったとき、それをどうバネにするかで、その先の人生が決まるという。青野さんの場合は、どんなときでも決して、他人を恨んだり、諦めたりすることなく、向こう見ずなほどの行動力とプラス思考で、自らの人生を切り開いてきた。当のご本人は「自分のことは自分で始末したらええじゃと、毎日、毎日をただ一生懸命生きてきただけ」とさらりというが、その自立精神こそが、いつまでも若々しくいられる秘訣なのかもしれない。
 「さあて、また話のネタでも仕入れに出かけますかね」
 そろそろ、夜の街へとタクシーを走らせる時間が近づいてきた。
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生来の話し好き。「仕事中、お客様と話がはずむこともしょっちゅうです」








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