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まちのお医者さん最前線 1
 川崎幸クリニック院長 杉山 孝博
 すぎやま たかひろ
1947年愛知県生まれ、東京大学医学部卒業。川崎幸病院副院長を経て現職に。在宅の高齢者宅等を自転車で往診する銀輪先生として、また「ぼけの専門家」として地域医療に情熱を傾ける。
私のボランティア体験
 1968(昭和43)年から69(昭和44)年にかけて全国の学園で学園闘争が吹き荒れた。私が大学教養学部2年生の時で、水俣病などの公害問題が社会の関心を引き始めた頃でもあった。この動きの中で流れていた思想は「現状を無批判に受容するのではなく原点を見つめ問い直すこと」であった。
 サリドマイド裁判の支援運動や整腸剤として使われたキノホルム剤によるスモン運動、その他薬害・医療被害の運動に参加するようになった。サリドマイド児などのキャンプやサッカーの練習にリーダーとして参加して被害児や親との接触を持ち、東京から大阪までキャラバン隊を組んで薬害問題を訴えたこともあった。
 運動にかかわる中で感じたことは、大変な苦労や差別に苦しんでいる人たちがいて社会はその存在に関心を払おうとしないこと、産業活動や医療行為からも被害者が発生すること、自分たちが進もうとしている医学・医療の現場では悪意がなくても加害者になりうること、被害者や障害を持った人にかかわった者が一緒になって声を上げ社会に訴え続けることで社会の関心を喚起できること、市民運動では参加者が平等な立場で力を出し合うことが原則であることなどであった。
 これらの経験が私自身の以後の人生を決定づけたと思う。社会的な問題と医療とのかかわりを求めて内科を選び、研修後医局に入局しないで地域医療に取り組むため川崎幸病院に常勤医として勤めることになったのも、また、当時まだ認められてなかった自己注射治療などの自己管理治療に取り組んだのも学生時代の体験が決定的な影響を持っていたのである。
 1981年の初め、地域医療で交流のあった京都・堀川病院の早川一光先生から、呆け老人をかかえる家族の会神奈川支部を発足させたいので協力をしてほしいという電話で呆け問題に取り組むようになったが、以来20年になる。現在、全国本部の理事と神奈川県支部代表として活動を続けている。
 1975年には、「空飛ぶ車椅子の会」の企画したカナダ旅行(車椅子の障害者、看護婦、通訳など総勢43名が参加)にボランティアの一人として参加した。歩道の段差や歩道橋などのため障害者が外出することもままならなかった当時では、障害者の海外旅行はまだ珍しかった。
 79年には、スモン原告団・弁護団国際行動のためスイスまで出かけて、キノホルムを製造販売し薬害の責任を認めようとしていなかった製薬企業にデモンストレーションを行った。 以後、有償ボランティアの活動や、「託児所があるのだから託老所があっても当然ではないか」という素朴な発想で始められた川崎市幸区「老人デイケアやすらぎ」の活動など、多くの地域活動にかかわりを持ってきた。
 様々な立場や考え方、経験を持っている人たちとの交流を通して、私は今後も原点を見据えながら、医療活動を行っていきたいと思っている。








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