日本財団 図書館


2.家族との再会援助
 ISSJの家族再会の相談援助は、依頼者の求める人物の所在を探し現住所や連絡先の電話番号を依頼者に教えて終わるものではない。依頼者との関係や捜し出したいと考えるまでの経過、そしてその動機など、出来るだけの情報を得た上で、相談者の依頼に沿うよう、援助を進めていく。
 ISSJの仕事柄、何十年も前に養子となった「子ども達」から実母捜しの依頼が多いが、第二次世界大戦をめぐって、父、母、子どもが様々な形で離れ離れとなり、何十年の月日を経て父親、母親を捜し再会したいと願う子ども、子どもと再会したいと願う父親、母親、夫や元の恋人を捜したいという人の援助に携わることもある。このようなケースはISSの各支部を通して照会されて来る場合が多く、国際社会福祉を専門とし、海外ネットワークをもつISSJ特有の援助活動である。
 
事例4:米国に養子縁組した養子が実親と再会したケース
 日本人を両親として日本に出生し、両親が結婚できなかったことで、実母の経済的理由から米国人夫婦の養子になった「子ども」からISSJに実母捜しの依頼があった。養子Fは現在、日本の文部省主催の「日米交換教師」のプログラムで2年間日本の高校で英語教師として教鞭をとるため来日していた。Fの養親は、日本に行く機会に実母へ連絡をとる気持ちがあるのなら良い機会だし、この養子縁組を援助したISSJに連絡をとることを勧めた。ISSJは養子からの依頼を受けて実母捜しを始めた。実母は子どもを養子に出した後、米国人と結婚、渡米し、米国籍に帰化していたため彼女の居所を探すことに多々困難はあったが、彼女の居所を知ることが出来、連絡をとった。米国人夫と離婚後、彼との間に生まれた娘を残したまま一人で日本に帰国し、独り暮らしをしていた。
 彼女の人生に押し寄せた様々の荷の重さに苦しみ、お酒によってごまかしながらの生活を続け、結果として重度の肝臓障害と戦う日々であった。定期的に通院し注射を受け、服薬が欠かせない状態である。
 ISSJからの連絡に「今まで息子のことは忘れたことはなかった。どうしているのかと心にかけていた。できることなら会いたいと考えていた。しかしこんな望みはかなうものではないと思っていた。」と、そしてまた彼女の過去の生活についてもポツリポツリと語り始め、「息子が日本にいるなら、私の望みも夢でなく、実現するんですね」と息子に会うことへのはやる気持ちをやや興奮しながら伝えた。しかし同時に、現在の自分の姿を子どもに見せることへの不安感から会うことへの躊躇を示し始めた。母親の承諾を得て、養子に母親の現状を徐々に伝えて、彼の受け入れ態度を確認しながら、彼の実母と会うことの準備を整え、彼の気持ちに変わりのないことを確かめ、そのことを実母に伝えた。実母は、息子の描く「母親像」と現実の自分の姿のギャップの大きさに、彼女の不安を取り除くことが出来ず、大きな悩みとなり苦しんでいたが、誰でも「理想像」と現実との間の違いはあることなど話し合い、実母はついに不安を持ったままの自分を受け入れ子どもに会う決心をした。我々は常に、養子縁組の手続きは法的手続きが終了したときに、すべて終わるものでないことを教えられる。
 
事例5:日本人実父との再会援助ケース
 ISSオランダ支部を通じ、オランダ在住の女性Gから日本軍人との間に出生した子どもの父親捜しの依頼があった。太平洋戦争中、インドネシアに駐留した日本軍人がインドネシア在住のオランダ系女性と親しくなり、彼女との間に子どもが生まれた。日本人父は日本に妻がいるため、彼女との結婚は不可能であった。やがて終戦を迎え、彼は日本に帰国した。その後、Gはインドネシアあるいはオランダで肩身の狭い思いを抱きつつ、日本軍人を父に持つ子どもを母親一人の手で育てなければならなかった。まして、父親探しの依頼を公的機関にすることは彼女にとって想像も出来ないぼどの決心が必要であった。この父親捜しの依頼は、子どもにとって「アイデンティティ」の確立のために重要だと長年悩み考えた末の母親の決断である。
 このような状況の中に生まれた子どもが結婚をし、夫の励ましと支援があって父親捜しの依頼をしたケースもある。
 ISSオランダ支部から連絡された父親の氏名はローマ字で、漢字ではなかったうえ、生年月日は不明、当時何歳ぐらいとしか分からなかった。帰国時の船の名前が不明確ながら分かる場合もあるが、彼に関する情報はきわめて少なかった。ISSJでは厚生労働省の援護課に文書で父親捜しの依頼をしたが、情報が少ないことで人物を特定することが出来ず、依頼者の希望をかなえることが出来なかったのは残念であった。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION