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大連に生まれて
 ―波瀾の五十六年―
福久 一枝(ふくひさかずえ 一九二六年生)
 
 毎年八月十五日が巡ってくると、五十六年経った今も私にとって、昭和二十年(一九四五)八月突然の敗戦に見た悲惨極まる光景が心に焼きついて離れられないのであるが、今日の若い世代には遠い歴史の一事実にしか過ぎないであろう。
 私は大正十五年(一九二六)中国大連に生れ、旧満州の東北で青春時代を過ごし、敗戦を迎えた時は旧関東州旅順師範学校在学中だった。年齢を重ねるごとにあの頃は遠い昔になってしまったが、目を閉じるとさまざまな想い出が浮んできて、今昔の感に堪えない。ただ敗戦の日の夜空の星が異様なほど美しかった情景が私の脳裏を去来するのである。
 窓に見る、星月夜、白菊寮に学友集う、胸の底夜半の涕泣早天に到る。
 短かった旅順の日々ではあったが、今では同じ体験を語る学友もだんだん少なくなり、記憶も薄らいできているが、往時を思い起こせば、互いに惜しみなく学ぶ道に青春を捧げた時代の共通の思いが甦ってきて、若いエネルギーを取り戻すことができ、明日への活力が湧いてくる。
 しかし七十も半ばとなり、辛かった思い出と言えば、その年の九月戦後の混乱の中で一家離散の憂目に遇い、命を賭けての逃避生活。何度かソ連兵に捉まり、胸に銃剣を突きつけられて生きた心地がしない悪夢のような記憶がいつまでも消えない。やっと一人で旅順を脱出し、大連の知人の家に身を寄せたが、そこでも「ヤポンスキーマダム、ダワイ」(日本の女を出せ)と追っかけ回され、逃げ隠れしている最中、結核性肋膜炎の再発で倒れ、生活のより処を失い、路頭に迷っている時、知り合った中国の青年が私の生命を必死で守ってくれたのである。生死の境にある私は心の中で是か否かの間をさまよったが、彼のやさしい人間愛に恩を感じ、自分の意志で自分の一生の伴侶として彼と運命を共にすることを決意した。当時中国人側から言えば日本人と結婚することがどんなに厳しいことであったか、私には知る由もなかった。
 一九四七年正式に結婚することによって解放後の中国に留まり、激動と苦難の時代を子育てしながら、男女同権、男女平等に働けることは、私が望んでいる理想的な世界でもあった。私は平凡な生活の中で、看護婦を志願し、中国国籍を取得し、三十二歳で更に険しい医の道へ進み、小児科医の資格を取り、三十年間医療に従事した。そして一九八七年六十二歳で定年退職するまで、四十年間新中国の女性と肩を並べて天の半分を支え(起了半辺天的作用)日中友好の懸け橋を担う家族であることを願って、ただ一筋に生きてきたのである。
 だが私が戦後中国で生活した四十五年間の中で忘れてならない大事なことが三つある。その一つに医者となってすぐ農村巡回医療隊に参加し、辺ぴな農村に二度赴き「五億農民の健康に奉仕せよ」との教えに、現地の医者「赤脚医生(治療をしないときには農業に従事する)」の協力のもと、寝食を共にし医療に心血を注いだ。その間農民幹部は国境と人種的な偏見を越えて、私を温かく迎え入れ、その寛大で人道的な心配りに深く感動し、「人民に奉仕」(為人民服務)することが終生の事業であると信じ、これによって私の人生観は変ったのである。
 そのあと一九六六年(昭和四十一年)、中国全土に吹き荒れた「文化大革命運動」の嵐の中に叩き込まれた。日本人であるが故に避けて通れない道であると知りながらも、思いがけない苛酷な運命と試練が待っていた。それは七ヶ月にわたる軟禁生活を余儀なくされた上、ある時には理不尽な事(殴る蹴る)を受けたり、ある時には重労働を強いられ、碌な食事も与えられず、どうなることかとかたずを飲んで我慢するしかなかった。だが血も涙もない苦しい辛い反面、かけがえのない家族の深い愛情の絆があったからこそ、如何なる逆境に立たされても負けない強い信念と力で乗り越えることができたのだと感謝している。
 それから一九七九年(昭和五十四年)に日中平和条約が結ばれ、この明るいニュースは中国残留日本人孤児と残留婦人にとってこれに勝る喜びはなかった。当時誰しもが心の中で一歩でも少しでも祖国日本に近づいたような気持でいっぱいだったと思う。
 年々両国の文化交流が深まる中、これを機に日本語教師に転職したが、長い間使わなかった日本語会話の能力が試され、記憶の中の空白を埋めるため故郷の広島へ一時帰国し、半年間の語学留学を終えて再び大連外国語学院に戻り.十年間日本語の人材養成のために努力した。
 過去に学んだ日本語の基礎知識と戦後実際の生活の中で身につけた中国語を活かし、日本語教師としての使命を全うすることができたのは、私の仕事を理解し、全面的に支持してくれた良きパートナーである夫の惜しまぬ援助のおかげであったと思っている。
 そして定年退職後、子や孫たちが「日本へ行って勉強したい」「お母さんの祖国日本で暮したい」と言う強い要望に、心に葛藤を生じ苦しんだが、自分の老後を見つめ、また二世三世の将来の幸わせを思い、考えに考えた揚句の決断であった。ついに一九九一年(平成三年)七月夫婦で無事母国の土を踏み、六十五歳の時第二の人生のスタートを切ったのである。
 帰国早々、再び教壇に立って日本語を教えながら、四人の子等の家族(全員十二人)を中国から呼び寄せるために、二年間かかったが、その間あらゆる困難に耐えながら皆と力を合わせ、生活の基盤を築くかたわら、日本事情を学習し、文化や言葉の壁を乗り越え、地域の国際交流活動に参加し、多くの人々の協力と支援の下、やっと日本の生活にも慣れ、子供達も次々と独立して私達に孝行してくれて、日本に帰ってきてほんとうに良かったと思った。
 しかしその矢先、夫が糖尿病を患い、脳梗塞で他界したのである。それからすでに四年の歳月が過ぎた。長年住みなれた中国を離れ、昔を語る友達もなく寂しかった夫は、ある日私に向って「世の中にはどこへ行っても骨を埋めるふさわしい青山がある」(人間到処有青山)と言っていた。
 夫は、日本をこよなく愛し、私の幸わせのためなら、どんな苦労も惜しまなかった。夫といっしょに、成田空港に降り立った時の嬉しそうな表情が、今も目に浮んできて涙を禁じ得ない。特に四人の子や孫たちの将来を楽しみに、想い出のアルバムを整理しながら「あとを頼むよ」と私に託し、思い残すことなく逝ったのである。
 その時、私ははじめて家族を思う愛情の深さと、偉大な父親の姿に感極まり、哭きに泣いて半年を過したのだった。
 夢であって欲しい願いも空しく、もう夫はこの世の人ではない。かえりみると金婚記念日を祝ってもらった五十年の幸福の日々も走馬燈の如く、あっという間に過ぎ去ってしまったが、今私は夫とはじめて出会ったあの夜の美しい星の輝きを胸に心静かに、昇天した夫への哀歌を歌い続けるであろう。
 人生なんて紙一重、一人の力(自力)なんて小さなものだ、人間一生いい人に出会うことが一番大事なことではなかろうか。私のまわりにはいつも好朋友がいて、どんなにか私を救ってくれたことか、どんなにか私を励ましてくれたであろうか(他力)、今はご縁とご恩で生かしてもらっている感謝の心を大切にしたいと思う。
 夫に長生きして欲しかった。そうしたら二人で私達を支えてくださった皆さんに、たくさんご恩返しができたのに、それだけが心残りである。
 私は戦争体験者である。日本人の運命を大きく変えた戦後五十六年を一つの区切りの年とし、永住帰国十年を記念し、また今七十五の齢を数えるにいたり、これから先過去にとらわれず老いて益々元気「老当益壮」、実りある第三の人生の出発に際し、明るく愉しく過ごしたいものである。
 両国にとっての関心事である「中国残留日本人孤児」の肉親捜しはまだ終っていない。敗戦で青春を犠牲にし、自分で自分の人生を選ぶことのできなかった残留婦人達が「二度と戦争をしてはならない」「私が死ぬまで戦後は終らない」と言ったこの言葉の重みをしっかりと胸に銘記し、戦争を知らない世代に真実の歴史を伝え、真実を風化させてはならない。そうすることが私の前の世代を生き抜いた人々へのせめてもの償いではないかと思うのである。
 私は日本に住んで十年になるが、度々生れ育った原点である中国に帰ってみるとき、いろいろな感慨にひたるのである。特に大連は私一家の思い出がぎっしり詰っている懐かしい「故郷」として心に生き続けている。
 中国も私が帰って来た頃と比べれば、急激に変った。ただ経済面だけではなく、人々の生活も豊かになり、考え方も自由になった。中国の学生も自由に日本への留学ができる時代となった。友好促進にとって人的交流に優るものはなく、二十一世紀は日本の若い人達がすばらしい中国の文化を学び、中国との友好交流に活躍してくれることを大いに期待している。たとえ日本と中国にどんな変化があろうとも、いつまでも「日中両国の懸け橋の担い手」になり続けて欲しいと思うのである。
 二十一世紀に生き残り、私の波乱曲折の人生の中で喜びと悲しみが、生々しく交錯し、改めて生きていることのすばらしさと平和の有難さに、強い感動と感激を覚えるのである。








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