母の祈りは時空を超えて
徳植 弘幸(とくうえひろゆき 一九三五年生)
■父の応召
父に召集令状(赤紙)が舞い込んだのは、日本の敗色が濃くなった昭和十九年(一九四四)の三月初めだった。「俺達が召される時は日本が戦に負ける時だ」と口癖のように言っていた父は、三十六歳で陸軍に入隊、横浜、神戸、福岡の連隊を盥回しにされた挙句、行く先も告げられずに、外地へと送り出されていった。
当時、私は国民学校(現在の小学校)の二年生であった。父との別れの挨拶は、目と目でしか交わせなかった。「元気で行ってくるよ。心配しなくていい。お祖母さんや、お母さんの言うことをよく聞いて、しっかりと勉強するんだ」父の目は、そう言っているように見えたので、「うん」と目で返すより外なかった。
父は、東京の麻布で、義母と妻、四人の子供、それに一人の弟子を抱えて、経師屋(表具店)をやっていた。とくに目をかけていた、通称八ちゃんと呼んでいた弟子(二十三歳の若者)が海軍に取られて間もなく、南太平洋のソロモン群島付近で、敵の魚雷を受けて青海に散り、航空母艦と運命を共にした、そのショックがさめやらぬうちの出征だった。
■集団学童疎開・縁故疎開
残された家族は、戦況が悪化する中、不安な毎日を送っていた。東京も敵機の襲来を受けるようになり、危険だというので、田舎へ疎開することになった。
私は、栃木県足利郡山前村の光明寺というお寺へ集団学童疎開、母、祖母、幼い弟二人と妹一人は、新潟県西蒲原郡地蔵堂(現在、分水町地蔵堂)の親戚へ縁故疎開と、別れ別れになって、東京から地方に散っていったのである。(後に知ったことだが、“疎開“というのは、敵襲・火災などの被害を少なくするため、都市の人や物を地方へ分散させたり、建造物を取り払ったりする軍事戦略用語だったのである。)
私が、疎開したところは、群馬の太田飛行場が近かったせいか、たびたび銀色に光るB29大型長距離爆撃機の襲来を受け、決して安全とはいえなかった。また、家族と別れて一人で生活することは集団とはいえ、耐えがたかった。食糧事情もあまりよくなく、当時の写真を見ると、頭だけが大きく、体はやせて骨と皮ばかりで、まるでタコのようであった。唯一の慰みは、戦地から届く父からの軍事郵便ハガキだった。“元気で体に気を付けて、一生懸命勉強しなさい。お父さんもがんばるから“という内容のものだった。それ以外に書きたいことはいっぱいあったけれども検閲で書けなかったのであろう。
六ヵ月ほど経って、九月ごろだったと思う。祖母が迎えにやって来て、私も家族のいる新潟へ行くことになった。親戚の家にやっかいになっていた新潟の家族も苦労を重ねていた。体の丈夫でなかった母は働くこともできず、祖母、子供三人を抱えて、食べていくのがやっとだった。品物を物々交換してなんとか食いつないでいたのである。
■よみがえる記憶
昭和二十年(一九四五)八月十五日、戦争は終わった。日本は敗れたのだ。あれから、もう半世紀余りが経つ。“光陰矢の如し“私にとっても、あっという間の五十余年だ。
あの戦争というと、私は父の応召、集団学童疎開、空襲、焼夷弾、防空頭巾、防空壕、家族の縁故疎開、ひもじさ、辛さなど、暗い忌まわしい記憶しか思い浮かばない。しかし、たった一つだけ、心に深く刻まれた、一生忘れることのできない感動的な光景がある。それは勿論、戦争と深く関わっていることであり、戦後五十余年経った今、ある一つのきっかけで、一層鮮やかに浮かび上ったのである。
そのきっかけとなったのは、ある雑誌のカラーグラビア―舞鶴港とその周辺の風景写真―だった。京都府の北にある舞鶴の港といえば、戦前は軍港として、戦後は幾十万という外地からの引き揚げ者を迎え入れた港として、よく知られているところである。
舞鶴の港を見おろす高台の引揚記念公園、園内の引揚記念館、復元された平桟橋、「ああ、母なる国」と刻まれた引揚記念碑などの写真を見ているうちに、私は五十余年前の現実に引き戻されていった。
■一枚の写真
戦争が終わって二年も経つのに、私たち家族は、東京に戻ることができず、新潟の親戚の家で疎開生活を続けていた。昭和十九年(一九四四)に応召兵となった父はいまだ復員せず、母は、実母、子供四人を抱えて、懸命に生活を支えていた、もともと体の弱かった母は、働くこともできず、質屋通いをしたり、持っていた品物や着物などを売ったりして、なんとか食いつないでいたのである。
家族の者がみな寝静まった夜更け、母は一人小机の前に正座して、一枚の写真を手にとり、じっと眺めていた。それは、セピア色にあせた、キャビネ判の、戦闘帽・国民服姿の夫(私の父)の写真だった。
戦いが済んで二年も経つのに夫は戦地から戻らず、生死も不明のままであった。生きて一刻も早く帰ってきてほしい、妻の願いは痛切であった。母はその写真をそっと机の上に置いた。
母の傍には、直径一センチくらいのこげ茶の小さな薄い一個のボタンが置かれていた。そのふたつのボタンホールには、十五センチくらいの白い糸が通してあり、糸の先は結ばれていて、糸を持ち上げると、ボタンは水平になるようになっていた。
母は、糸の結び目をつまみ、そのボタンを写真の夫の顔の上に静かに垂らした。写真の顔とボタンの距離は一センチ。息を殺してじっと夫の顔を見つめていると、不思議にも、ボタンは、顔のまわりをゆっくりと回り始めた。
「あっ、回った! 回った! 生きてる! 生きてる!」
顔の主が死んでいれば、ボタンは回らず、生きていれば、ボタンはくるくる回るという世間の言い伝えを母は固く信じていた。母の顔はほころび、安堵した様子だった。そして静かに床につくのだった。
こうした夜がいく夜、いや何か月続いたか。私は、母の、この光景は、目に焼きついて、忘れることはできない。母の切なる祈りは、時空を超えて、遙か異国の地に届くのであろうか。「夫は生きている」と信じた妻は、舞鶴の引揚援護局宛に「家族はみな無事。安心してほしい」旨の手紙を出しておいたのである。
それから二年後、母の願いは叶えられ、夫(父)は、最後の引揚船で無事生還した、あの舞鶴の港に。二葉百合子が唄う「岸壁の母」を聞くと、いまにも胸が張り裂ける思いがする。不幸な戦争で体験した命の尊さと、平和のありがたさを、次の世代に伝えるのがわれわれの使命であると思う
“平和は人類最高の理想なり“ (ゲーテ)