4. 喪失体験の精神医学
1)悲哀の作業
今日のように医療技術が発達すると,重い病態の治療が積極的に取り組まれ,その結果,医療管理下に生きる,救命された重い障害を背負って生きるという新しい問題をうみ出しています。医療はこのような患者さんの身体機能の喪失やその心理をどこまできちんと受け止めるかということが問われてもいます。このことについては,喪の作業とか,悲哀の作業といわれる精神医学の理論が参考になります。
2)悲哀の過程
「悲哀」は,愛する人が亡くなるといった非常に重い喪失体験によって心理的にショックを受けた時から立ち直るまでの一連の心理的な過程をいいます。それに対して「悲嘆」という場合は,「悲嘆に暮れる」という言葉がありますが,心理的な過程ではなく,そのときの情動反応をいいます。
悲哀の第一段階は無感覚です。ボウルビィの研究が有名ですが,典型的なものは身近な人が急死した場合などにみられるショック状態で,これは数時間から1週間程度続く無感覚な状態です。
第二段階は喪失体験そのものを認められずに,取り戻そうとする。この時期には涕泣,抗議,当たり散らし,怒りや医療スタッフに対する攻撃などが見られます。
そして,第三段階はもう取り返せないというあきらめの段階です。抑うつが生じてきます。またしばしばこの時期に,亡くなった人が隣のベッドにいるといった幻覚がみられます。これは非精神病性の幻覚です。
そして,第四段階の抑うつ状態を乗り越えて,喪失体験を忘れるということではなく,喪失体験を自分の中に秘めながら,新しい自分を構築しようとする段階に進みます。こうして大体1年以内に新しい生活に取り組むようになりますが,それ以上に長引く場合は,病的な悲哀といいます。
「死の瞬間」という著書で有名なキューブラー・ロスの末期がん患者の5段階の説はこれをもとにしたものです。がん患者は,愛する者の喪失ではなく,自分の予期された喪失ということでボウルヴィの悲哀の過程を踏まえてまとめたものです。
愛する人との死別や自分の生が限られたものだということだけでなく,自分の身体の一部を失ったり,機能が障害されるのも重大な喪失体験です。そういう患者さんの治療や看護では,この悲哀の過程を踏まえていることが大切です。
このことを端的に示しているのは脊損です。交通事故や転落で突然自分の体が自分の意思ではどうしようもない状態に陥ってしまいます。
私は幻影肢に関心があったので脊髄損傷の患者さんを20数例を診ましたが,最近久しぶりに脊髄損傷の患者さんの急性期にベッドサイドで接しました。その人がいちばん怒っていたのは安易な慰めや元気づけです。とりわけ医療スタッフに怒っている。「すぐに逃げていってしまい,自分の側にいない」そして「きっとよくなるとか,前より元気になったと激励していく」と怒っていました。その人の側にいて苦痛を受け止めることがまず求められているのです。そこからスタートしないといけない。抑うつの段階では安易な慰めや激励は,むしろ逆効果なのです。
医療スタッフにとっては自分自身が辛いから,側から逃げたい,早く立ち去りたいと思う。そういう光景はさまざまな場面でみられます。しかし,そういう患者さんには1日に3回2〜3分ずつ検温に行くのだったら,検温は1回にして10分間側にいるほうがよほど意味がある。そういう関わり方は,決して無駄な時間ではない。しかも,ゆっくりその人の話を聞くというのは,毎回必要というわけではない。その人と話が通じたと実感できると,それ以降そんなに話し込むことはなくなります。わかり合えた,信頼できる関係になったからです。その時間を惜しんだり,忙しいという口実で避けてしまったりすると,本当の意味でのつながりができません。
真正面から患者さんの訴えや愚痴に付き合うのは結構大変なことです。しかし,日常の看護ではそのことの大切さが正しく認識されていないように思えます。医療技術面では進歩したけれども,心理面のアプローチについて系統的なトレーニングが日本でなされていないのはなぜなのか。前にも言いましたが,技術の修得が高度化していることが挙げられます。その技術を身につけていないと患者さんは死んでしまうかもしれない。ところが,心理面のアプローチは問題があっても,患者さんが死ぬわけではない。そのためもうひとつの問題,つまり自分なりの対応ですまされている。そのことが検証されないので,責任も問われないのです。