6犯罪者による損害回復論−「民刑分離」思想の再検討
「民刑分離」は、近代司法制度における最大の成果の一つとされている。しかしながら、「民刑分離」は民事責任と刑事責任の分離こそ意味しても、刑事手続の過程で犯罪者による被害者への損害回復を考慮することまで否定することにはならないはずであり、「民刑分離」思想の故郷である欧州大陸では、古くより附帯私訴といった制度が存在し、コモン・ロー系の国においても、刑罰として被害者等への損害賠償を命ずる損害賠償命令が多用されている。
この点につき、我が国では長らく厳格且つ抽象的な「民刑分離」思想に固執する傾向があったように思われるが、現実には、我が国でも、戦前の旧刑訴までは附帯私訴を有していたし、今日の刑事手続の過程においても、微罪処分、起訴裁量権の行使、量刑、仮出獄、保護観察、恩赦の過程などで被害者に対する損害回復が一定の形で考慮・評価されている。また、2000年に成立した犯罪被害者保護法により、民事上の和解を刑事公判調書に記載することで債務名義とする制度が成立したが、これなどは既に日本的「民刑分離」思想を克服しつつあることを意味しているとも考えられる。
そうであるとすれば、刑事手続が犯罪者の刑事責任を追及するための手続であるという基本路線は維持しつつも、その過程で犯罪者による損害回復を促すような仕組みや制度というものが新たに考えられても良いのではないか。ここでは犯罪者による経済的な損害回復(損害賠償や見舞金など)を念頭に置いているが、さらに広義の損害回復(金銭賠償に限らず、謝罪や被害者の立ち直りなどを含む)という観点からは、後述するレストレイティブ・ジャスティスという理念や制度に発展させていくことも考慮されて良い。
しかし、刑事司法のなかでの損害回復論には、[1]犯罪者は概して無資力であり、犯罪者が自由刑に付されることが多いことを考えると、被害者への損害回復は凡そ非現実的である、[2]犯罪者に対する過酷な損害回復の要求は犯罪者の更生を阻害する、[3]被害者は犯罪者からの損害賠償を受け取らない、[4]被害者への損害回復は極めて長期の期間を要することもあり、刑事司法が犯罪者に関与することのできる期間を超える、などの批判が従来から加えられている。しかしながら、[1]については、全く対応が不可能という訳ではなく、重大事件では金銭的な賠償を履行することは極めて困難であろうが、しかし、だからといって、被害者に対する損害回復の「努力」すら行わなくて良いとする理屈にはならないし、[2]についても、被害者への損害回復と犯罪者の更生の両立は方法論の問題であって、当初より被害者への損害回復が犯罪者の更生の妨げであるとする論理は支持し得ない。そもそも、被害者のことを忘れることで実現する更生とは一体何を意味するのであろうか。犯罪者が自らの(損害回復)責任を自覚し、引き起こした損害の回復に向けてできる限りの努力をすることこそが「社会復帰」の出発点なのではないか。これを厳罰化であるとか、応報的であると批判があるとすれば、そうした見解の方が余程奇異である。
確かに、[3]にように、被害者の心情から、犯罪者による賠償や見舞金を拒否することがあることは事実である。しかし犯罪者からの申出を受けるかどうかは、被害者自身が判断することであって、被害者の意思を一般論として勝手に忖度し、制度不要の根拠とすることは妥当でない。なお、損害回復がなされても被害者感情など宥和しないという見方から、損害回復に寄与する制度の創設に疑問を呈する見解も見られるが、損害回復に向けてできる限りの努力をすることが犯罪者の最低限で当然の義務であって、これによって被害者の感情が好転するかどうかという発想そのものがおかしい。
損害回復に要する期間と刑事司法が関与できる期間のギャップをどうするかという[4]の指摘は的を射ているが、それでも、刑や処分の執行中に被害者に対する損害回復の進め方について犯罪者に指導・助言を行い、方向付けしておくことだけでも重要ではないかと思われる。
具体的な制度としては、欧米のような附帯私訴や損害賠償命令も検討の対象となろう。しかし、附帯私訴については、裁判官(所)の負担や強制執行の問題など様々な実務上の問題が制度保有国において指摘されているし、我が国への導入に際しても、略式起訴の存在や起訴裁量権など訴追制度との関係において困難な問題がある。また損害賠償命令についても、賠償額の算定方法、被告人の資力の考慮、納付・徴収方法(自由刑の執行との関係)、共犯の場合の分担割合といった問題に加え、そもそも刑罰という性格と被害者への損害回復をどういう関係として捉えるかという本質的な問題もある。従って、海外のこうした制度の導入には、我が国の司法制度の特色や現状を見据えながら、慎重に検討を進める必要がある。
矯正や保護の段階においても、被害者への損害回復をも視野に入れた処遇が検討されるべきである。確かに、処遇担当者がこのような領域に関与することには抵抗や困難も予想される。しかし、被害者への賠償を含め受刑者の債務問題は、これを「民事」の問題として一切取り扱わないとするのではなく、これが原因となって再犯に至る犯罪者がいることを考えると、これらの問題について指導・助言を行うことが正に更生のための指導であり、また被害者に対する損害回復にもつながるとする海外での指摘が重要であろう。
7RJに対する批判的検討
近年、世界各国においてRJの理念に基づく制度やプログラムが創設されている。我が国でも、RJは、「修復的司法」や「回復的司法」などと訳され、理念や制度の趣旨・内容を巡って様々な議論が展開されているところである。しかし、RJに対する関心が高まれば高まるほど、理念の一人歩きや多様化が見られるほか、抽象的な観念論やタイポロジーの域を出ない議論さえ見受けられる。ここでは、海外におけるRJの詳細を検討することはできないが、RJのあるべき方向性について若干の私見を述べてみたい。
まずRJには、従来の刑事司法にはない幾つかの利点ないし特色があることは間違いない。被害者にとっては、[1]犯罪の動機や真相など事件に関する情報を直接犯罪者から聞くことができる、[2]被害者の思いを直接犯罪者に伝える機会ができる、[3]犯罪者の虚像から受ける不安や恐怖を軽減できる、[4]犯罪者からの再被害や御礼参りを防止する上で一定の役割を果たす、[5]犯罪者から損害回復(謝罪、損害賠償など)に関する交渉の機会となる、そして何よりも[6]被害者が犯罪の処理に主体的に参加することができる、などの長所がある。特に、被害者が手続に参加するということは、被害者には事件について話をする正式の「場」が与えられるということであり、それはまた「被害者抜きに事件を勝手に風化させない」ということでもある。また、犯罪者に対しても、被害者の苦悩を知ることで罪の意識を覚醒できるとともに、被害者に損害回復の努力をすることで、「真の更生」の糸口になるといった利点があるし、国や社会にとっても、法執行の負担が軽減される(反論有)、当事者主体による事件処理により、被害者や一般市民の正義感が充足され、司法に対する信頼を確保・維持できる、地域住民の犯罪不安を軽減できる、などの副次的効果が期待できる。
これに対し、RJは、犯罪者と被害者の関係を修復したり、仲直りしたりすることが主目的であるかのような理解(誤解)も見られる。しかし、私見によれば、RJとは、被害者に立ち直りや広い意味での損害回復において、犯罪者と間接ないし直接に関わる機会を認めると同時に、犯罪者に対しても被害者への影響や損害回復について考える機会を設けるという「過程」そのものに意義を見いだすものであり、またそうでなければならない。結果的に、被害者と犯罪者が和解に達したりすることがあってもよいが、これはあくまで当事者が選択した「結果」の一つであって、当初よりRJがそうした関係修復を目的としたものとの理解には賛成できない。そうした意味で、RJを修復的司法とする訓話は不適当であり、むしろ被害者=加害者参加型司法とも呼ぶべきものである。
また、RJに基づく制度には、実施のタイミング、対象者、目的、実施方法の点で異なる様々な内容のものが検討されてよく、何もRJに基づく制度が一つの形に限定される必要はない。例えば、被害直後では、被害者の受けた身体的・心理的被害の影響が大きく、とてもRJの手続に参加するどころではなかったが、犯罪者の刑や処分が確定した後、今、犯罪者がどういう気持ちで刑や処分を受けているか、事件を真撃に反省しているのか、また事件では一体何が起こったのかを知りたくなったという被害者が実際におり、また犯罪者にもそうした刑や処分の過程で被害者のことを視野に入れた指導をすべきことを考えると、犯罪者の刑や処分の執行段階において犯罪者と間接・直接に対話するようなプログラムがあってもよいし(方法論は尚検討を要するが)、一方、犯罪者に対する刑や処分の決定以前またはその過程において、被害者と犯罪者と、一定の形で対話するようなRJプログラムも考慮されてよい。海外では、ダイバージョン的なプログラムも数多く存在するが、RJに基づく制度が必ずダイバージョン的な制度にならなければならない理由はない。対象事件によってはダイバージョン的な制度が考えられてよいし、重大事件などを対象とした非ダイバージョン的なものがあってもよい。
またRJの方法は、被害者と犯罪者の直接的な対話だけに止まらない。そもそも、被害者と犯罪者の対話は双方の同意を前提とするうえ、事案によっては対話が不適当な場合もあるため、実際にこうした被害者と犯罪者の対話が可能となる例は全体の一部に止まるものと思われる。従って、当初より対話ありきといった幻想は、却ってRJの将来性を損なうことにもなりかねない。また、一言で対話というが、実務はそれほど易しいものではない。実際の対話に至るまでには如何に慎重且つ十分な準備と当事者への配慮が必要であるかは、海外の実例が示している。従って、当事者の意向によっては、仲介者を通じた間接的なやり取りだけで終わることがあっても良いし(海外ではビデオや手紙による仲介の例もある)、一部の適切な事案にあっては直接的な対話に至ることがあっても良い。
今後は、RJの我が国における可能性を、現行の法制度や実務と照らし併せながら具体的に検討していく必要がある。紙幅の関係上、ここでそれらを十分に論じることができないが、単なる理念論やモデル論に終始するようではRJに未来はない。先行する海外の制度の分析も重要ではあるが、その際、従来のような被害者や犯罪者の満足度という観点からの評価研究に止まらず、近年行われつつある犯罪者の予後や再犯の状況に関する調査結果などにも注目していくことが肝要である。