日本財団 図書館


吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 11
文学博士 榊原静山
韓愈、白居易に代表される中唐―2
 
張継
 (―七七九)字は懿孫。襄洲(湖北省の襄陽)の人で進士に合格して節度使の幕僚などをつとめ、のちに中央の検校の祠部郎中となっている。博識で名声も高いが生没年代は明確でない。張祠部詩集一巻四十七首の詩が残っている。”楓橋夜泊”はあまりにも有名である。
 
 (七七九―八三一)字は微之、洛陽の人。官吏になり、四十四歳の若さで宰相になったが、権臣に憎まれて左遷され、武昌の節度使で没している。白楽天の”長恨歌”匹敵する”連昌宮詞”という長詩を作っている。元氏長慶集六十巻と八百二十八首の詩が現存している。
 
戴叔倫
 (七三二―七八九)字は幼公、潤州金壇(江蘇省)の人。撫州の刺史となって農民が水争いをしたとき、均水法という法律を作って増産にはげましたことで有名である。その後も広西の容管の経略使になり、ここでも善政をしき、晩年は道士になっている。詩集二巻、三百首の詩が残っている。
 
孟郊
 (七五一―八一四)字は東野といい湖州武康(浙江省)の人。若い頃、嵩山に隠棲しており、四十六歳でようやく官を得て、漂陽の尉になったが、あまりうだつはあがらず、一生不遇な役人生活を送っている。そのためか貧苦、怨恨、憂愁の詩が多い。
z0018_01.jpg
(語釈) 遊子・・・他国に遊学する者。寸草心・・・親を思う子の心。三春の暉・・・春三ヶ月。暉は光をもって親のあたたかい恩のこと。
(通釈) 慈愛に満ちた母が手ずから針線をもって、その子が他国に遊学するのに着る衣服をつくってやるのに一針々々気をつけて、ていねいに縫っている。その意には吾が子の学業が成って無事に早く帰ってくることを切望しているのである。この広大無辺な親心に対して、ちょっとした草のような子の心ぐらいでは、とても大きな母の慈愛の三春の恵みに比ぶべくもないことである。
 
王建
 (―八三五)字は仲初といい穎川(河南省の許昌)の人で、官に任ぜられ、渭南の尉から大府寺丞、秘書丞、侍御史を歴任し、辺境に従軍したこともある。晩年は長安の西北咸陽に住んで詩作にふけり、楽府体の詩にすぐれ”張王の楽府”と讃えられていた。王司馬集十巻がある。
z0018_02.jpg
(語釈) 寥落・・・物さびしい形容。寂寞…・・・物さびしい形容。
(通釈) 玄宗皇帝の故行宮は物淋しく、春になると花が咲くけれど、賞する人もなく寂寞として静かである。ただ白髪の宮女が閑かに座して玄宗の盛んだった昔時の物語をしてくれた。
 わが国の詩人藤井竹外が”吉野懐古”という詩に「古陸の松柏、天飆に吼ゆ。山寺春を尋ぬれば、春寂眉雪の老僧時に帚くことを輟め、落花深きところ南朝を説く」と詠っているが、藤井竹外がこの”故行官”を読んでの着想であろうといわれている。
z0018_03.jpg
劉禹錫
z0018_04.jpg
韓愈
 
劉禹錫
 (七七二―八四二)字は夢得、中山(河北省)の人で柳宗元とともに王叔文の党に入り、王叔文の政治改革に参加し失敗におわり、南方の朗州に左遷されたが、のちに翰林学士から検校礼部尚書という位になっている。白楽天とも親しく交わり、民間歌謡などを改作した竹枝詞など得意で、八百首の詩を残している。"楊柳枝詞”は非常に美しい。
z0019_01.jpg
(語釈) 煬帝・・・隋の皇帝。行宮・・・天子の行幸の宮殿。
(通釈) 隋の天子煬帝の行宮が水の浜にある。そのかたわらに煬帝の植えた柳が数株あって、春の情に勝えざるようである。日暮になって風が起こり、柳の花が白く雪のように乱れ飛んで、宮殿の中に入っていくが、宮殿の中に今日は誰もいない・・・。あのおごっていた煬帝の宮殿も、奢れる者久しからずで、淋しいものである。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION