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李萃
 (七一五−七六六)字は遐叔といい趙州(河北省)の人。進士に合格して監察御史という役人になったが、一本気の性格で上の役人にさからい、左遷され、安禄山の乱のとき、賊の占領下にいた母を救おうとして行き、捕えられて、そこで役について働くことになった。安禄山の反乱平定後、自分が節を全うすることができなかったことを恥じて、江南(隠艮)山陽で農耕をしながら生涯を終っている。李遐文集四巻と詩二十九首が残っている。
 
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李萃
 
 李(六九〇−七五一)東川(四川省)の人で、進士に合格して新郷(河南省)の尉になったが、俗務がいやになり神仏にあこがれ、丹砂を飲んで仙人になろうとしたといわれている。そのせいか詩風は世俗をはなれたものが多い。李白や杜甫の先輩格になる人で、七言律の詩にすぐれ、今も百二十四首の詩歌が残っている。
 
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賈至
 (七一八−七七二)字は幼幾・または幼鄰といい、洛陽(河南省)の人。官に入り単父というところの尉になったのをふり出しに諸官を歴任し、安禄山の反乱のとき玄宗皇帝に従って蜀に行き、玄宗が帝位を皇太子にゆずるときの詔勅は、この賈至が起草している。乱平定ののち長安に帰り王維とともに中書舎人の位についたが、のちに罪に問われて巴陵に流され、この期間に李白と交わり、信都県伯に封ぜられ、さらに右散騎常侍という役についている。二十巻の著作と四十六首の詩を残している。なかでも”春思”という七言絶句がすぐれている。
 
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「春思」
 
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 (語釈)春思…春に感慨を述べる。歴乱…花が咲き乱れる。
 (通釈)草の色は青々として柳の色は黄ばんできた。桃李の花は咲き乱れて花は香ばしい。春の風はよく物を吹くものであるのに、私の愁いは吹き去らしてくれない。春の日は人の心を楽しますものであるのに、かえって我が恨みを引いて長い。
 
崔?
 (七〇四−七五四)州の人で官についたが終生低い地位に終っている。
 賭博や酒色にふけり、浮気で妻を五、六度とりかえてもいる。しかし詩作は巧みで、気骨に富んだものがある。四十二首残っている作品は吟界でしばしば吟じられている。“黄鶴楼”も彼の作である。
 
儲光義
 (七〇七−七五九)州(山東省)の人で官に仕え、監察御史になったが安禄山の乱のとき捕えられ、反軍に仕えたため平定後に広東地へ流されて没している。自然派の詩を作り、田園風景や労働を詠じた詩が沢山ある。詩集一巻二百三十七首の詩が現在残っている。
 
 釈皎然 (七三〇−七九九)字は情昼。俗姓を謝といい、湖州(江蘇省)の人で六朝の詩人謝霊運の十世の孫といわれる。出家して妙喜寺に住み、のちに盧山の西林寺に住み、禅月、斉己とともに唐の三高僧と称せられるほどの名僧である。
 詩論五巻のほか、杼山集十巻、四百八十二首もの詩が残っている。
 
儲光義
 (七二一−七八○)字は正言。河南(河南省)の人で、進士に及第し、節度使の幕僚として北方の長沙に従軍し、無実の罪に問われ、所々を放浪した。のちに再び官につき、礼部侍郎(文部次官)にまでなったが、再び左遷されている。四十首の詩が残っている。
 
李適之
 (−七四七)唐の大宗の長子、恒山王承乾の孫にあたる人で、名は昌。刑部尚書の職からはじまり、左衛郎→刺史→都督→河南尹となり、玄宗の信任を得て左相にまで登ったが、李林甫という好官の陰謀のために宜春の大守に流され、任地で自殺してしまう。左相をやめる時に淋しく詠じた“罷相作”という詩が有名である。








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