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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 8
文学博士 榊原静山
盛唐の二大詩人 李自・社甫起伏多い人生に名詩の数々
 
盛唐
 (玄宗皇帝開基年間西紀七一三年から粛宗玉応年間西紀七六二年に至る約五十年間)の時代に入ると、詩界は目ざましい飛躍をする。当時は中国文化史上特筆される玄宗皇帝によって統治され、東は朝鮮半島から西は新彊省のはずれ、北は蒙古、南インドシナ半島までにも勢力がおよんだ。交易は南方諸国をはじめ、中央アジア、ペルシア、アラビア、インド、シャムへひろがった。陸路と海路から使節が来朝し、東西文化交流もさかんになり、国際的にも文化国家として大きな地盤の上に立った。長安の都の繁華は想像をこえた見事さであったという。
 この大文化国家を築いた玄宗皇帝はしかし、在位四十年の短かさだった。晩年はようやく政治にあき、楊貴妃の容色に溺れ、太平の夢が破れようとしたが、こうした国情であればこそ文化に酔う者、また憂国の熱情を吐露する詩人など、つぎつぎと輩出してもいる。
 なかでも李白と杜甫の二大詩人の存在は盛唐の詩界に光彩を添えている。いまさらこの二人については説明する必要もなさそうだが、その人となりのおおよそを述べておく。
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唐の玄宗
 
李白
 (七〇一−七六二)字は丈臼、またの名は青蓮居士ともいった蜀(四川省)の人。十歳の頃から詩を作りはじめ、十二歳の時、蜀のある県令の家に奉公していたが、あるとき山火事があり、県令は”野火焼山後、人帰火不帰”と二句を詠んだが、後の句が続かなくて困っていたら、かたわらにいた李白がただちに”焔随紅白遠、姻遂暮雲飛”とつづけたので、県令は李白の才に驚いたという逸話があるほどである。天宝初年長安に出て、賀知章に認められ、調仙人(人間ばなれした詩の仙人)と讃えられ、玄宗へ推薦された。生来の酒好きと豪放な性格で宮中の生活が合わず、楊貴妃や高力士らに憎まれて、追放されたのちに、安録山の乱のとき、永王側に味方をしたため罪に問われて夜郎に流された。
 一説には酒に酔い、江上に映る月の影をとらえようとして溺死したともいわれているが、李白の詩は彼の性格を物語るかのように豪放で、自由奔放天才的な鋭さと、細やかな落着きのある神仙味を特色とした絶句を得意とした。「白髪三千丈」や「長安一片月」などという名句、また”峨眉山月の歌””白帝城を発す”越中懐古”など人口に膾炙している詩を沢山残し、詩集三十巻がある。
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李白
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李白
 
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(語釈)秋浦・・・安徽省にある地名。秋霜・・・頭髪が白くなったことにたとえる。
(通釈)白髪が三千丈もあるほど伸びた。愁いによってこんなになってしまったのである。明るい鏡に映った自分の白髪は、何処から来たのかわからない。
 
杜甫
 (七一二−七七〇)字は子美、また号は小陵といい鞏県(河南省)の人。性格的には李白と正反対で幼い頃から読書好きだったが進士の試験には落第してしまい、長安で李白や高適と知り合い、四十を過ぎてからようやく役人になったが、安禄山の変が起き、玄宗は蜀に逃がれ、粛宗が即位したので、杜甫は粛宗に仕えようと思って賊軍の目をさけて間道を通っていたが、不運にも賊軍の手に捕えられ、一年間獄中で苦しい月日を送った。このとき涙ながらに、忠君愛国の心と家郷に懐かしさをこめて「国破山河在、城春艸木深」の”春望”を詠じたのである。
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杜甫
 のち、幸いに賊の手からのがれることができたので、鳳翔というところに御座所をかまえている粛宗のところへ行った。このとき、草鞋ばきのまま粛宗に謁見を仰せつけられ、左拾遺という役目を授けられ、再び官につくことができた。このことは杜甫の生涯でもっとも光栄な瞬間であったという。ほどなくして彼は田舎で暮らしている妻子を鳳翔へ呼び、平和でささやかな暮らしをすることができるようになった。この間に彼は一代の大作”北征”の詩を作っている。
 間もなく安禄山の乱がおさまった。粛宗は長安へ還御し、杜甫も帝に従って長安へ帰り、しばらくは王維などとともに宮廷に集まって詩の唱和をおこない、盛唐の詩壇に光彩を添えていたが、ふたび不幸が彼を見舞ってしまった。房という幼な友だちの弁護をしたために粛宗の逆鱗にふれ、地方へ左遷されたのだ。こうして杜甫は華州の司功の役に甘んじていたが、やがて官を捨てて漂泊の生涯にふみ込む。諸方を流浪し、木の実を食べて生きるという悲惨な生活で、子供たちは餓死してしまう。
 のちに知人の厳武に助けられて、蜀の成都で数年間余裕のある生活をしたが、厳武が死んでしまったので地位を失ない、友人の高適を尋ねて揚子江を下り、洞庭湖の南、湘江上の舟の中で死んだといわれている。
 杜甫の詩は古体三百九十首、近体詩が一千余首あるといわれ、なかでも”詠懐”と”北征”には彼の国を憂うる愛国の誠と、彼自身の沈痛な溜息が感ぜられる。その他”兵車行”、”哀江頭”、”哀王孫”、”秋興”、”詠懐古跡”、”貧交行”、”岳陽楼”など、いずれも彼の心血を注いだ傑作ぞろいである。詩集は、杜工部集二十五巻がある。
 
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(語釈)両箇・・・二つということ。ここでは二羽。黄・・・うぐいすのこと。東呉・・・東方の呉の地方。
(通釈)二羽の鶯が緑の柳で鳴いている。白鷺が一列になって青い空を飛んで行く。窓を通して見えるのは、いつまでも消えない雪をいただいた西の山々。門のそばに泊っているのは遠い遠い東の方の呉の国の船である。
 この李、杜の二大詩人のつぎに位する第三の大家は、何といっても王維である。








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