吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 4
文学博士 榊原静山
周代(続)
楚辞
もう一つ、詩経とともに重要な詩集に楚辞がある。楚辞(紀元前二九〇頃)は戦国時代の楚の国の忠臣屈原が奸臣の策謀によって追放されたとき、祖国の衰亡を見るに忍びず、愛国の情と自身の悲運を嘆いて作った詩である。
この楚辞と詩経の、二つが、中国の詩の二大源泉をなしている。楚辞の例をあげてみよう。
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(語釈)東君…太陽のこと。暾…なごやかな光の形容。檻…てすり。扶桑…太陽の出るところに生えている木。安駆…おだやかに走ること。皎皎…光かがやく形容。駕龍…車のながえの形をした竜。委蛇…うねうねした形。低

…ためらう。顧懐…振り返り想う。声色…音楽と舞の美しさ。憺…平和でやすらかなこと。

…糸を固くしめる。交鼓…つづみを鳴らす。

…鐘をつるすための木のわく。

…横笛の一種。竿…笛の一種。霊保…神の心がのりうつる巫女。賢

…かしこく美しい。

飛…かろく飛び上る。翠

…かわせみ。展詩…詩を吟ずる。会舞…舞踊する。応律…リズムに合わせる。合節…メロディーに合わせる。
(通釈)和やかな光を輝かして、東の空から太陽が上りそめ、私の家の手すりと扶桑の木越しに照らしかける。私は馬をなでながら静かに走らせると、夜は白みかけて明るくなる。太陽の神が車のながえのような竜にひかせて、雷のような大音に乗って、雲の旗をなびかせて、長いため息をつくように大空へ昇ろうとしている。この偉大な太陽神をまつる人々の音楽や舞の美しさは太陽の神を楽しませ、その祭を見ている者も心から楽しんで、家に帰ることを忘れてしまう。琶の絃を締め、鼓を打ち、木のわくをゆらせながら、鐘をならして横笛や竿(笛)を吹くと、神のお気に入りの美しい巫女の姿が軽やかにかわせみのように飛び上がり、詩を吟じ、かつ舞う。リズムや、メロディーに合ってくると太陽神の従者たちが天からやって来て、太陽をおおってまう。
―太陽を讃えた真に雄大な詩である。以下まだ六句あるが省略する。つぎに屈原につい
屈原
(紀元前三四二―二八五)名は平といい、楚の一族の王族の家に生まれ、楚の懐王につかえて二十六歳で宮廷の中の侍従の役についた。博学で政治に明るく、王の親任を得て国家法令なども屈原がその草稿を作るようになったが、他の上官や大夫がねたみ、王にざん言をした。
それ以来王は屈原をうとんじるようになってしまったので、屈原は王が軽々しく腹の黒い役人どもの言葉を信じ、王の心が蔽われ正しい意見がいれられないことを嘆いて"離騒"という詩を作り悲憤懐慨し、官職をやめてしまった。
その後、秦と斉との間へ入って、祖の国が困難なときに、懐王が秦の地に赴くのを止めるように忠言して、祖国の恢興に努めたが用いられず、逆に懐王から江南の地に追放されてしまった。屈原が五十八歳の時で、江南の地に飄零の八年間を送ったのである。
この期間に楚辞の中にある九章の編を作ったといわれているが、このように憂国の熱情に燃えながら流浪の月日を送り、ついに長沙の北方あたりで湘江に注いでいる泪羅江に身を投じて没している。六十七歳であった。ちょうどその日が五月五日だったので、祖の人が彼の不幸を哀れんで、毎年この日に竹の筒に米を入れて江に投げ入れ、蛟竜に食べさせる粽供養という風習が残り、いまも行われている。
ともあれ屈原もギリシャのオメロスや、ヘリオッドのごとき世界の大詩人とともに、世界最古の三大詩人の一人に数えられ、勿論、中国詩史上最初の詩人として、屈原はあがめられているのである。
秦代
下って秦(紀元前二二〇−二〇七)の始皇帝の初期に、荊軻が始皇帝を暗殺しようとして、易水のほとりまで送って来た丹との別れにのぞんで
易水 荊軻
風蕭々として易水寒し
壮士一たび去って復還らず
(語釈)蕭々……風の吹く形容。易水……中国にある河の名。
(通釈)風が蕭々と吹いて易水のほとりは寒い。意気盛んな壮士である荊軻は再び帰ってこない。命をかけて、使命である秦の始皇帝を暗殺に行くのだ。
この詩は今も多くの人々が口ずさむ詩である。秦の始皇帝は多くの学者を生き埋めにしたり、医薬、占筮、農業に関する書以外の全書物を民間で所持することを禁じ、供出させてこれを焼き捨ててしまい、また一切の民間の文学を禁止するほどであったので、詩は盛んではなかった。わずかに皇帝が各地を巡遊したとき、所々に碑を立てて皇帝を讃美した詩が数篇残されているにすぎない。
始皇帝
始皇帝はみずから皇帝と称し、万代のいや栄を夢み都を咸陽に定めた。落城の時は、三ヶ月も火事で燃えつづけたといわれる阿房宮を建てた。また、かの有名な万里の長城を築いたが、十二年で死に、たった三世十五年で秦朝は亡び、漢楚(項羽と劉邦)の争いを経て漢の世になるのである。
秦の始皇帝
漢の高祖