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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 3
文学博士 榊原静山
夏王朝
禹帝
 三皇五帝の時代につづいて、中国の伝説的史話によれば、舜帝は位を禹にゆずった。当時として最も重要な課題は華北の大平原に氾濫する洪水を防ぐという黄河治水の事業であった。禹はこの大事業に成功し、堯舜におとらない立派な政治をし、後世の鑑とされている。そして時がきて位を啓に譲り、夏王朝として世襲をし、約四百年後、十七年目の桀の世になる。
 ところがこの桀が愚帝で有旋という国を征めて、妹という美女を連れ帰り、この妹の美色に溺れた。酒池肉林そのもので、大池に酒を満々とたたえ、牛肉で築山を作り、そのうえ乾肉で林を作り、三千の美女に舞わせ、夜通し宴会を開くなど国費を浪費した。民には塗炭の苦しみをなめさせるほど苦しめ、遂に殷の天乙によって亡ぼされた。
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禹帝
殷王朝
 天乙が位について殷王朝ができて二十八代続き紂が位についたが、紂がまた暴君で姐己という女にうつつをぬかし、湯水のように金を使い、税を怠る者はどしどし投獄し、史上最も残忍な刑罰といわれる"炮烙の刑"というのをつくった。この刑は真赤に燃える火の上に油を塗った銅の柱を渡し、罪人にこの上を渡らせ、足の裏が焼けて火の中に落ちて死ぬのを紂王が姐己とともに酒を飲みながら楽しむという刑で、この話はわが国でも歌舞伎でしばしば上演されている。また傾城という言葉も紂王が暴君で国の政治を忘れ、悪徳の名を残したのは姐己という美女にうつつをぬかしたためであるといわれ、美しい女は城を傾けさせてしまうという意味から、日本ではおいらんのことを傾城ともいっている。
 このように、残虐な紂の天下が永く続くはずはなかった。太公望の指揮する周の発(武王)の軍に鹿台というところ迄追いつめられ、紂は金銀財宝を身にまとって鹿台の居城もろとも焼け死んで、殷王朝は建国以来六百四十年で亡び、周の世(紀元前一一二二)になるのである。
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太公望
周代
 周の武王は鎬というところに都を移し、勲功のあった者に領地を与えて諸侯に任じ、封建の制度を始め、多くの規則を作って国家の基礎を固め、無事に十二代目まで続いたが、十二代目の幽王のとき、王位継承をめぐって褒という笑わない妃を笑わせようとして失敗したことから、宣臼(後の平王)の同盟軍の頭目犬戎に殺されてしまった。
 同じ周でも幽王までを西周、平王以後で東周(紀元前七七〇年)という国になっている。しかし平王は同盟した犬戎の勢力にかなわず、都を洛邑に移して天子を名乗るが、この時もはや周王室は名ばかりで勢力はなかったのである。
 ところで御存知のように、尊王攘夷という幕末に勤王の志士たちが使った言葉があるが、これは志士たちの専売語ではない。周の王室が弱体化したとき、その勢力を挽回するための標語として、当時の辺境の民族、匈奴や鮮慮などを夷と称して、これを払いのけ、周王室をもり立てねばならないといって主張した言葉である。
 このように周王室の力がないため、各所に群雄が覇権を争う春秋の時代(紀元前七七二年)になり、魯、衛、晋、鄭、曹、燕、呉など周王室の一族である国々のほかに、斉、宋、陳、楚、秦、越の国がお互いに機をうかがって自国の勢力を張ろうとし、しのぎをけずる世の中がつづいた。
 この時代に聖人孔子が生まれ、詩経や書経を整理し、春秋や論語を著し、儒教哲学の基を築いている。
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周の武王
孔子
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孔子
 (紀元前五五二−四七九)名は丘、字は仲尼といい、紀元前五五二年に当時魯の都、曲阜に近い陬という村のひどく貧乏な家に生まれた。幼い時に父に死なれ、母に連れられて曲阜の町へ出たが、母も孔子が十八歳の時に無くなり、苦労しつづけで育ち、青年時代から一生懸命に学問と修養を積んだ。はじめは魯の定公に仕え、大司寇という高い位につき、一部の人々を中心にして制定してあった魯の官僚制度の改革をくわだてた。けれども重臣たちの圧力に屈し、魯の国を去って諸国を十八年間も周遊したが用いられなかった。
 晩年は再び魯へ帰って子弟の教育に専心し、後世中国の思想史の基になるような儒教の根本原理を残して、紀元前四七九年に七十三歳で没している。
 孔子の思想の原理は仁を以って人間行為の大本とし、この仁により身を修め家を斉え、国を治め天下を平かにすることを目的とし、そのために詩書礼楽を究めよと主張するのである。
 いわゆる論語という経典(孔子の門人が集録した経典二十巻)には、これらの学説が述べられている。晩年、孔子の門人は三千人もいたといわれる。その中で徳行には顔淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓、政治には冉有、子路、言語には宰我、子貢、文学には子遊、子夏がいて、この十人を孔子の十哲ととなえられ、最も秀でた弟子といわれている。乱れた世はしかし、まだまだ続き紀元前四〇三年には趙、韓、魏の三国が一応諸侯の称号を名乗り、この時からさらに激しい戦国時代に入り、斉、燕、趙、魏、韓、楚、秦で争い、ついに紀元前二二一年に、秦が他の六国を完全に亡ぼして天下を統一したのである。
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孔子の立像
詩経
 周の時代は詩が非常に盛んであったので、地方の人民の風俗習慣、人情を知るため采詩官という詩を集める役人に命じて、紀元前一一〇〇年頃から紀元前五〇〇年頃までの民謡や地方の詩など広く集めた。初めは三千余首あったといわれ、これを孔子が教育の資料という考え方で取捨撰択して三百十一篇にした。これが詩経であるといわれている。
 詩経の内容は風・雅・頌の三部門に分かれ、風とは国風(おくにぶり)各地(十五の国に分かれている)の民謡、歌謡風の詩で百六十篇にもおよび、詩経の最も重要な部分をなしている。
 雅は小雅と大雅に分かれ、周の建国の説話をうたったものや、宮中や諸公をたたえて詠い、朝廷の宴会や賓客の歓迎送別の宴にうたわれたものであり、全部で百五篇ある。
 頌は周頌、魯頌、高頌の三種に分かれ、神明に告げる祭の詩で楽器の演奏をともない、舞も伴ったといわれる(勿論その形式は不詳である)
凱風(抜萃) 詩経
 詩経の形式は四言詩、つまり一句が四字で四句からできており、素朴で単純な文句のくり返しになっているのが特色である。これらの詩を通じて身を修め、家を斉え、国を治める基として重要な経典をなしている。詩例として国風の中の"凱旋"の詩をあげよう。
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 (語釈)凱風…南の風、つまりそよ風のこと。この詩は詩経の中の国風の章の中の一つである。棘心…いばらの芽のことで、ここでは幼い子供のことにたとえる。夭夭…若々しい形容。母氏…母親のこと。劬労…苦労に同じ。棘薪…いばらの木で、ここでは子供が成長したこと。
 (通釈)そよ風が南から吹いてくる。そしていばらの芽のような子供たちを育てる。この芽は若々しく、すくすくと育ってゆくが、母親は大変苦労する。そよ風が南から吹いてくる。いばらの木に吹きかける。母親は立派な人だが、自分たちはそれほど良い子供ではない――。
 以下八句がつづくが、略しておく。ようするに子供たちが愛情あふれる母親に育てられながら、自分たち子供は、良い子供でなく、母の役に立たなくてすまないという心情を述べている詩である。








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