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吟詠家・詩舞道家のための漢詩史 2
文学博士 榊原静山
五帝の伝説
 次に地上を治めたのが五帝といわれ、最初が黄帝である。
黄帝
 黄帝はインド神話に出てくる梵天(ブラフマン)と同じように四つの顔をもっていて、東西南北を常に管理している天の神で、地上の昆崙山に華麗な行宮があり、そこへ降りて来て地上を治めているといわれ、この昆崙の宮殿はインドのメール山と同じように九層に重なって、一万一千里もの高さがあるといわれ、その麓には弱水という深い堀をうがち、そのまわりには暴風にも豪雨にも火の勢い変わらず永久に燃えつづける火の山があり、その火の中には不思議な鼠が住んでおり、この鼠は火の中にいる時は全身真赤で、火の外に出ると毛が羊の毛のように白いふわふわとした美しい色になっているが、ちょっとでも水にふれると死んでしまうので、水をかけて殺してその毛で着物を作るといつまでも純白な美しい白い色を保つことができるといわれ、これを火浣布といって珍重されたとのことである。
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黄帝
 また青要山という宮殿には、体が青く尾だけが真赤で、目はピンク色をしたという鳥がいたが、この鳥を食べると子供が生まれるといわれた。また四角な茎で黄色い花が咲き、赤い実のなる荀草という植物がある。これを食べると美しくなるともいわれ、黄帝の宮殿がいかに美しく、人々の羨望のまとになっていたことが察知される。しかし、この黄帝の時代に南方の巨人族の蚩尤という悪人がいて反逆をおこして、黄帝をさんざん悩ますが、この乱も平定して棡鼓曲という音楽を作ったり、車、船をはじめ家の建築法、十二支の占いから文字などを発明し、数々の業績を残し、刑山というところで最後の祝宴を開き、七十余人の諸天善神を供にして、神竜の背に乗り、天空高く昇って天界に帰っていったと伝えられている。
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蚩尤を追放する黄帝
 次の帝王は黄帝の孫にあたるで、帝丘というところに都して人材を登用し、平穏に国を治め、五行の気をもって人々を強化し、飛竜に八方の風の音を模倣させて八曲の音楽を作らせるなど、音楽に対しても貢献している。
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 つづいてその曾孫にあたる帝が位につき、すぐれた天子といわれ、彼には四人の妃がいて、特にその第一夫人姜は周民族の始祖といわれる后稷を生み、第二夫人簡狄は殷民族の始祖の契を生んでいる。后稷は農業に秀でて、木と石で農具を作り、人工的な生産を人民に奨励したことで有名である。
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堯帝
 つづいて帝の子堯が即位する。堯は中国の天子として最も理想的な帝王であったので、名君主の代名詞になっているほどで、彼の住居は粗木のままの柱にかやぶきのぼろぼろで、野草の汁を飲み玄米を食べ、麻の衣をつけ、国中に一人でも食べることのできない者がいることは君主の責任であると、衣服のない者が一人でもいないようにと念じながら天下を治めた天子で、そのため王室には数々の瑞祥があらわれたといわれている。
 たとえば馬の糧が急に稲になったり、帝王家の中庭にはいつも鳳凰が来て遊んでおり、階段には歴莢という不思議な草が生え、この草は毎月一日にさやが一つになり二日には二つ、三日には三つになって、十五日には十五になり、十六日から逆に一つづつ落ちてだんだん減ってゆくので、この草が暦になって人々に大層便宜を与えたとか、堯帝が食事をする時にはその横に扇形の葉をもった草が生えて、風もないのに自然にゆれ動いて涼しい風をおくるなどと語り伝えられている。
 このような聖天下のもとに農師の后稷軍官の司馬などの賢臣がいて天下泰平であった。しかし堯の子の丹朱は不肖の子であったので、天子として人民を治める器でないと考え、娘に舜を婿として迎えて王位を継がせることにした。
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堯帝
舜帝
 舜は五帝の最後の帝王であるが、彼は現在の山西省水の生まれで、父は道理をわきまえないがんこ者、母は心のゆがんだ継母でその継母の子たちとともに暮らし、継子としていじめられ続けた。それにもかかわらず舜は親孝行一途に両親に仕えていた。その孝行の噂が村中に広まり、それにつれて継母はますます舜を憎んで彼を殺そうとする。
 そこで止むなく舜は家を出て歴山という山の麓に小屋を建てて、わずかばかりの土地を耕して孤独の生活をはじめた。そうしたらいつの間にか歴山付近の農民たちは、彼の徳行に感化されて彼の家の近くに引越して来て住むようになったので、二、三年たつうちに舜の家を中心に街が形づくられてしまった。
 たまたまその頃、堯帝は家来を四方に派遣して、位をゆずるべき英才を探していた時であったので、舜の孝心と徳行に感じて、まず葛の葉で織った衣裳と琴を与えた。そうしてさらに穀物の倉を建て牛や羊をあたえ、堯の息子たちと一緒に住まわせてみたところ、なるほど徳の高いことがわかったので、堯帝は自分の二人娘、娥皇と女英の婿にしてしまった。
 このようにして、一介の農民にすぎなかった舜は、一躍天子の女婿としての立派な身分になった。そのかたわら、舜は両親への孝養も忘れなかった。しかし親たちは舜の立身出世をねたみ、何とかして舜を殺してしまおうとはかり、−つの計画を立てた。
 それは倉を修理するから舜に手伝いにくるようにと、まず使いを出すことから始まった。舜は継母の恐ろしい心を知っているので、きっと自分を殺そうと思って呼び出すのであろうと察したが、親孝行の彼は親の命令にそむけないので二人の妻に相談した。
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舜帝
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娥皇 女英
 
 娥皇と女英は嫁入りのときに持ってきた五色のあざやかな鳥の模様の入った衣裳を舜に着せて送り出した。舜は親の家に着くと、言われるままに倉の修理のために二階へ上って行った。舜が上ってしまうと継母は二階の梯子をはずして下に薪を積み重ねて火をつけた。メラメラと炎が燃え上って今にも舜が焼き殺されそうになったとき、舜の着物の模様になっている鳥が本物の鳥になって舜を乗せ、窓から飛び出して無事に家へ舞い戻って来た。
 次に、悪い母親は井戸さらいの手伝いにくるようにと再び使いをよこしてきた、舜はこのときも、二人の妻に相談した。彼女たちは、今度は舜に竜の模様のついた着物を着せて出かけさせた。
 親の家に着いた舜は、いわれるままに道具をもって綱に伝わり井戸の中に入った。すると悪い母親は綱をぷつんと切って、上から石や瓦を投げ込んで舜を生き埋めにしてしまった。そして舜の家へ押しかけて舜が天子からもらった琴や牛や鳥、羊を奪ってしまい、あわよくば娥皇と女英をも実子の象の嫁にしょうとした。
 いっぽう舜は、今度も着物の模様の竜に助けられ、地下水の中を通って別の井戸から抜け出し家へ戻ってきた。こんなひどいめにあわされても、舜はしかし怒りもせずに親孝行一途に徹しているので、さしもの継母たちも改心して舜にあやまった。この評判が堯帝の耳に入り、ますます帝は喜んで、遂に舜に王位を譲ることにした。
 舜は天子になっても少しも昂ぶらず、また孝養を忘れず、自分に害を加えた異母弟をも諸侯の一人に封じ、寛大な待遇をし尭にまさる善政をしき、天下がよく治まって泰平であった。
 そのため、後世まで“堯舜の治“といって、最も理想的な時代の代名詞に使われている。以上三皇につづいて黄帝、、帝、堯、舜の五人の君主は五帝と讃えられて中国神話史の根幹をなしているわけである。
中国最古の詩
 この神話時代に、早くも伏義の”綱罟の歌“とか、神農の“豊年の歌“があったといわれ(その詩文は伝わっていないが)、次に尭帝の時代は平和な世の中であったので、老人たちが大地をたたき、あるいはまた一説には壌(木履のようなもの)を打って泰平の世をつぎのように謳歌したという。
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 また康衢の間を歩いてこの詩を聞くとして、
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 このように伝えられている。真偽のほどは別として、中国では民族の発生とともに詩歌のあったことは容易に察知できよう。








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