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第2日(9月5日)
「体験を語ろう」
<9月5日(水)9時30分〜10時30分>
会場:モンブラン(7階)
司会者  小林惟考 (埼玉県精神障害者家族会連合会長)
発言者  本多サカ  
  清水昭治  
  弦巻不二江  
  滝沢友次  
「体験を語ろう」
群馬県あざみ会 本多サカ
 
 「貴方が精神病になったのは、運命ですよ、誰が悪い訳でもない、両親の責任でもないし、運命なのだから」と。現在私の主治医である天谷先生が言われました。
 平成5年8月に、最後の退院をしてから8年、病状も安定してきた私に、先生の言葉は素直に受け止められました。しかし、帰りの電車の中ではぼんやりして乗り越してしまいました。私が昭和41年に入院した時から35年の歳月が流れていました。
 私は21年2ヶ月の間、1度の退院もせず精神病院に入院しておりました。病名は「躁鬱病」です。最初に退院したのは昭和63年9月です。退院と申しましても、家に帰ったのではなく、外勤に行っていた工場に勤め、ケースワーカーに借りてもらったアパートに住んだのです。アパートを借りるのも、病気を隠さなければなりませんでした。
 退院の日、久し振りで家に帰れると思っていた私の期待は、見事に裏切られ、電気製品や台所用品を買ってくれた兄は、1人で帰ってしまい、その夜は片づかない部屋でみじめな思いをしました。その後、何度か入退院を繰り返しました。
 私の退院に力を貸して下さいましたのが天谷先生です。20年も入院していた私に、薬を変えて社会に出られるように直して下さいました。そして、ずっと入院させておくつもりの兄を説得して下さったのです。自分の話を良く聞いて下さる医師との出会いが精神病では特に重要だと思います。
 精神病に対する根強い偏見は社会の中に満ちています。しかし、自分自身や家族の中にも偏見はあると思うのです。「貴女が一番自分を卑下している」と、先生に言われました。いつもびくびくしてきた私も、最近やっと自然に生活出来る様になったのです。
 マスコミの報道姿勢にはいつも疑問を抱いています。事件を報道する時精神病院への入院歴があるとか、入退院を繰り返していたと言う位なら、いっそ名前を公表して病歴には触れないで欲しいと思います。多くの真面目な患者が悲しい思いをしています。
 私は、冠婚葬祭、その他一切、家に呼ばれません。私の帰宅は拒否されています。父母の葬式さえ知りませんでした。私が家に帰れるのは4年に一度、オリンピックのある年だけです。義理が有るからと村会議員の不在者投票をさせるために兄が迎えに来るのです。お正月やお盆になるといつも家に帰りたいと思います。知人に頼んでお墓参りをし、家の前を素通りしたことが二回ほどありました。
 病状によっては、20年、30年と、長期入院の人が大勢います。退院したくても引受先が無いために退院出来ないのです。家族構成も変わり今更引き取れないと言う事でしょうか。
 色々な障害の中で精神障害者に対する行政の対応が、一番遅れていると思います。精神病に社会が暖かい目を向けてくれる事を願っています。宿泊設備のついた作業所、友達と安心して集まれる場所など、社会と病院の中間施設をぜひ作って頂きたいと思います。
 棺箱退院という言葉が病院で密かに言われています。死んだら棺箱に入って退院出来るというのです。病院より居るところが無く、あきらめて暮らしている人の為何とかしてあげたいのです。
 それから社会で生活している障害者の為に土、日、祭日、夜間に電話で相談できる所、アドバイスして下さる方がぜひとも必要だと思います。
 おかしいと感じたらなるべく早く病院で診てもらうこと、主治医と良く連絡を取って、皆であなたが良くなるのを待っているという態度で接して欲しいと思います。
 精神病は病気です。決して恐ろしいものではないはずです。
 今、私は借家に老人と共同生活をしています。そしてデパートの開店前の清掃パートをしています。2人でお金を出し合って限り限りの生活をしています。
 そんな中で私は「地表」と言う短歌会に入会し、産経新聞の「ぐんま歌壇」に投稿を続けています。短歌はNHK学園の通信教育で学びました。短歌を詠んでいると、心が癒されて行くのを感じます。昨年小さな歌集を作りました。次の夢はパソコンで第二歌集を作ることです。
 兄は私が働けなくなったらまた精神病院に戻るようにと言っています。しかし私は精神病院が終わりの栖とならない様に願っています。
 私はあと3年で還暦を迎えますが、60歳になったら献体の手続きを取るつもりでいます。
 最後に、私は生まれて良かったと思います。
「体験を語ろう」
清水 昭治
 私は清水昭治と申します。
 病気は、分裂病です、自分としては、ストレスが一番の原因だと思っています。以来、闘病生活40年を経ています。あちこちの病院と、入院を繰り返しました。今では、全快したね! 良くなったね! 回復したね! 治ったね!などと、色んな人に言って頂いております。群馬県の伊勢崎市と言う所で、一人暮らしをしています。以下は一人暮らしを始めたばかりの頃、書いたものです。
 「最近つくづく考えた、生活上のお金の問題。はたして、これからやって行けるのか?年金1級8万と少しここのアパートへ来た日から4年間ほど、家計簿をつけてみた。それによると平均12万円ぐらいの支出があった。働いていて、少しだがサラリーを貰っていたので、どうにかお金のほうは足りていた。今は貯金も5万円程、収入は国から頂いて誠に有り難いと思っているのだが年金だけである。 いずれにせよ厳しい生活がせまっている。ゲームもパチンコもタバコも勿論止めなければならない。ライフラインとNHKと日用品と保険税と区費と新聞代それに食費だけとなる。その他ちょっとの支出はあると思うが無駄遣いは許されない。センターへ行くと友達に缶コーヒーの2、3本はおごっていたのだが、それも駄目となる。食べたいものを食べ、外食も頻繁にしていたがそれも駄目となる。ラーメンにネギなどを入れた食事とかライスに卵かけて食べるとか豆腐に納豆のおかずとかの食生活になるだろう。安くて栄養が有り、量があり、柔らかくて、しかもおいしい物とかをKマートで調達して食をとり、どうにか食べていかなければならないのだ。もう働く意欲はない。年ですし、良い職場もないからして、いずれにせよ生活費の問題は厳しい。生活できなくなれば入院だ、なんていうことも有るだろう。入院は今の自分はそれほどいやだとは思っていない。でもそんなことで入院するのはいやです。病気も良くなった回復した治った全快した、と見てくれる人達もいるので出来れば動けなくなるまでは今のアパート生活をやっていきたい。
 楽しみはある。米山さんと講演をしに出かけるとか、センターへ時々(短歌の会とかキュートの会とか外来とか)で行く事、アパートにいては散歩することやAFNを聞くことやテレビ読書など、それにスズメさん達とコミュニケーションをもってやっていること等である。高橋渡さんが訪問看護で月2回程来て下さるのも楽しみです。とにかく、こうしたこれからの生活となる。自分に出来るか?やらねばならないのだ!」
 
 私たち、精神の病気を持った人は、みな、弱いのです。力がないのです。誰でも社会復帰をしたいと願っております。好きで病気になったのではないからです。線的な原因から、また環境的なものから、また、思わぬ事故などから障害者となったのです。
 ただここで私としては、病気である当人にも、少なからず原因はあり、わがままな所があったのではないかと思っています。
 今日は一人の精神科ユーザーとして、私自身が今、こんな状態・状況である事、私の考え・行動について話します。
「体験を語ろう」
群馬県ポプラの会 弦巻不二江
 私は38才になる一人っ子の「功」の事を語ろうと思います。小さい時から風邪一つ引かず、元気が取り柄で、小、中、高校と過ぎ、車の免許も取れ、成人を迎えました。日本ゴムと言う会社に就職しました。仕事のことばかりで、遊びはまったくないと言っていいくらい真面目に働いて、これからという26才の冬のある朝のことです。私が「食事をしよう」と起こしに行きました。いつものように、普通に立ち上がり「今行くよ」と言ったのです。
 その後のことです。急に倒れてしまったのです。「お前、どうしたの」と言っている内に、唇は紫色に変わっていきます。私は胸をたたき人工呼吸の真似事をしました。主人は驚いて「救急車」と言いながら、その場を離れました。
 でも、私の人工呼吸が良かったのか、すぐ気がつき「お母さん、俺、どうしたんだい」と言ったのですが、又すぐ倒れ、前と同じ状態になってしまったのです。私は、もうへとへとになっていました。幸い救急車が来てくれました。
 高崎は国立病院へ、前橋は群大病院にと回され、たらい回しにされているのかと思うようでした。なにしろ、頼みの群大(群馬大学付属病院)でもすぐ分からないで60日間原因不明のままでした。熱は43度の高熱で、意識は無く、集中治療室で喉に人工呼吸器を付け、見るも無残な姿でした。こんな状態が続いて、やっと風邪のウイルスが脳の官?に入って炎症を起こしている
(ヘルペス脳症)と告げられました。群大にある6種類の抗生物質を使いはたし、その度に、保護者のサイン、捺印を押しました。私は、悲しくて、どうして、どうして、と、叫びながら雪の中、病院の庭をはだしでかけめぐっていたのです。
 最後の一本になった時、息子は、気がついたのです。目は開かず、睫毛だけが動いていた。先生、看護婦さんを呼びました。でも「お母さん、気のせいですよ」と言われたのです。私は主人にすぐ電話をしなければ。・・私はうれしかった。
 薬の副作用で左右の足が変わり、たとえ目が見えなくとも、家につれて帰ろう、かえりたかった。
 それから2年、「おかしい変だ」完全に分裂病になってしまった。でもどんな病気でも必ず直ると信じていました。
 その後12年が経ちました。分裂がひどく、藁をもすがる思いで高崎保健所の保健婦さんを訪ねた事もありました。
 今年の5月の事、急性腎不全になり日高病院へ透析に行くことになりました。ケースワーカーさんが2名ついて、主人と私計4名で一人の患者について・・・。入院が決まりました。十二指腸潰瘍もありました。透析だけではなく、胃カメラも三回飲み、出血も続いたので、輸血をしたりして、本人の病状はまだ起きあがる事も出来ない、水も食事も取れない状態です。こんな状態なのに、病院側から急に「退院してくれ」との話があったのです。
 それは精神病院から来ているせいであろうか?。あまりにもかわいそうです。精神障害にまだまだ理解が無いからだと思います。
 早急に精神病院の中に、透析や輸血、また、内視鏡検査などの諸設備を備え付けて、患者の内科疾患に対する対策をこうじてもらいたいものと、切に思いました。
「体験を語ろう」 病気の息子に背を押されて
境町やよい会 滝沢 友次
 平成4年度 前々回の神奈川大会のおり、県連報告の場をかりて、わたしは勝手に息子啓介のことをはなしました。
 あのとき、私の頭の中は啓介のことでいっぱいでした。なぜなら、ちょうどあの日、息子は、近くのメッキ工場へリハビリに通い始めていたからです。
 「病気のことをかくしていたら、おれはもう勤めはできない。病気のことを聞き入れてくれて、その上で勤めさせてくれるところを探そう。」息子のこの一言に背中を押されて、私が一歩を踏み出したそのときだったからです。
 私は、町立の小学校に勤める一教師でした。町役場で、息子が勤務する工場で、ボランティアで、教え子たちとの辛い、しかし新しい出会いがつぎつぎと生まれました。
 あれから9年、尿閉、ストレス性胃穿孔、熱中症、やけど等々、さまざまな谷を越えて、息子は今もそのメッキ工場にかよっています。
 平成11年9月25日、「第二回埼玉のぞみ会家族大会」が熊谷市でひらかれました。私はそこにとびこみで参加させていただきました。
 「家族が変わらなければ、なにも変わらない」という若い家族の方の発表に私は胸をうたれ、二十数年前の自分自身の姿を重ね合わせていました。
 息子啓介が精神分裂病だと知ったとき、私が最初に思ったことは、「これで息子は廃人だ。なにもしてやれることはない」。(これってすごい偏見じゃあないですか。)
 私は一晩、庭で大声あげてなきました。隣近所にひびきわたりました。
 やがて退院してきた息子を前に、「俺にできることって、いったいなにがあるんだ」。自問自答の日々が続きました。垢だらけ、ゴミの山、夜昼めちゃくちゃの生活、徘徊。でもこれは、息子が病気に苦しんでいる姿なのだ、病の姿なのだと思うように努めました。
 とにかく、病気に苦しんでいるのは俺ではない、息子なんだ。
 とにかく、息子の声「病の声」に耳を傾けよう。親の生活のかたちを押しつけてもだめだ。辛抱強くそばにいてやる、それしかできない。そう思うように努めました。
 今でも家内がよく言います。「あなたは啓介のこととなると、辛抱がよかった。うん、うんと何時間でも話を聞いてやってたものね。」
 そのころ、通院から帰ってきた息子がいいました。「滝沢くんは、この病気にかかったことは不幸としかいいようがないけれども、いいお父さんがそばにいてくれて、そのことは幸せなことだよ」先生にそういわれた、と話してくれました。このひとことが、私と息子、そして主治医との間を緊密につないでくれました。
 その主治医のすすめで、息子はやがて東松山の下宿にもどり、学生生活にもどりました。
 この日からわたしと家内、二人三脚の奮闘がはじまりました。発病当時、下宿の天井から聞こえた人声が、もう聞こえないよ、と言ってくれることを切に切に願いながら、家内は毎晩下宿に泊まり食事の支度を受け持ちました。私は私で朝夕朝夕自宅と下宿とを往復し、食事をともにし、家内を送り迎えしました。
 こんな生活が一年近く続き、学年末が近づきました。そんなある日、息子がつぶやきました。「先生が言ったとおり、怖い声はもうきこえないよ。薬を飲まないとまた聞こえるかもしれない。薬は絶対に忘れない。」病識がしっかりと芽生えたのです。
 それ以来、息子は薬を拒まなくなりました。息子の今があるのは、この一年間の、息子、主治医、私と家内四人の連携プレーが大きくものを言ったと思っています。
 その後息子は、雇用主にだけ病気を告げ、現場の従業員には明らかにしないまま、プラスティック成形工場に就労した経験があります。しかしその雇用主は残念なことに、精神障害についての知識を全くもっていませんでした。したがって従業員への指導などあるはずもなく、息子は陥没しました。
 しかしそれでもなお、この経験も無駄ではなかったのです。
 それからわたしは、焼き物の出張販売に息子を連れてあるきました。また調理師学校にも通わせました。調理は全く覚えてきませんでした。仲間が調理した料理をご馳走になり、後かたづけを全部引き受けていた、と後で本人からききました。
 その後息子を支えながら家族三人で小さな天ぷらやを営みました。隣近所の人たちからは大変喜ばれましたが、商いで利潤をあげることなど、素人にできることではありませんでした。それでもこの商いが四年続き、ここで家内が心筋梗塞を病み店を閉じました。
 ほんとうに、どの経験もどの経験も、失敗の連続といえばそのとうりなのです。でもこれらのすべてが、先に話したメッキ工場でのリハビリにつながったということです。身体を使うことを覚え、人との触れあいも経験し、「ありがとうございました。」と声をかけることも学びました。
 プラスティック工場での失敗から数えて、十数年を費やしたことになります。
 息子を包み、共に仕事についてくださる社長や従業員の方々がいてくれるということが、なによりの宝だと思います。また、特に申し上げておきたいことは、息子が一歩を踏み出すにあたって、境町保健センター(当時の環境衛生課)の保健婦さんの手助けが、非常に大きかったということです。
 社会というのは、たしかに偏見に満みちてはいますが、一方では精神障害者を支える力をも、また持っているものであるとわたしは信じています。
 私の報告は、あまりにも個人的な話かもしれません。今の時代からはちょっと遠いかな、という気もします。
 でも、精神障害者が地域で安心して暮らせる時代がきたとしても、家族がなんの関わりももたないというわけではないし、また、私が家族ともども苦労してきた部分を、社会資源が十二分にその機能を発揮して、強力に手助けしていけるようになって欲しいと思います。








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