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3.偏見の成り立ち
1)硬直化した見方の理由
 ところで、人はなぜ狭い硬直化した見方をしてしまうのでしょうか?
 その理由は、大きくわけると二つあると考えられています。一つは、ものの見方を形成する上で参照される情報や知識がもともと少なかったり偏っているために、それに基づいて形成される見方も狭くなってしまうということです。こうした問題に対して、啓発活動は、広報によって、より幅広い情報や知識を伝えていくことで対処しようとします。
 しかし、この理由だけでは、なぜ硬直化した見方になってしまうのかということの説明がつきません。さらには、いくら広報活動を充実させて幅広い豊富な情報や知識を伝えても、「全然入らない」、すなわち、そうした知識がその人なりの理解として活用されない場合が少なくないという現実も説明できません。そこで、もう一つ、より根本的な理由があるのではないかと考えられています。端的に言って、人が狭く硬い見方をしてしまうのは、その方が楽だからだというものです。
 
2)カテゴリー化による情報圧縮
 もともと人間のもっている記憶量や情報処理能力は無限ではありません。しかし、私たちが生きている現実は、無限の情報を含んでいます。そのため、私たちは、生きていく上で必要な情報だけを選択的に処理することで限界ある能力でも対応可能となるようさまざまな工夫をしています。そうした工夫のうち、最も有力なのが言葉を介して、似ているものを一まとまりにしてしまうというものです。カテゴリー化と呼ばれていますが、同一の特徴を共有するものを一つのカテゴリー(一まとまり)に入れてしまうことです。すべての言葉はこのカテゴリー化の作用を担っています。たとえば、「リンゴ」という言葉は、赤くて光沢のある皮に包まれた球に近い形状の果物を指し、それにあてはまるモノはすべてリンゴというカテゴリーに入れられます。
 
3)個別性の隠蔽
 もちろん、リンゴのみならず、その説明に用いた「赤い」「皮」「球」「果物」などもすべて何らかのカテゴリーを示していますから、そういう意味で、人間は、言葉を習得するにつれて、カテゴリー化の過程を経ることなしには、現実を捉えることができないともいえます。人間とは、言葉を介して現実をカテゴリー化して捉える動物なのです。
 もともと、個物としての一つ一つのリンゴには、色や形、大きさや味などそのリンゴ独自の無数の特徴(「属性」と呼びます)があります。そうした属性のうち、いくつか(たとえば、さきほどの「赤い」「皮」「球」「果物」など)が取り上げられて、それらが共通している場合に、リンゴというカテゴリーに入れられます。そのため、ここには、無数の属性によって成り立っている個別性を単純化して隠蔽する過程が見られることになります。
 こうして、本来無数の属性を持つはずの個別性がカテゴリーに覆い隠されてしまうと、今度は、あるカテゴリーに属するものに対して、画一的にある属性を貼り付けることができます(カテゴリー属性と呼びます)。たとえば、「リンゴとは酸っぱいものだ」などのようにです。そうすると、リンゴというカテゴリーに入る無数の物体は、ことごとくただ酸っぱいものということになってしまいます。
 
4)怠惰な情報処理方法
 そして、重要なポイントは、こうした一つの狭い捉え方に固執する方が、すなわち、硬直化した狭量な捉え方をする方が人間にとっては楽だということなのです。現実は無限です。酸っぱくてとても食べられないリンゴもあれば、全然酸っぱくないリンゴもありますし、程良い酸味がおいしいと感じられるリンゴもあるでしょう。しかし、それを確かめるためには、理屈から言って、無数にあるリンゴすべてを味わってみて、そこから得られる情報を処理し、たえず自分の捉え方を変化させなければなりません。もちろんこれはあまりにも極端な言い方ですが、たとえ、リンゴの範囲をかなり限定したとしても、それでも一々情報を収集し処理して、捉え方を変化させるためにかかる手間はやはり小さくはありません。
 それに対して、最も手間のかからないのは、一度だけ、あるいは、一口だけ食べて、リンゴというものはこういうものだと決めつけてしまう、すなわち、カテゴリー属性を限定的に固定化させて、以後は、そのときに得られた決めつけだけに基づいて無数のリンゴを判断することです。あるいは、もっと手間のかからないのは、他人が判断してくれたものを鵜呑みにして自分では情報収集も処理もしないことです。
 
5)偏見による損得
 つまり、偏見とは、ある意味、最も手間のかからない「ものの見方」なのです。人間が偏見を持つのは、その方が手間がかからないから、楽だからなのです。
 もちろん、楽をする分、ちゃんと損もしています。偏見によって狭い見方をしてしまえば、その分現実の豊かさを味わうことはできません。一つの捉え方にこだわってしまえば、その捉え方からはずれる現実をうまく説明できなくなることもあります。そのため、人は、日々直面する現実に対して、自分の捉え方を微妙に場合によっては大きく変更したり調整しながら生きています。たとえ、すべての捉え方が一定の偏りをもつものであったとしても、新たな情報や知識、経験などによって、その捉え方を柔軟に拡げていこうとしているのです。
 ところが、現実に対する捉え方を幅広い柔軟なものに変えていくほど、現実に即した味わいは得られますが、しかし、ある程度の手間をかけなければなりません。そのため、生活していく上での必要性に応じて、ある分野については柔軟な見方ができるけれども別の領域については硬直化した見方をしているというのが、程度の差はあれ、人々の採用している「ものの見方・捉え方」であるといえます。リンゴを食べることが生活上さほど必要性が高くなければ、リンゴに対する見方を柔軟なものに変える手間を惜しんだとしても不都合はないのです。
 
6)啓発活動の可能性
 いずれにせよ、偏見とは、狭く硬直化したしたものの見方・捉え方であり、カテゴリーを用いて現実の無限に多彩で豊かな個別性(一つ一つのリンゴの味わいなど)を覆い隠し、画一的に単純化されたステレオタイプ的な理解をすることなのです。それは、言語によって世界を分節している人間が、自らの能力的な限界に対処する上で不可避的に採用せざるをえない戦略であるともいえますが、しかし、それは、決して揺るがしがたく固定したものというわけでもありません。たしかに手間はかかりますが、逆に、手間さえかければ、幅広く柔軟なものに変えていくこともまた不可能ではないのです。そして、そこにこそ、啓発活動の可能性があります。
 
 やや抽象的な話になってしまいましたが、では、こうした一般的な前提を踏まえた上で、次に、精神障害を取り巻く偏見の特異性を素描してみましよう。








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