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「もく星号の真実(20)」  市川 武男
 
 もく星号は、滑走路に散在する水溜りで時に大きく水しぶきを上げながら離陸し、直ぐに雨天の中に姿を消した。
 羽田タワーのAマンは姿の見えなくなった木星号に対して、離陸時刻が42分である事、併せて直ちに東京レーダーと交信するよう指示して交信を打ち切った。
 当時羽田周辺上空には10機ばかりの航空機が飛行していた事が、前述の日航の無線傍受で分っているが、これは多分、羽田関連の離着陸機というよりも、東京レーダーの周波数のモニターから確認された機数であって、その事からすれば、南関東周辺一帯で10機ばかりのIFR交通が数えられたと理解される。特に羽田上空については立川横田地区関係機の空路としてA3航空路が設定されており、又東側空域には北部太平洋方面とグアム・沖縄を結ぶG8航空路、更にはアメリカ本土と朝鮮最前線を結ぶコリアンエアリフトの大動脈G10航空路等が、南の伊豆大島上空の一点で全て交叉していた事などを考え合わせれば、南関東空域を担当する東京レーダーの忙しさはかなりのものであったと推察されるのだが、当時の関係者の話では、丁度この早朝の時間帯は特にラッシュと呼んでも差支えないほどの忙しさであった筈と言われている。
 又当時の輸送機はレシプロ全盛であるため飛行高度が低高度に集中し、航空管制上も大変な負担となっていたと思われるのだが、通常このようなラッシュ時の離陸機については、VIFNO、即ち安全間隔が設定可能な時間内に離陸出来ない場合にはクリアランスを自動的に無効にして地上待機させる等の方法がとられるが、木星号の場合にはこの様な処置も無かったようなので、或は羽田周辺の関係航空交通相互間には未だ少し余裕があったとも考えられる。
 所でここで御注目頂きたいのはこの当時の航空管制手段というか、要するに現代のようなコンピュータ万能ではなく、全て人間の手作業、即ちマニュアルであったという点である。
 特にACCでは送付される飛行計画に基づいて必要なストリップを全て手作業で作成し各管制席に配布するが、それ等のストリップに記入される予想時刻も全て管制員自身が例の航法計算盤で算出したものであり、それを航空機から通報される実時刻で修正しながら管制を行うという方式であったという点である。
 勿論管制員は当初の予想時刻で判断しながら各々の航空機の管制を行うので、実時刻と大きく異なる場合はその処置に追われる事となる。
 特にこの木星号事故の場合は、先の天気図にも示される通り強い低気圧帯の中心が伊豆大島方向に移動中であり、事故当日はかなり強い南東風が吹いていた筈であり、管制員も各交通のETO算出には大いにとまどって居たのではなかろうか。
 最後に付記しておきたい事は当時の管制規則の事である。勿論、当時の航空管制についての基準規則は、アメリカCABの制定したANC基準であり、これは文字通りAとNとC、即ち陸海空軍と民間の全てに共通の基準であって、これを参照しながら当時の管制状況を調べてはいるものの現実の在日占領軍によって行われた管制業務はこれのみを基準とするものではなく、特に朝鮮戦争下での軍用機の管制については別途FEAFによる様々な軍規定があり、中でも最も重要なのは当時この東京レーダーというターミナル管制所で使用されていたLOP(地域的な運用規則)であるが、このシリーズの冒頭にも述べた通り、この最も重要な規定類が入手出来なかった事は誠に残念で、結局は前述のANCと、その他の軍規則を中心に或る程度の推定でこれから先の説明を行わなければならない事を御了解頂きたい。
 最も推定とは言ってもかなりの確度でLOPの内容を類推出来るので、結果においては左程大きな誤りは無いものと信じている。
(続)








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