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「がんばっぺ〜大空に羽ばたく現役パイロット」
 山本 滋赤十字飛行隊々長が産経新聞(13・8・19付)で紹介されました。
 本タイトルは文中にある「シルバーとちぎ」掲載時の題名を使いました。
 
 栃木県下で発売されている月刊紙「シルバーとちぎ」(九月号)に「七十九歳の現役パイロット」が紹介されていた。そのひとは赤十字飛行隊の第三代「隊長」をつとめているという。
 赤十字飛行隊は、日本赤十字社の要請をうけて、無償で空を飛ぶ救助隊である。新潟地震、普賢岳の噴火、阪神・淡路大震災などの災害時に、医療品や血液の緊急輸送をおこなってきた実積がある。隊員である二百人以上のアマチュアパイロットをまとめるのが「隊長」の仕事である…。私は記事を読むうちに、あっ、と思った。かれこれ二十年前、私は、この山本滋さん(大正十一年生まれ)を取材していたのである。
 私が書いた当時の記事をかいつまんで紹介しておきたい。
 昭和二十年八月十三日、海軍の飛行予科練生だった山本さんは、特攻隊の一員として北九州の雁ノ巣飛行場から攻撃機「銀河」に乗りこんだ。戦友に見送られての死への旅立ちだったが、沖縄上空はあいにくの悪天候、いったん引き返して、三日後に変更された出撃を待った。しかし、その間に終戦を告げる玉音放送が流れた。
 戦後、大学に入って分析化学を専攻し、化学品メーカーに勤めたものの、ヌルマ湯に漬かっているようで胸はときめかず、創設まもない海上自衛隊に身を投じた。定年(五十三歳)の直前まで操縦捍(かん)を握り、第二〇二教育飛行隊長として退役。「頭のいいひとは幕僚になるが、私はもっぱら体でご奉公させてもらいました」と言う。折から小型機を開発中の富士重工に再就職して、テストパイロットをつとめる。
 企業戦士に転じると、過酷な戦いが待ちうけていた。たとえば高度八千メートルまで舞いあがり、安全弁をはずす。そうすると温度マイナス三十〜四十度C、気圧四百ミリバール(地上の三分の一)という上空の状況に機内まで浸される。極限における機器の耐久性を確かめるのが狙いであった。しかしパイロットはたまったものではない。すぐさま急降下しなければ、身がもたない。そのほか双発機の一方のエンジンを上空でいったん停止させて、水平飛行を試みたりもした。
 当人にしてみれば「飛行機の強度をテストしているのが、精神力を試されているのか」と思うようなフライトが七年間つづいた。私が山本さんを取材したのは、富士重工を辞めた直後のことである。
 「定年を迎えたときは赤飯を炊いて祝いました。なによりも最後まで自分の選んだ道をまっとうできたのがうれしい」と言いながらも「定年」に戸惑っていた。戦争で死ぬつもりが、思いがけなく命びろいをしたので「定年」とされてもピンとこないと語っていた。
 その後は民間人によるアクロバット飛行チームの一員として、催事のときなど旧式の複葉機による曲芸飛行を演じる。飛行機を通じて知りあったタクシー会社の社長から招かれて、管理部長の仕事もこなす。「“定年”は私が死ぬときです。せめて七十歳まで操縦捍を握っていたいですね」と語っていたのが、七十九歳のいまも現役でありつづける。
 戦場で散った友たちのためにも燃え尽きるまで生きる。この覚悟が山本さんの戦術を支えた原動力であった。
 
(かとうひとし=ノンフィクション作家)








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