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「もく星号の真実(16)」  市川 武男
 
 もく星号が羽田の管制塔を最初に呼び出した時の管制塔には、少く共2名のアメリカ兵管制員が居た号で、一名が所謂Aマン(LOL席)、今一名がBマンと呼ばれる連絡調整係の管制員であった。このBマンは主として東京レーダーや羽田のGCA、BOP等との連絡調整をしていた管制員で、IFR離着陸機に対するクリアランスを、東京レーダーに要求し受領する事を任務としてAマンの常務を補佐していた。
 従ってこのAB両名の関係が円滑に機能していなければ、タワーの業務は大変な事になるので、その人員配置については通常、細かい配慮がなされるのが通例である。
 一般にアメリカ空軍での管制要員構成は、経験豊かな古参軍曹クラスが各輪番シフトの長となりその下にCPLの主任、そしてPFC兵員という構成であるが、GCA等が併置されていた所ではその上にタワー又はGCAの業務を統括する若手将校のチーフが置かれていた。併しこの統括チーフはあくまでも各業務の業務上のみの統括チーフであり、現場実務上の実権はシフトチーフの古参軍曹が握っているので例えば前述のAマンBマンの指定や勤務配置はこのシフトチーフが行い、通常AマンがBマンを指揮しながら業務を行うので、上位階級者がAマンに配置される事となる。
 従ってこの日の羽田タワーのAマンBマンも、その様な関係にあったのではなかろうか。
 多分その日のAマンは木星号の呼び出しに応えて地上風等の情報を早口で与え終わると、直ぐに他機からの呼び出しに応答しなければならないほど忙しかったと思われるのだが、この時タワーが指示した滑走路は、当日の気象やその他から判断して多分RWY15だったのではなかろうか。
 当時の羽田飛行場にはこゝに掲載する写真の様にAB二本の滑走路があったが、もく星号がBOから離陸までの時間から考えても、ターミナルに最も近いRWY15であったと推測し得る。
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 タワーの窓ガラス越しに木星号がゆっくり地上滑走を始めたのを見て、Bマンは管制卓上のGMT表示の時計をチラッと見たのに違いない。
 22時34分B/O、即ち航空会社が言う所の出発時刻である。Bマンは直ぐにL/Lのキーを入れて東京レーダーを呼び出した。
 天候が悪いため航空交通が輻湊すると予想して、早目にクリアランスを東京レーダーに要求しようと考えたのである。
 併し受話器の向うの若い兵士の声は「スタンバイ」と言っただけで直ぐに切れてしまった。やはり忙しいのか…と考えていると意外に早く再呼出しがあって、もく星号へのクリアランスが来た。
 Bマンは急いで手元のグリーンのストリップを取り上げ、受話器の向う側できこえる若くかん高い声のクリアランスを、定められた記号でストリップの中央に書き込んで行く。
C RK[H] A3 G8 G10 M60 M2010< とそこまで書いて、Bマンの手が一瞬止まったが、直ぐに「TA」とだけ書くと直ぐに復唱を始めた。
 丁度その時、もく星号から離陸準備の完了とIFRクリアランスを待っているとの送信を受けたAマンは、マイクで応答しながらBマンが今書き終ったばかりのストリップを引き寄せた。
(つづく)








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