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「もく星号の真実(15)」  市川 武男
 
 昭和27年4月9日、水曜日、ニホン列島は先に御紹介した当時の天気図を御覧になれば直ぐお分りのように、沿海州地域と南方海上の南北から強い低気圧帯にはさまれ、特に南方海上のL帯中心は長い不連続線を伴いながら伊豆大島方面に東進中で、関東地方は上空五〜六千米まで厚い雲に覆われて地域的には豪雨さえ伴う悪天候でした。
 この日の状況については伊豆大島の人達も、「あの日は島全体がすっぽりと霧に包まれ、一日中雨が降っていた」と語っています。
 このような気象状況下でNWAの運航者は、大阪経由福岡行の日航三〇一便の運航を決定し、通常通りの飛行経路、即ちA3、G8、G10、巡航高度六〇〇〇フィートの飛行計画を提出したのですが、この飛行計画は先にも御紹介したように、当時NWAに日本人研修員として派遣されていた者がNWAの運航規程通りに前の晩に作成したもので、多分、当日朝にN WAディスパッチの承認を受けて提出されたものと考えられます。
 一方、もく星号の方も先に御紹介した通りNW Aに派遣されていた日本人研修員によって前の晩に充分整備され、当日朝になって格納庫からラインに引き出され、定刻までに満席の旅客が搭乗を終えていました。
 余談になりますが、これも先に御紹介した通りこの満席の乗客の内一名の方は、いわゆるキャンセル待ちで搭乗された方で、本当に人間の運命というものは計り知り得ない闇の中にあり、乗客名簿に引かれた赤インクの2本の線が、天国と地獄の別れ道であったわけです。
 併しこのもく星号の機内で、運命の分れ道に立たされていたのは、この乗客の方ばかりではなかったのです。
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当時の東京管制搭
 即ち、先に御紹介した日刊航空社刊行の「大空の証言」(駿河昭著)によれば、その日の客室乗務員として乗務された権田節子さんも又、運命のくもの糸にあやつられて、この三〇一便に乗務される事となったのだそうです。
 「大空の証言」によれば、権田さんは事故前々日の7日に病院から退院されたばかりなのに、翌8日にはもう乗務され、事故当日は御自分の誕生日で体暇を予定したもの結局交代者が居なくて勤務をなさったとの事で本当に運命のくもの糸の悲情さをつくづくと感じさせられるのです。
 この様な運命のくもの糸に引かれた人々を乗せたもく星号自体も又、宿命の最後の飛行へ旅立つ準備を整え、定刻の午前七時三十分頃に羽田の管制搭に対して、地上滑走の指示を求めるボイスコールが行われたのです。当時の羽田管制搭は旧整備場の方にあったのですが、上掲の写真の様に他の米軍飛行場と同じ木造タワーで、大阪の伊丹飛行場のタワーも同じものでした。それと今ひとつ付記すれば、当時は今の様に日航三〇一便をそのまま無線呼出しとする事はなく多分このもく星号の登録記号であるN 93043を無線呼出しとしていた筈ですが、当時の日航ターミナルは羽田タワーのすぐ脇ですから、タワーからは良く見えますし、管制員も充分に日航三〇一便と認識していたのではないでしょうか。但し遠く離れた東京レーダーでは、或はコリァンェァリフトの民間チャーター便ぐらいにしか認識していなかった可能性もあります。
(つづく)








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