「もく星号の真実(14)」 市川 武男
もく星号の事故現場となった伊豆大島へは、当時のさまざまな情報を求めて幾度となく通い、島の人々と酒をくみ交しながら当時の思い出をくり返し繰り返し聞かされましたし、文字通り全島をくまなく歩いてまわりました。
特に事故現場である白石山を中心とする外輪山から裏砂漠一帯については、只単にもく星号の痕跡のみに留まらず、当時もく星号の事故直後に隠密裡に行動したアメリカ兵達の通ったと思われる山道の状況などの確認も併せて行ったものです。
その結果、白石山のふもとから山頂に向けて当時一直線に散りばめられていたもく星号の機体破片と山頂近くに残された機首を結ぶ方向が、明らかに館山ビーコンから大島差木地のレンジ・ビーコンを結ぶ方位とほぼ一致する事を確認することが出来ました。しかもこれらの結果を地図上に作図して見ると、明らかに館山ビーコンと大島レンジを結ぶ緑八番空路の中心線から大きく西側にずれていることがわかりました。
この事については当時から、事故現場が航空路中心線から西方にずれている事から、マスコミなどでもいろいろ推測しており、ある日航関係者は「もく星号は大島ラジオビーコンを確認して大きく西の方向に旋回した直後に三原山に衝突したのではなかろうか」と語った事が新聞にも報道されていましたが、どうもこれは関係者が事故現場を最初に見て、只直感的にそう感じたというだけの事の様で、事実は当時の調査報告書にもある通り事故現場に残されたペラの痕跡や機首接触による大きなくぼ地等から判断して、もく星号は旋回飛行ではなく水平飛行であった事が確認されている事でも明かな事です。
即ち当時もく星号は水平飛行のまま、約15〜20度の裏砂漠の斜面で腹をこする様にして一直線に白石山の山頂方向に粉末塵となって散って行ったと推定されています。
このもく星号の飛行コースと前述した航空路中心線とは、私の拙劣な作図で推定した計では約一海里ありましたが、私自身この調査した当時は、前述したようなアメリカ民間航空規則のことに気付いていませんでしたので、或はこの一海里のずれも当時の悪気象の中で強い風雨にさらされていたもく星号が流されたものと考えていました。
このシリーズの初めにも御紹介した当時の気象図を今一度御覧になれば直ぐお分りの様に、当時伊豆大島には西方から低気圧の中心が接近しつつあり、周辺ではかなり強い風雨が荒れていた筈ですから、そのためにもく星号も中心線から流されたと考えた訳です。
その後CAR60の規定の存在を知り、多分このもく星号機長も、又、コパイのクレペンジャー氏も共に、長い間この規定の下で飛行歴を積み上げて来た訳ですから、IFRで飛行の際は必然的に空路中心線の右側を飛行することを当然の事としていたのではないでしょうか。
勿論、当時から航空路には最大で10海里のBUFFER空域が認められていたのですから、中心線から多少右や左にずれて飛行していたとしてもそれほど気にする事もないのでしょうが、実はこのもく星号の場合は、この僅か一海里の右側飛行が決定的な運命の一海里となった事を知る時、何ともその皮肉な運命を悲しまない訳には行かないのです。
伊豆大島の地図を広げて見れば直ぐ分る事ですが、PQとXAを結ぶ直線の真下にある伊豆大島は、三原山東斜面の、高くとも四百米以下の傾斜地ですから、或はもく星号がこの緑八番空路の中心線を飛行しておれば!!と心から嘆かずにはおれません。
晴れた日に、このもく星号の事故現場に立って僅か一海里反対側の空路の中心線附近の空で見上げる時、本当にこの僅か一海里という距離がもく星号にとっては天国と地獄を分ける運命の裂け目であったと痛切に実感させられるのです。
(続)