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特別賞推薦のことば
選考委員 作家 半藤一利
 あるいは覚えておられないかも知れないが、昭和三十五年、北さんが「夜と霧の隅で」で芥川賞を受賞されたとき、「週刊文春」の編集者としてインタビューをし、紹介をかねた特集記事を書いたのはわたくしである。いろいろ阿呆な質問を投げかける失礼をするこっちに、北さんは嫌々ながらも(たしかにそう見えた)丁寧に答えてくれた。いまでもうろ覚えながら耳に残っている言葉がいくつかある。
 「中学時代は教練や体操は大嫌いでした。副級長でときどき号令をかけさせられるのに、堪らなく閉口しました」
 「旧制松本高等学校の理科に入ったのは、つまり山登りと昆虫と付き合うことができるのに憧れて、それ以外の理由なんてありません」
 その北さんの「どくとるマンボウ航海記」や「南太平洋ひるね旅」をこんど再読しながら、こうした記憶が蘇ってきて、妙な気分になっている。教練や体操が嫌いで、山登りや昆虫が好きと、この海を描いた傑作とは、ちぐはぐもいいところである。しかし、考えみると、ちぐはぐな面白さ、とぼけた笑いが、つまりは北さんの作品の真骨頂なんではあるまいか。自分で自分のホラに陶酔してしまい、ホラはとどまるところを知らなくなるそうであるが、そこからかもしだされる笑いがこの作品には満ち満ちている。
 とにかく、幾つになって読んでも、面白さが変わらない。読者は笑いとともに、北さんの乗船した照洋丸が港を出たとたんから、潮騒と風のうなりを聞き、溶岩のうねりのように湧き立つ波頭を見ることができて、改めて感動することであろう。船員の立場から一歩距離を置いた目で描かれる海と海の生活に、かえって海の素晴らしさ、おおらかさ、きびしさを多く教えられることであろう。
 北さん、おめでとうございました。
選考委員 神戸商船大学名誉教授 杉浦昭典
 北杜夫さんが特別賞に決定した。いうまでもなく四十年以上前の作品「どくとるマンボウ航海記」に対するものである。昭和三十五年に発行された初版本の表紙カバーにある曽野綾子さんの読後感には先ず「いままで日本語で書かれた航海記のなかで、最高に面白い作品の一つである。」と述べられている。全くその通りであり、それは今でも変わらず通用する言葉である。同じカバーの井伏鱒二氏評でも「これはただの記録ではなく、また、ただの文明批評でもない。闊達自在な文章で船と海と港を生き生きと描き、我々を幻妙な冒険物語の世界に誘ってくれる。斬新な記録文学だと思ふ。」と推奨されている。
 今のように航空機で手軽に外国へ行けなかった頃の話である。ベストセラーになったこの本は、航海記としてよりも、一風変わった面白い外国旅行記として一般に受け入れられたのではなかっただろうか。どくとるマンボウの名はたちまち人口に膾炙したといっても決して大袈裟ではない。頭だけのような珍しい形の巨体をぽっかりと海面に浮かべてのんびり昼寝しているように見えるマンボウは、茫洋としてまるでつかみどころのない風貌の不思議な魚であるが、北さんといえばマンボウということになってしまった。
 北さんの海に関わる作品として「遥かな国 遠い国」と「酔いどれ船」、それに「船乗りクプクプの冒険」を読んで見たが、マンボウというには一寸繊細過ぎるような気がした。しかし、このように純真なマンボウ先生だからこそ、インド洋で船艙から甲板へかつぎ出された漁具の山を見ると船舶の膨大な輸送能力を悟って海運の重要性を語り、航海の終わり近くには「わが国は海にかこまれた島国であるのに、海に生きている人々をのぞいて、海に対する関心はおどろくほど希薄である。」と喝破できたのである。








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