童話部門佳作受賞作品
たこのおくさん
わたなべ りょうこ
本名=渡辺涼子。一九七七年札幌市生まれ。慶応大学文学部卒業。フリーター。NHKのドキュメンタリーを見て海の生態系に衝撃を受け、初めて童話を書く。現在は新たな童話とホラー小説を構想中。好きな作家はアントン・チェーホフ。東京都府中市在住。
こぽ、こぽ、かぽん
こぽ、ぽわわわん
ぽかん
きれいであたたかな海を、ずうっとずっともぐってゆくと、砂の上にごつごつした岩やあざやかなさんごが見えてきます。さんごの森をしばらくすすんで森をぬけ、右手に曲がったところに、たこの奥さんはすんでいます。
住所でいえば、八丁目です。
赤や黄色やみどりのやわらかな海草を頭にはやした、かたくて大きな岩の下の方に、深いわれ目が広がって、穴ぼこのようになっています。そこが、たこのおくさんの住まいでした。とはいっても、たこのおくさんはひとりきりで住んでいたわけではありません。
穴ぼこの中では、たくさんの小さなたまごたちが、かべにきっちりくっついて、水の流れに合わせていつでもふるふるゆれています。そして穴ぼこの入り口には、たこのおくさんが長い八本のうでをゆらゆらゆらしていつでも静かにすわっています。
さて、おくさんというからには、だんなさんがいなくてはなりません。もちろんたこのおくさんにだって、りっぱなたこのだんなさんがいたのです。けれども今はいません。
ふたりが結婚して6ヵ月たった満月の夜、たこのおくさんはふうふう言いながら、すきとおったたまごをひとつぶずつ、穴ぼこのかべに、うんとたくさん産みつけました。その晩、たこのだんなさんはふらりと穴ぼこを出てったきり、二度ともどってはきませんでした。
たこのだんなさんというのは、そういうものです。
たこのおくさんはそれから三日と三晩、穴ぼこの前で海の上ばかり見上げて暮らし、四日めの朝がくると、前を見て暮らすようになりました。そして、だれにも一度もぐちをこぼしたり、泣きついたりはしませんでした。
たこのおくさんというのは、そういうものです。
それ以来たこのおくさんは、すきとおった米つぶのようなたまごたちを、ごはんも食べずに朝から晩まで世話しています。
そうして、近所のおくさんたちが気のどくがって
「おひとりきりで、たいへんねえ」
と声をかけると、きまってだまってほほえむのでした。
たこのおくさんというのは、そういうものです。
*
さて、きょうも朝からたこのおくさんは、長いうでをやさしくゆすっています。そうすることで、穴ぼこのおくの方にいるたまごたちにも、新鮮な水が行きとどくのです。
「ぼうやたち、ゆっくりじっくり大きくなって、こちらに出てくるのよ」
たこのおくさんは声をかけます。
たまごたちはふるふると、いつもにまして、うれしそうにゆれるのでした。
そんなある日、いつものようにあまだいのおくさんが、ひらひら遊びにやってきました。
あまだいのおくさんはとなり近所でひょうばんのべっびんさんで、おしゃれをするのがとても好きです。
だんなさんは魚組合の議長で、それはもう、りっぱで忙しいあまだいです。いつも会議や出張で、そこら中を泳ぎ回っています。あまだいのおくさんは、自分のおしゃれとだんなさんのお世話で、いつもてんてこまいです。ふたりはたまごを産むひまもないほど忙しいのです。
あまだいのおくさんは、ふるふるゆれているたまごを、横目でちらっと見てから口を開きました。
「ごきげんいかがおくさま」
というあまだいのおくさんは、なんだかごきげんがふるわないようすです。
「きょうはあたくし、ちょっと相談があってまいりましたの」
見てみると、あまだいのおくさんは両方のひれの間に、きれいなむらさき色の海草をはさんで、とほうにくれた顔をしています。
「こんにちは、あまだいさん。いったいどうなすったの?」
「いえね、今夜は主人といっしょに、だいじなお客様とお食事なのよ。でもね、ほら、こんな地味なおかざりでは、なんだかしんきくさいでしょう。ああ、困ったわ。どうしょう」
そういって、持ってきた海草を頭の上にのっけました。
「あら、ちっともしんきくさくなんかないわ。とってもシックだわ」
と、たこのおくさん。
「でも、ね、あまだいさん。どうかしら。うちのてっぺんに生えてる海草をすこし持っていらしたら。赤や黄色や緑はおくさんのうろこに合うわ」
「あらなんだかわるいわ」
「ちっともわるかないわ、そら」
たこのおくさんはうでをのばして、自分の家の上に生えている海草を少しむしって、あまだいのおくさんの首に巻いてあげました。
「やっぱり、思ったとおりよ。よくお似合いだわ。うろこがひきたつわ」
「あら、うふん、そうかしら」
あまだいのおくさんはすっかりうれしくなって、海草を首にまいたまま、そこら中をくるくる泳いでまわりました。
そして、ぴたっととまっていいました。
「それはそうと、おくさま。近ごろずっと、お家の前にすわったきりじゃなくって。顔色だってなんだか青いわ」
「赤ちゃんがね、そろそろ産まれそうな気がするものだから、どうもいつも気になってしかたがないの」
「あらあらおくさま。なんといっても体がしほんよ。いくらだいじといったって、子守りばかりもどうかしら。以前にくらべたら、なんだかずいぶんおやせになったようだわ」
「あらふふふ、年かしら。近ごろははあんまりおなかもすかないのよ」
たこのおくさんはにっこりほほえみました。
「あらあらおくさま。そんなのいけないわ。あのね、おくさま。ぴちぴちしたこえびって、とってもすてきな味よ。あたし、きのうは主人がおみやげで持って帰ってきたのを、七つ半もたべたの。あら、あたしおしゃべりしすぎたわ。もうもどって主人をおこさなくちゃ。なにしろ、忙しいのよ。それではごきげんよう」
あまだいのおくさんは、穴ぼこのたまごたちをちらっと横目で見て、大急ぎで帰ってゆきました。
「心配してくれてありがとう」
たこのおくさんはあわてて後ろから声をかけましたが、あまだいのおくさんの姿はもう小さくなっていました。
*
その日の晩のことです。
いつも静かな海の中で、事件がおこりました。八丁目に、ひとでが大勢で現れたのです。ひとでは、海のギャングと呼ばれています。ひとでたちは、その星形の体の下にたくさんついている小さなしょくしゅで、海のものをかたっぱしから、じわじわとかして食べつくしてしまうのです。ひとでが大勢でやってきたらさいご、そこら中をギャングのようにあらしまわって、とおったあとには生き物が残らないと言われるほどです。
食べられないためには、早めに逃げてしまうか、たたかうしかありません。八丁目の魚たちは、ひとでがやってくる少し前に、遠くへかくれることにしました。
しんせつな何人かは、逃げる前にたこのおくさんに、
「今夜ひとでがこちらへ向かっているらしいわよ。おくさんも逃げた方がいいわ」
と忠告してくれました。
「ありがとう。でも、わたしは今、ここをはなれるわけにはいかないのよ」
たこのおくさんはにっこり笑っていいました。
「わたしたちは何とかなるわ。さ、みなさんはひとまず、はやく出かけたほうがいいわ」
ひとでたちが、低い声でうたいながら八丁目にやってきました。
ここであったがひゃくねんめ
おれらてんかのまわりもの
つよきはくうし よわきはくわれる
じゃくにくきょうしょく まったなし
せちがらくって ごめんなさい
ハイ、いただきます
まず、ぐっすり眠っていたほたてたちがねらわれました。ほたてたちは、ひとでがせまってきたのに気がつくと、大急ぎで長いべろを砂の中にさし込んでばねのようにして、上手に砂の上をぴょんぴょん飛びはねました。
が、逃げおくれた何匹かのほたてが、ひとでたちに囲まれて、からの間をしょくしゅでちゅうちゅう吸われて死んでしまいました。
ほたてを食べてしまうと、ひとでたちは他に何かえものはいないかとあたりを見まわしました。
まだたりない
まだまだたりない
たこはかたいがたまごはやわい
たこはくうまいたまごはうまい
こんな歌をうたいながら、ひとでたちは、たこのたまごたちがゆれている穴ぼこににじりよって来ました。たこのおくさんは、穴ぼこの前にぴったり体をくっつけて、きっ、とひとでたちをにらみました。ひとりのギャングが、こっそり穴ぼこにしのびよります。
びしり!
たこのおくさんの長いうでがギャングをうちます。
ぴしり! ぴしゃり! ぴしり!
たこのおくさんは八本のうでをギャングたちに雨のようにふらせます。しかし、しぶといひとでたち。
あちらからにじり。
ぴしり!
こちらからじわり。
ぴしゃり!
………
どちらもゆずりません。たこのおくさんのうでは、しびれてふらふらです。けれどもくじけません。なまりのようなうでをふりあげて、もう、一げきー
と、そのとき、ひとでのボスがいいました。
ちょいとおまちね
まあ おまち
ずいぶんてひどくぶたれたもんだ
おお、いたい
おお、ひどい
きょうは、たいさん!
ひとでたちはボスにつづいて、ぞろぞろ引きあげていきました。たこのおくさんは、一番さいごのひとでが見えなくなると、その場にどうとくずれました。
ひとでたちが去ると、あたりで動くものはありません。いつもに増して静かな夜がもどってきました。
*
こぽ こぽ かぽん
こぽ ぽわわわん
ぽかん
どうやら、朝がきたようです。
あまだいのおくさんが、何にも知らずに、今日もとなり町から、両ひれに何かはさんでいそいそとやってきました。穴ぼこの前までくると、ぐんにゃり横になっているたこのおくさんを見つけていいました。
「ごきげんいかがおくさま。あら、まだねてるわ」
たまごたちは穴ぼこでふるふるゆれています。たこのおくさんはぴくりともしません。
あまだいのおくさんは、口をとがらせてたこのおくさんの一本の長いうでをつついてみました。
「ね、おくさま、目をさましてちょうだいな。きょうはね、あたくしおくさまに、おみやげ持ってまいりましたの」
たこのおくさんはぴくりともしません。
「ね、そら、ね、こえびよ。きのうのお食事会ででたのを、あたしいくらかこっそりもってきたの。そりゃ、どきどきしたわ。主人にだってないしょなのよ。ぴちぴちして、おいしそうね。やわらかいのよ」
たこのおくさんはぴくりともしません。
そのとき、あまだいのおくさんは、八丁目にいつもよりもなんだか魚が少ないことに気がつきました。みんなどこかへ姿を消してしまったようです。砂の上には、からになったほたてがいがいくつもころがっています。あまだいのおくさんは、きのうの晩に、八丁目で何かがおこったことに気がつきました。
よく見ると、たこのおくさんの長いうでの先は、すり減ってきずだらけです。あまだいのおくさんは、たこのおくさんの顔をのぞきこんで、眠っているのではないらしい表情にはっとしました。そうしてぶるぶるふるえ出しました。ひれの間から、持ってきたこえびがぱらぱら砂の上にちらばります。
「おく様!おくさん!うう…あんまりだ!死んでしまうなんて!」
あまだいのおくさんは岩に頭をぐりぐりこすりました。
「ああ、あたし、なんてばかだったんだろ。なんでもっと素直にならなかったんだろ。おくさんはあんなにやさしかったのに。あたし、おくさんが大好きだったのに…あたし、おくさんにちゃんとありがとうも、さよならも言ってないわ。ああ!」
*
こぽ、こぽ、かぽん
こぽ、ぽわわわん
ぽかん
どのくらい時間がたったでしょうか。なんだかさっきから、あまだいのおくさんの顔に、何か小さなものがあたっています。あたりを見わたしてみると、そこら中に小さな小さな赤いつぶつぶちろちろ浮かびながら動いています。
ぴろ、ぴろろろろろ、ぴろ。
赤いつぶつぶはどんどん増えていくようです。流れてくる方向に目をやると、そこはたこのおくさんとたまごたちの住んでいた穴ぼこでした。
目をこらして、赤いつぶつぶをよく見てみると
「赤ちゃんよ!赤ちゃんだわ!」
あまだいのおくさんはがばとはねおきました。
「おくさん、こどもたちがうまれたのよ!」
柔らかなたまごから、赤んぼたちが次から次へとかえっているのです。
大きな水の流れにのって、たくさんの小さなたこの赤んぼたちが、海のてっぺんに向かって、力いっぱい泳いでゆきます。
そのすきとおる赤い体には、黒色の目がしっかりおさまって、小さい八本のうでは、ちかちか水をかいています。数えきれないほどの小さな赤んぼたちが、たまごから水の中へ出てくると、あたりの海の水はうっすら赤くそまったように見えます。あまだいのおくさんは、そんなうす紅色につつまれて、しばらくぼうっと見とれていました。
が、やがてしっかりした顔で、口を開いてこういいました。
「生きるのよ、ぼうやたち!
あんたたちのおかあさんは、ほんとにりっぱだったのよ!」
ぴろり、ぴろろろ、ぴろり、ら
たこの赤ちゃんたちはみな、小さなうでを休めることなく、上へ上へ登っていきます。
頭の上は、まるで夕やけのようです。