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小説・ノンフィクション部門佳作受賞作品
 ≪小説≫
北緯三十度線
永 和久(えい・かずひさ)
本名=同じ。一九五一年鹿児島県生まれ。国立都城高専建築学科を卒業。建設会社勤務、設計事務所勤務を経て建築設計事務所主宰。一級建築士。仕事の合間を縫って、生まれ故郷の奄美や沖縄にまつわる小説を創作中。宮崎県都城市在住。
 
 「やあ、蘇鉄の実が熟れている。日の丸を想わせる赤だね」
 のんびりとした背中からの声に、呆れた顔で、青年は振り返った。
 「これから闇船で密航しようという時に、校長先生。ちっとも不安じゃ無いんですか」
 浅黒い顔を、精々しかめたつもりだろうが、敬愛の籠もった眼差しは、変わらない。
 青年の名は、林昭吉といった。この春に徳之島の実業学校を卒業して、小学校教員になったばかりの十九歳だ。教師といっても無資格の彼には、代用という肩書きが付いた。
 骨太の長身に、アメリカ軍政府配給の「HBT」と呼ばれる作業服を着ているが、彼の体格にしても、この服は大きすぎた。灰色のシャツは、袖を二重に折り返して丁度の丈だ。その折り目に汗が浸みて溜まるようで、じっとりと肌合いが悪い。薄い緑のズボンも、裾がだぶついて困る。そして、何よりも始末の悪いのが、半長靴だった。どんな大男が履いていたのか、十六文以上はあるだろう。かかとを上げて踏み出すたびに、つま先が垂れて、地面を摺った。
 こうして牛を引いて歩く格好は、自分でも滑稽で、思わず苦笑いした。牛の背には、目の粗い竹かごが二つずつ、振り分けにして、結わえてあった。
 校長先生と呼ばれた男は、開襟シャツに羅紗のズボンと、小ざっぱりした身なりだ。
 「いや何も、遠足気分でいるわけじゃない。もし捕まったら、と思うだけで震えがくる。校長の職を追われ、沖縄送りだよ。軍事裁判で、重労働の刑になるという話じゃないか」
 小柄だが筋肉質の締まった体つき、盛り上がった頬骨と窪んだ眼。少し広がりすぎた額。
四十八歳という若さもあって、およそ、校長先生という雰囲気には遠い。分厚い手のひらも太い腕も、漁師にこそ相応しい。
 「それがな、昭吉。どうも不思議なんだ。怖じ気も強い癖に、ときめくような、昂ぶるような、……妙な具合だ」
 「実は、私もそうなんですよ」
 昭吉は、悪戯っぽい笑顔を返していた。
 
 アメリカ世が始まったのは、終戦の翌年、昭和二十一年二月二日のことだった。
 この日から、吐喝喇を含む奄美、沖縄の島々は、敗戦国の日本政府から切り離され、アメリカ軍政府の統治下に置かれる事になった。
 北緯三十度の海上には新しい国境線が引かれ、日本本土との交通は閉ざされた。
 許可無く渡航した者には、厳罰が科せられた。一般の島民や商人達に、渡航許可証が交付される可能性は、ほとんど無かった。
 戦争中からの乏しさに加えて、本土との交易が途絶えたことで、島々はこの上ない物不足に陥ってしまった。
 食糧や日用品が、まったく流通しないのだ。
 占領軍政が敷かれて四年目の、一九四九年(昭和二十四年)三月。昭吉は、これといった展望も無いまま、実業学校を卒業した。卒業の当日は、出身校を失う日でもあった。彼の母校となるべき「天城村立実業高等学校」は、創立からわずか二年で、あっけなくも廃校となってしまったのだ。
 「誠に残念だが、経済が立ち行かないのだ」
 と、祝辞の壇上で村長が涙ぐんで居られた。
 「二年で高等学校の免状を下さったのだから、よかったじゃないさ」
 と、誰はばかる事のない母の笑顔に、救われた気がしたが、それでも昭吉は、あまり晴れがましい顔は出来ないのだ、と思った。まわりの同級生より頭一つ飛び出す長躯を、折り曲げるように俯いたまま、校門を出た。
 「おまえは頭も力もあるのに、タマシ(他人を押し退ける狡さ)が足りないから……。これから先が心配だねえ……」
 歩きながら母は、そんなことを言ったが、少しも心配そうな顔には見えなかった。
 「でも、小学校の先生ならいいよね。お前は誰からも好かれる性質だから、良かったさ」
 高校を卒業したら、誰でも教師になれるものだと、母は信じているようだ。返す言葉が見つからず、昭吉は、面皰の浮き出た顔を少し傾けて、曖昧に笑った。
 学校から我が家まで、七キロ余りの道のりを、母の歩調にあわせて、ゆっくりと歩いた。
 
 徳之島は、奄美諸島のなかでも大島に次ぐ面積を持ち、耕作地の広さを誇っていたが、終戦の年からずっと凶作で、食糧難が続いた。品種改良もしない甘藷を、毎年同じ畑に植え付けるため、病気に弱く、害虫も付きやすい。稲の刈り入れ時期には必ず台風が襲い、なぎ倒された稲穂は、水に浸かって発芽する。三万を超す島の人口を養うだけの生産量は、とても望めないのだった。
 亜熱帯という気候のおかげで、砂糖黍だけは良く育ち、各家庭に黒砂糖の蓄えはあった。黒砂糖は、日本中のどこでも貴重品だった。鹿児島の相場は徳之島の三倍になるらしい。大阪では、更に三倍の値が付くという話だ。だがそれも、内地との取引が出来ない限りは、宝の持ち腐れというものだ。
 
 「闇船に乗る気はないか。一航海で官吏の二年分稼げるぞ」
 と、昭吉は何度も誘われた。十九歳になったばかりとは言え、人並み以上の体格は、荒ぶれた密航船の中でも通用すると、値踏みされたわけだ。あるいは、世間知らずで、ぼそっとした風采が、うまく利用するのに都合が良い、と見なされたか。
 「食えなくなったら、考えるさ」
 笑って返すばかりだったが、本当にそうなったら、どうしょうかと思う。涙に暮れる母の姿が、瞼に浮かんでくる。
 だが、そんな心配も、程なく消え去った。たいした骨折りもしないままに、昭吉は先生になった。学歴も免許もない者を、秋那小学校の校長は、満面の笑顔で迎えてくれたのだ。
 「いやあ、林君。君のような青年が本校に来てくれるとは、頼もしい限りだ」
 面接試験とは名ばかりの、簡単な問答を、さっさと切り上げると、豊末一校長は両手を差し伸べて、昭吉の手を握った。実にあっさりと決定したものだが、昭吉はとっくに理解していた。教員が足りないのだ。
 大工の手間賃が一日五十円、米一升百円という折りに、小学校教師の月給は三百三十円。占領軍の持ち込んだ、「ラッキーストライク」とかいうタバコ、一カートンに等しい。先生様、と呼ばれたって、生活の保障がなければ、やって行ける訳がない。
 「林君、大いに期待しているよ」
 と校長が、握った手に力を込めたのも、無理はなかった。
 
 秋那は、百戸に満たない小さな集落だった。徳之島の北西部を占める天城村の、さらに、西の端。東シナ海に突き出た台地の片隅に位置した。
 山から海へ向かって、うねうねと続く急峻な峡谷が、さほど広くもない台地を北と南に引き裂いていた。ざつくりと割れた深い谷底を、縫うようにして流れるのが秋那川で、河口の南側には、秋利神と呼ばれる、こぢんまりとした漁港があった。漁港を抱く馬蹄形の入り海は、そば立つような絶壁に囲まれていた。入り江の奥から南の斜面へかけて、曲がりくねった険しい坂道が繋がって行く。崖道を登り詰めたところ、海を見下ろす赤土の台地が、昭吉の生まれ育った秋那だった。
 山裾へ向けて広がる砂糖黍畑の中に、点々と茅葺きの尖り屋根が見える。家々の廻りには、榕樹が枝を大きく広げて立ち並び、こんもりした防風林となっていた。木立の外側に、珊瑚石を積み重ねた石垣が巡らされている。
 文明の流れというものに、忘れ去られたかのような、ひっそりとした佇まいだった。
 
 昭吉は、朝礼から下校まで、ほとんど全部の時間を子供たちと一緒に過ごした。昼休みにも目一杯、ボールや縄跳びで遊ぶ。夢中になって遊んだ後は、授業も真剣に聞いてくれる。――子供たちの顔は明るかった。勉強することが楽しみのようだ。いや、学校に来ることが嬉しくてならないのだ。
 家に帰れば、それぞれに仕事が待っている。低学年の子は子守。三、四年生は水汲み。誰もが、年齢に見合った役割を果たすのだ。五、六年生になれば、牛の世話や畑仕事などに、大人と同じ働きを期待された。それでも、学校にいる間だけは自由に遊べるのだから、これほど居心地の良い場所は無いわけだ。
 だが、その楽しさでいっぱいの学校生活も、突然の災難で中断されることになった。六月に入って、甘藷の植え付けや黍畑の草取りも、あらかた済んだ、と思える頃。どの家でも一息ついただろうと、遠足の計画を立てた矢先を、台風に見舞われたのだ。
 暴風は、二日もの間、どしゃ降りの雨を追い回して、のたうち、猛り狂った。茅葺きの屋根は引きはがされ、あばら骨のような梁や垂木が剥き出しになった。なぎ倒された砂糖黍が、あちこちで道を塞ぎ、それへ、ちぎれたバナナの葉や、榕樹の枝が折り重なって、吹き溜まりを作っていた。赤く濁った泥水が、そこかしこの吹き溜まりで滞留し、汚物の匂いが鼻を衝いた。
 後になって知ったが、軍政府はこの台風を、「デラ」と呼んだらしい。アメリカでは台風にも名前を付けるのかと、呆れた。それが、女性の名だと聞いて、腹立たしくなった。
 ――彼女は、秋那の人々にとって最も大切なものを、奪い去った――この台風で、小学校の校舎が倒壊してしまったのだ。古い兵舎を流用したその木造校舎は、集落にとっては、唯一の文化施設だった。
残った校舎といえば、茅葺きの掘っ立て小屋で、壁も床も無い、牛小屋同然のものだ。それさえも、屋根が吹き飛ばされて、今は、丸太の骨組みだけになっていた。
 昭吉が抱く悲しみ以上に、子供たちの失望は大きいに違いない。その親にとっては、なおさらの事だろう。
 「貧しい島の暮らしで、子供に財産を残す余裕は無い。だからこそ、せめて義務教育だけは、まともに受けさせたい」
 ――ぎりぎりを生きる親たちの、切羽詰まった思いだった。そのためには先ず、学校を再建する必要がある。校舎新築は、差し迫った問題となった。
 村役場に金がないことは、分かっている。軍政府の援助を頼むとすれば、その手続きだけで、途方もない日数がかかってしまう。
 秋那じゅうの大人が集まって、協議が始まった。話し合いの結末は、昭吉が見当をつけていた通りのものだった。
 「みんなで供出し合って、自分たちの手で、校舎を建ててしまおう」
 と、決まったのだ。
 だが、そこから先に障害が待っていた。建築資材が手に入らないのだ。木材をはじめ、金物や工具が、全く不足している。島内のどこを捜しても、新しい釘一本も出てこない、という有様だった。
 「それならば、いっそのこと、闇船を出したらどうだ。鹿児島へ行けば、何でも手に入るさ。秋那中の砂糖がさばけるぞ」
 と、誰かが言った。その通りだ、と他の誰かが応じた。
 だが、密航は危険な賭けだ。発覚すれば、どんな事情が有ろうと、重い罰を免れない。いざとなると誰もが後込みしてしまう。
 そこへ、「私が行きましょう」と、名乗り出たのが校長だった。
 「皆さんに甘えてばかりで、自分が何もしないでは、申し訳が立たない」
 という次第だ。
 「校長先生お一人に難儀を掛けるのは、どんなものか。誰か、お供をする者はないか」
 となって、これは昭吉が志願した。
 
 闇船の計画は、外部に漏れることの無いよう慎重に進められた。
 ちょうど夏休みに入ったので、掘っ立て小屋の校舎が修繕されて、そこがいつしか集会場となり、荷物をまとめる場所ともなった。
 各家庭から持ち寄った黒糖が、百斤(六十キロ)入りの樽にして、三十樽。航海中の食糧には、レーションと呼ばれる、米軍の野戦用携帯食が準備された。蝋で塗り固めた、完全防水の紙箱に、乾パン、チーズ、牛肉の缶詰が入って、他にチョコレートや粉末のコーヒー、タバコもあるという、至れり尽くせりの特大弁当だった。どんなコネを使ったのか、米ドルと日本円も手に入れた。それほど多い金額ではないが、いざという時には一番役に立つはずだ。
 集まった品物は、何日もかかって少しずつ、秋利神の漁港に近い、秋山輝男の家へと運び込まれた。今回の船頭を自分から買って出たのが、輝男だった。彼はまた、船舶燃料の調達にも力を尽くして、海人の面目を立てた。船の燃料となる重油は、軍政府からの完全な割り当て配給となっていて、一般人にはなかなか入手できない。しかしこれも、沖縄から与論島を結ぶ闇の手づるが有るのだという。
 輝男は、昭吉より三つ年上の二十二歳だ。大工を本業にしているのだが、エンジン付きの刳り船を持つ漁師でもあった。時には、平土野港の貨物船に雇われて、機関員として乗り込むこともあるようだ。吐喝喇の野生牛を十数頭も沖縄に運んだ、という話を聞いたことがある。戦争中は、海軍飛行練習生を志願して、島を出た。薩摩半島の海岸で、水上特攻艇の隊員として、出撃を待つ身だったらしい。だが、その事については、本人は何も語らなかった。
 密航に使う漁船を手配したのも、輝男だ。平土野漁協に掛け合って、十五トン、二十馬力という、比較的新しい型の船を借り受けるのに成功したのだった。
 
 昭吉と校長は、秋利神を目指していた。いよいよ出港の日が来たのだ。夏休みも半分を過ぎて、もう後がなかった。
 昭吉は牛の鼻綱を手に、校長の先を歩いた。絶えず辺りを見回し、足許に気を配る。いつどこで、ハブに出くわすか知れない。僅か四キロばかりを進むのに、小半日もかかっていた。起伏の激しい、難儀な道だった。ばさばさと風に揺れる砂糖黍畑の中を横切って、薄暗い蘇鉄の密林を抜ける。
 谷を見下ろす崖の縁にさしかかった。
 「輝男兄の家ですよ。もう少しですね」
 昭吉が、左手で、斜め下の方を指さした。入り江が見えていた。その手前、石垣の中に沈み込むようにして、茅葺きの屋根があった。
 じりじりと首筋を焼き続けた日射しも、坂道を下りきった頃には、だいぶ緩んでいた。
 
 機織りの音が石垣の外まで聞こえていた。
 「ほう、働き者の嫁さんが居るようだな」
校長が目を細めた。
 「妹ですよ。美里といって、私と同級生です」
 「かわいい娘だろうね。昭吉の顔にそう書いてある。……牛を引く若者と、機織りの娘か。これは、なかなかの取り合わせだ。ハハハ」
 笑い声に気付いたか、輝男が、石垣の外へ飛び出てきた。裸の上半身が、褐色にかがやいて見えた。背丈も横幅も昭吉ほどは無いが、厚い胸と締まった腰に、逞しさがただよう。顔全体に刻まれた痘痕が、快活そうな容貌に深みと翳りを添えて、「ただ者ではないぞ」という思いを抱かせた。
 「このたびは、本当にご苦労様です」
 校長に向かって深く頭を下げたあと、
 「これを積み込んだら、準備完了だ」
 と、牛の荷を指して、昭吉を促した。機織りの音が、いつしか止んでいた。
 
 陽が翳って、風が涼しくなった。
 「美里が送り祝いをしてくれるんだと。いま支度してるよ。きっと、昭吉のためだな」
 出航準備を終えた船の艫に腰掛けて、輝男はタバコを吹かしながら、そう言った。美里と聞いて、昭吉は少しうろたえてしまった。顔がわずかに火照って来たような気がして、うつむき加減になる。
 「もじもじしていると、嫌われるぞ」
 覗き込むようにして、輝男が笑った。
 ――昭吉と美里は、小学校時代をずっと同じ教室で過ごした。小柄であまり目立つ方ではなかったが、時々見せる、はにかんだような笑顔は愛らしかった。最近は、兄の輝男と一緒に海へ出ることもあるらしい。漁のあった日は、大きな篭一杯の魚を頭に乗せて、秋那の集落を売り歩いた。明るい声で石垣の間を縫って行く美里の姿が、最近は何だか眩しく思えていた。――
 「尊可那志、どうか守て給れ、とうと」
 美里が水平線に向かって手を合わせた。詠うような調子で、海の神霊へ祈りを捧げて、送り祝いが始まった。甲板と呼べるものかどうか、たいして広くない床の上だ。
 車座になった三人の前に、心尽くしの料理が並べられた。豚肉の味噌漬けや小魚の揚げ物が、芭蕉の葉に盛られている。
 「船を浮かべての酒盛りとは、この上もない風流だね。ハハハ」
 校長が陽気に笑った。
 「ご馳走は有りませんけど、さあどうぞ」
 明るい声だった。沈み込む気持ちを、無理に駆り立てているようにも見えた。
 「女神だ」
 と昭吉は思った。
 島の男たちは姉や妹を「ウナイ」と呼んだ。男達が海に乗り出すときは、その姉妹が女神となって、船を守る。旅立ちの前に女神と共に祈り、祝うことで、航海の安全が約束されるのだった。いま、美里は女神になった。その手から注がれた泡盛を口にして、昭吉は女神の守護の下にある安らぎを、感じていた。
 けたたましい焼き玉エンジンの音を響かせて、日暮れの海へ乗り出してから、随分と長い時間が過ぎたような気がする。三人を乗せた船は、中空に浮かぶ月に向かって真っ直ぐに進んでいた。満月に近い輝きのおかげで、船の上も廻りの海も不思議なくらい明るい。波のうねりは、橙色の光を照り返して延々と続いて行く。遙か向こうの水平線も、はっきりと分かる。
 昭吉は舳先に座って、一瞬たりとも気を抜かないようにと、周囲の海に眼を凝らし続けていた。エンジンの音が大きすぎるのではないかと、一人で気を揉んだりもした。波が静かなせいか、それとも緊張のためか、心配していた船酔いは無い。
 「たった十五トンの木造船だからな。鹿児島まで五日はかかるさ」
 と輝男は言っていた。途中には七島灘と呼ぶ危険な海域も有るらしい。……これからの航海を思いながら、昭吉は、茫々と広がる海を見つめていた。……
 水平線に、うっすらと島影が浮かび出た。わずかずつだが、影はだんだんと、濃くなってくるようだ。ほのかに白い月明かりの空に、黒い山の輪郭を見せ始めた。加計呂麻島に違いない、と、操舵室を振り向いたところへ、輝男から声が掛かった。
 「この向こうが大島だ。船の進む先をしっかり見張るんだぞ。白い波が立ったら合図しろ。この辺りは暗礁が多いんだ」
 加計呂麻を大きく西に回り込んで、奄美大島の灯台が見える海上で船を止めた。
 「校長先生は船倉に入って休んで下さい。夜が明けるまで、ここで漁りをします」
 輝男はそう言って、釣り道具を取り出した。月はすでに、水平線近くまで傾いていた。船の揺れが小刻みになった。波の動きがそのまま体に伝わって来る。
 「……魚は釣れなくてもいいんだ。それより、山立てを教えてやる。」
 と、昭吉の肩越しに大島の方を指さした。
 「灯台の真後ろに、突き出た山が見えるだろ。この船と、灯台と、向こうの山は一直線になっている訳だ。灯台を正面に見て、右に首を回すと加計呂麻がある。一番右端にある尖り山が目印だ。山の位置をしっかり覚えろよ。そして灯台を見る。時計の十二時が灯台だったら、あっちの尖り山は何時だ?」
 「ああ、……大体、二時と三時の間ですか」
 「そうだ、二時三十分でいい。見かけによらず、賢いようだな。船が動くと、二つの山と灯台の位置が変わる。それを見て自分の居る大体の場所を知るんだ。だが今のは、本式の方法じゃ無い。昼間なら良かったんだがな。そのうち、本当の山立てを教えてやるさ」
 輝男が昭吉の肩をぽんと叩いた。
 「俺はしばらく仮眠を取る。月が見え無くなるか、山が大きく動いた時は起こしてくれ」
 そのまま、甲板の上にごろんと横になった。
 
 東の空が明るくなってきた。影絵のように見えていた廻りの景色も、はっきりして来た。灯台の向こうには、幾つもの山が重なって、奥へ奥へと続いていた。連山の左肩、少し窪んだ箇所に一点の閃光が射した。光はしだいに幅を広げ、朱色の帯となって山肌を駆け上った。窪みから頂上まで、山の片面は鮮やかな朱色に染められた。朱色と言うより赤に近い。蘇鉄の赤い実の色だ。
 しばらくの間、昭吉は、日の出の景色に見とれていた。……ふと思い出して、西の空を振り返った。月は消えていた。
 七輪に火を入れて、薬缶を乗せた。食事の支度を整えてから、二人を起こせばよい。朝の光が船倉の中へ射し込んで行った。
 
 コーヒーと乾パンだけの朝食を慌ただしく済ませ、吐喝喇めざして船を出した。針路は北北西。大島の灯台は船の遙か後ろ、六時の方向へと遠ざかって行った。
 「どうだ、舵を握ってみるか。そんなに難しいもんじゃない。すぐに慣れるさ」
 操舵室の中へ昭吉が体を入れ替えた。一人で満杯になる小さな空間だ。輝男は昭吉の脇の下から頭を差し出す格好になった。実際、輝男の指図通りに舵を支えているだけで、船は調子良く進んで行く。
 大島を離れて半日くらいは凪の海で、快適な船旅だった。昭吉は昼食のレーションを全部平らげて、甲板の掃除をする余裕もあった。校長はと言えば、一張羅をHBTに着替えて、クバ笠を被り、タバコを吹かしながら、
 「これで一人前の漁師に見えるだろう」
 と屈託がない。
 「ええ、もう立派な船頭さんですよ」
 輝男も笑顔で受け応えている。
 だが、太陽が西に傾き始め、海面高く突き出た大きな岩山を過ぎた辺りから、海の表情が変わって行った。
 強い風が吹いて来た。波がだんだんと荒くなって、夕方近くには大時化となった。小山のようなうねりが次々と襲ってくる。そのたびに船は、五メートル以上もの落差を上下する。船足もみるみる落ちて行った。
 昭吉には、昼を過ぎた頃からずっと、嫌な予感が付きまとっていた。咽の奥から酸っぱさが込み上げるのを、何度か飲み込んだ。……船酔いの兆しだった。目を閉じて、やり過ごそうとしても、逆に意識は船酔いの方に引きずられてしまう。どうにも堪えきれない極限まで来た。船縁に身を乗り出して、胃の中の物をすべて吐いた。波のしぶきに上半身を激しく叩かれながら、黄色い胃液を吐き、赤黒い血の固まりのような物まで吐いた。
 しばらくは校長が背中をさすったりして、介抱してくれたが、校長も、人ごとでは無くなったらしい。昭吉とは反対側の船板にもたれて、青白い顔でぐったりしている。
 早く船を下りて陸地に体を横たえたい、と昭吉は願った。だが、広い海のただ中では、どうにもならない。地獄の時が過ぎ去るのを、じっと耐えて待つしかないのだ。
 それにしても船足がのろい。時間の経つのも、泣きたいくらい遅く感じられる。何か他のことで気を紛らそうと思っても、その何かを考える気力も失せてしまっている。
 校長が這うようにして水筒を持ってきた。
 「宝島が見えているぞ。もう、すぐそこだ。今夜はそこに泊まるらしい」
 陸地を目の前にした安心と、水を一口飲んだことで、いくらか気力が湧いてきた。
 日暮れ前に、吐喝喇列島の南端にあたる宝島に辿り着き、船の機関を止めた。珊瑚礁に囲まれた内海は、別世界のような静かさだ。エンジンの音が止み、船の揺れが小さくなっただけで、嘘のように気分が良くなった。白湯を少し飲んで、とにかく眠る事にした。
 
 明くる朝、まだ薄暗いうちに錨を上げた。船から眺める宝島は、愛らしいくらいの小島だった。内海に面した奥行きの浅い砂浜には、二艘の刳り船が舳先をこちらへ向けて横たわっている。どこか秋利神の風景に似ていた。環礁を挟んで、すぐ隣に小宝島が見える。海に浮かんだ小さな森のようだ、と思った。内海を出る間際、「なにとぞ、穏やかな日よりで有りますように」と、昭吉は祈った。自分でも、無駄な事だとは思っていた。
 珊瑚の環礁を出たとたんに、さっそく度肝を抜かれることになった。なんと、海の水が川のような音を立てて流れているのだ。信じられない光景だった。
 「ここは黒潮本流の真っ只中だからな。潮の流れは時速二十キロもあるという話だよ」
 そう言った校長の顔も少し強ばっていた。
 「この潮と北の風がぶつかった時に、大きな三角波が起こるんだ。魔の七島灘が本性を現す訳さ。あれが見えるか、小宝島の北側だ」
 操舵室から、良く通る輝男の声がした。斜め右後ろ、白波の立つ海面に、大きく傾いた難破船があった。浅瀬に乗り上げ、後半部を水没させたまま、打ち捨てられていた。
 船の進む先に、宝島を発つ時からずっと、島の姿が見えていた。それほどの距離ではなさそうだ。あそこまでなら、楽なものだ。嬉しい答えを期待して、操舵室に近寄った。その気持ちを察した様子で、輝男が首を振る。
 「あれは悪石島で、その向こうに見えるのが諏訪之瀬島だ。もう一つ先の中之島まで行く。ちょっと遠いが、なんとか辛抱してくれ」
 がなるような大声が返って来た。昭吉は空を見上げて溜め息をついた。またも、いやな予感が頭をよぎった。
 高いうねりは、相変わらず続いている。波はまるで巨大な獣のように、不気味な黒い光を放ちながら、次々と襲いかかってくる。腹の底に、鬱陶しさが浸み拡がって行く。咽の奥から、むかむかと込み上げて来た。げんなりしながら、船の外に体を乗り出す。胃の中にある全ての物を吐き出した。吐き出す物がなくなると、胃から咽にかけて絞り上げるよな痙攣が続いて起こった。空の嘔吐感だけが、腹の底からこみ上げてくる。
 「無理しても水だけは飲まないと、脱水状態になって弱るばかりだぞ」
 校長が水筒を持たせてくれたが、もはや水さえも受け付けない。胃の中に注ぎ込んでは嘔吐することの、繰り返しだった。頭がぼんやりして、目もかすんで来た。
 「このまま死んでしまうかも知れない」
 と、ふと思った。
 いつの間にか眠ってしまったようだ。どれくらいの時間が過ぎたのか。目覚めた時、目の前に大きな島が迫っていた。島に近付いているのだ、と喜んだ。だが、船はその横を通り過ぎるだけだった。
 ……船の揺れから早く解放されたい。自分一人だけでもいい、今すぐこの島に降ろして欲しい。体を捻るようにして操舵室を見た。輝男を恨んでも仕方ない事だ。それは分かっている。でも、何とかして欲しい。……
 輝男は、手拭いを鉢巻きにして、がっしりと舵を握って立っていた。七島灘の魔物と、必死に闘っているのだ。自分の不甲斐なさが、なんとも忌々しい。
 「中之島が見えたぞ。もう少しの辛抱だ」
 突然、輝男が声を張り上げた。高い山が見えた。頂には厚い雲が笠のようにかかっていた。山の裾野は深い緑に輝いている。船はずんずん近付いて行く。海岸線がくっきりとしてきた。港が見える。思わず昭吉は手を振った。
 
 中之島の港には桟橋が有った。宝島では突堤も無かったが、ここなら接岸してすぐに陸地を踏む事ができるのだ。それほど広くはないが、昭吉たちの船を着けるには充分過ぎるほどだ。桟橋のなもやるべく端の方に、遠慮がちに接岸して舫い綱を結んだ。昭吉は転げるように船を下りた。よろよろと桟橋を渡り、土の上であるのを確かめると、油の染みた場所も構わずに仰向けになった。大きく伸びをした。何とも幸せな気分だった。
 「やっと人心地がついたようだな、昭吉」
 輝男が砂糖樽を担いで下りてきた。
 「地面に立っているのが、こんなに有り難いものとはね。初めて知ったよ」
 校長も布袋を抱えていた。
 「親切な旅館が有るんです。すぐそこです」
 輝男が先に立って歩き出した。
 畳の上に横たわっても、昭吉はまだ、体が揺れるような目眩に悩まされていた。気怠さが抜けきれない。寝返りを繰り返しているところへ、校長と輝男が入ってきた。
 「気分はどうだ。明日一杯ここに留まる事にしたから、ゆっくり休むといい」
 診察するように校長が顔を覗いて来た。
 「私がだらしないばかりに、迷惑を掛けてしまって、すみません」
 「そういう訳じゃないさ。ここは三十度線のすぐ手前なんだ。向こうの口之島には、軍の警備艇が居るかも知れんからな。しばらく様子を見る事にしたんだ。情報収集という奴さ」
 輝男の口調は優しかった。
 「すぐ近くに温泉が有るそうだ。ひと風呂浴びたいね。体がむずむずして仕方が無い」
 校長が体をよじって、おどけてみせた。
 点々と、疎らになった星空の下を、船はひた走っている。夜が明けきってしまうまでには、口之島を過ぎていなければならない。いよいよ、北緯三十度線を突破するのだ。
 昭吉の体は、もうすっかり回復していた。きのうは、賛沢な一日を過ごさせて貰った。充分に朝寝をした後、朝風呂を決め込んだ。のんびりと湯に浸かって、またしばらく寝る。遅めの昼食の後、温泉に入って、昼寝した。
 もともと体力には自信があった。これだけ休養して、元気にならない訳がない。今は、船酔いの兆しも全く感じない。
 「船に慣れて来たのだ。もう大丈夫だ」
 と、昭吉は自分に言い聞かせていた。
 船足が次第に緩み、口之島北端の岬を過ぎたところで止まった。岬には牛の群が見える。
 「ここが三十度線の真上だ」
 誰にともなく輝男が言った。
 「マグロの曳き縄を流すぞ。操業中だと見せかけて、屋久島に近付いて行くんだ」
 曳き縄の道具は昨日のうちに整えてあった。小指くらいの細い麻縄に、さらに細い麻紐が二本垂れている。頑丈そうな釣り針だ。生干しのイカを付けて、仕掛けを流して行く。昭吉が操舵室に入った。校長は双眼鏡を手に見張りに立った。予定通りの行動だった。北緯三十度の線上を、ゆるやかに蛇行しながら東へ進む。口之島と屋久島の中間点辺りで、舳先を北へ向けた。
 「船が見えるぞ。こっちに向かっている」
 校長が双眼鏡を覗きながら東を指さした。
 「日の丸の旗だ。巡視船かも知れん」
 「どうしますか? 口之島へ逃げますか」
 昭吉は舵を握りしめた。
 「いや駄目だ。今逃げて見ろ、怪しまれるだけだ。ここへは二度と近寄れ無くなるぞ」
 輝男は胡座をくんで、落ち着き払っていた。
 「とにかく慌てた様子を見せないことだ」
 校長がタバコに火を付けた。船はずんずんと大きくなる。一直線にこっちへ向かっているのだ。貨物船とは違う、真っ白い船体だ。巡視船に間違いないだろう。
 ぐらっ、と足元が揺れた。
 「かかったぞ」輝男が叫んだ。
 急いで船を止めた。エンジンは動いたままだ。
 「これで助かるかも知れんさ」
 輝男が立ち上がって、縄を手繰り始めた。麻縄が延びていった先の百メートルばかり向こうで水飛沫が上がった。
 「マグロだぞ」
 輝男が船尾に体を移して足を踏ん張った。右に左に、マグロの素早い動きに合わせて、麻縄の先が走り回る。それにつれて輝男も船の中を移動する。校長はその後をついて、足元を片付けたり、縄をまとめたりと、忙しく働いている。昭吉も、いつでも発進出来るようにと、舵に両手をかけて緊張していた。
 白い船はもうすぐそこまで来ている。鹿児島海上保安部という文字が目に飛び込んできた。巡視船に間違いなかった。
 どうやら、こちらの様子を見て、接舷をためらっているようだ。船長らしい帽子の男が船首に立って、上から見守る格好になった。
 根比べのような応酬が続き、やがて、魚の動きが鈍くなって、だんだん近寄ってきた。船縁まで手繰り寄せ、鉤を打ち込む。昭吉も加わって三人懸かりで引き上げた。一メートル五十以上は有るだろう。
 「やっつけたな。立派なマグロじゃないか」
 頭の上から声がかかった。上目使いに見上げると、幾つもの笑顔が並んでいた。だが、船長らしい男は表情を崩していない。
 巡視船は接舷の操作を始めた。こすれ合うくらいに近付くと、手網を差し出して来た。昭吉が想像していた通りの情景だった。船の大きさの違いで、飛び移る事が出来ない場合に手網が使われると聞いた。船籍証明や海員手帳を入れて、やりとりするのだという。輝男が麻縄で手早くマグロの尾を縛り、縄の端を手網の柄に結わえ付けた。巡視船の上で、どよめきが起こった。それはすぐに大きな笑い声に変わった。乗組員の何人かが大騒ぎでマグロの引き上げに取りかかる。しばらくするとまた、手網が差し出された。サイダーのビンが三本入っていた。もうすっかり操業中の漁船だと思い込んだようだ。船長らしい男の顔にも笑いが洩れていた。
 「ただで貰う訳にはいかんからな」
 輝男に向かって手を上げると、くるりと背を向けた。
 それを合図に、巡視船は静かに離れて行った。
 「……とにかく助かった……」
 遠ざかって行く船を目で追いながら、輝男がかすれた声で咳いた。昭吉も大きく肩で息をした。校長はその場に座り込み、タバコを取り出した。
 緊張が無くなると、急に腹が減ってきた。レーションを開けて、中身を一つずつ味わいながら食べる。今までにない旨さだった。
 「さあ、いよいよ日本本土突入だぞ」
 輝男が勢いをつけて立ち上がった。
 
 屋久島を右手に見ながら、一目散に船を走らせる。ここから先は逃げ場が無い。エンジンの能力いっぱい、なりふり構わぬ全速力だ。潮の流れが緩いことだけが、救いだった。七島灘とはまったく違う、穏やかな海だ。
 何艘かの漁船とすれ違ったが、何事もなく屋久島と口永良部の間を走り抜けた。この次に姿を現すのが硫黄島だと、輝男は言った。
 
 硫黄島の港は、なだらかな海岸線の窪みにあった。まだ陽は高かったが、輝男は突堤の奥まで船を乗り入れた。あまりにも大胆過ぎると思ったが、ここまで来れば、逃げ腰では居られない。当たって砕けるしかないのだ。
 大小の漁船が並んでいる真ん中辺りに舳先を進めて、船を繋いだ。
 「大きな鰹船に的を絞って、掛け合うんだ。とにかく時間が無い。手分けしよう」
 輝男のてきぱきした段取りに従って、急かされるように船を下りた。地元の漁船を雇って、鹿児島までを往復するつもりである。
 硫黄島の漁師達は、思いのほか親切だった。胡散臭いはずの三人を、古くからの仲間のように扱ってくれた。事情を話すと深く同情した様子で、こちらの申し出にも、二つ返事で応じてくれた。
 それでも、出港の手はずを整えるまでに、半日もかかった。水揚げを終えて帰ったばかりの船だ。甲板をきれいに洗い流し、燃料を補給する。船長以下が顔をそろえて硫黄島を発ったのは、夜更けに近かった。
 船長は三十歳くらいだろうか。荒々しい鰹漁船を指揮するだけあって、さすがに威勢がいい。顎の張った顔つきも頼もしく思えた。
 「錦江湾なら庭のようなもん御座すで、心配は入り申はん。夜が明くっ前に着き申んそ」
 と、野太い声で言った。
 
 船長に伴われ、さりげなく装って、三人は鹿児島港に上陸した。
 市街地へ出ると、まず闇市に足を向けた。鹿児島で取り引きされている物資の、相場を知る必要があった。
 市場と言っても、道端の露店に過ぎない。砂埃や火山灰が舞い上がる吹き曝しに木箱を置いて、品物を並べただけのものだった。間口を広く取って、麦や大豆、ジャガイモなどを積み上げた小太りの中年男。泥の付いた芋や人参、トウモロコシを並べた農婦。木箱もなく地面の上に古新聞を敷いて、中古のアルミ食器や水筒を前に、放心したように座っている痩せ細った少女の姿もあった。食糧を求める男や、衣服を売る女。そこは、様々な人間の営みで、ごった返していた。
 船長のつてを辿って、半日掛かりで市内を歩き回った後、ようやく、取引に応じてくれる相手を訪ね当てることが出来た。事情を手短かに話し、必要な品物の詳細をまとめた書き付けを手渡して、二日後に硫黄島で取り引きずる約束を交わすと、その日のうちに硫黄島へ取って返した。
 
 取引の相手は、約束通り二日目の早朝にやって来た。三十トンほどの木造船に、五人の男が乗っていた。頭格の男は、鹿児島で会った男とは違った。四十がらみで、日本軍の将校服姿に軍刀を下げている。顎の突き出た細長い顔に鼻髭を生やして、鷹揚な仕草で船を下りてきた。
 積み荷を確認すると早速商談に入った。ところが、値段がなかなか折り合わない。黒砂糖は鹿児島の時価で取り引き出来るつもりだったが、向こうは半分の値をつけた。その上、相手方の品物は闇市で調べた相場の倍になっている。どうやら、こっちの足許を見ているようだ。密航という弱みに付け込む考えだろう。
 真夏の太陽が照りつける桟橋で、昼前まで、あれこれと交渉したが結局駄目だった。
 とうとう将校服の男は、
 「こっちの値で不足を言うとなら、引き返すしか無か。相手は幾らでも居っとじゃ」
 と、開き直る始末だった。
 「俺供が引き上げた後、すぐに巡視船が来いかも知れんど。まあ、精々気を付けやんせ」
 と、これは「その筋に密告するぞ」という脅しに違いなかった。
 校長が穏やかな声で切り出した。
 「このまま帰ったんじゃあ、あんたらも無駄骨というもんだ。燃料代もかかったろう。どうだい、こっちで酒の支度をしようじゃないか。一杯やりながら話し合おう」
 「そげんな風に言うて呉いやれば、話次第で、俺供も考えん事も無かとよ」
 将校服は輝男と昭吉を睨みながら、部下を促して船に引き揚げていった。
 「腹立たしい気持ちはあるが、今はとにかく、取引を成功させることだ」
 校長が独り言のように呻いた。
 「分かっています。諦めませんよ」
 昭吉が頷いた。輝男も一緒に頷いていた。
 「そいなら私家の座敷を使うて給んせ。焼酎も有い申んど。魚も拵え申そ」
 鹿児島を案内してくれた船長だった。その好意に甘える事にして、さっそく支度に取りかかった。昭吉が野菜の仕入れに駆け回り、輝男は魚を捌くのを手伝う。
 徳之島では考えられないほどの豪華な膳を取りそろえると、五人の男達を案内した。
 酒を勧めながら、校長は島の現実を分かって貰おうと、切々と訴える。一方、昭吉も輝男も、愛想笑いを作って接待に努めた。
 「黒砂糖は半分の値段でも良い事にしよう。だから、そっちの品物は鹿児島の相場と同じにして欲しい」
 校長が大幅に妥協して頼むのだが、
 「気に入らんとなら、引き返すまでの事よ」
 と、高飛車な態度を崩さない。それどころか、酔いが回って来ると、将校服は急に威圧的な態度になった。
 「島人が、議を言うな」
 と、校長の言葉には耳を貸そうともしない。恐らくは、散々飲み食いした揚げ句に、自分たちに都合のいい値段で押し切ってしまうつもりだろう。そのための軍刀だったのだ。
 「これ以上いくら交渉しても無駄でしょう。向こうの言い値で手を打つしかないのでは」
 昭吉が校長の耳元で囁いた。と、突然、
 「座興に私の踊りをご覧にいれよう」
 校長はそう言いながら、床の間に飾ってあった太鼓と枹を取って、輝男に手渡した。
 「沖縄民謡で、てんさぐの花、という曲だ」
 校長が合図を送ると、輝男は心得たように、伸びやかな調子で歌いながら、太鼓を打ち鳴らした。それに合わせて、校長が舞う。ひどくゆったりとした動きだが、どこか力強い、そして流れるような身のこなしだった。旋回しながら足を蹴り上げ、踏み下ろす。手のひらを振りかぶるように掲げたかと思うと、さっと横に払う。その手の動きは、刀のように鋭く感じられた。まるで、姿のない敵と素手で格闘するような身体の動きだった。
 穏やかに、そして勇壮に舞い終わると、
 「せいっ!」
 鋭い気合いを込めて畳を蹴った。真っ直ぐ上に飛び、頭上高く突き上げた右足で天井板を蹴破った。板切れが散り、黒い煤の固まりが将校服の膳にばさばさと落ちた。
 「琉球の唐手かっ! 島人の小技が薩摩隼人に通用するもんか!」
 将校服は軍刀を掴んで立ち上がった。
 「あんたは本物の薩摩隼人じゃないね。弱い者をいじめる事しか出来ない、芋侍さ」
 校長は物静かに言って、将校服の前に一歩進み、畳の上に腰を下ろした。
 「議を言うかっ」
 将校服の顔色が変わった。刀の柄に手をかけた。が、ふっと気の抜けたような表情になって、その場に座りこんだ。
 「……お前様の言う通りかも知れ申はん。俺供はお前様達が妬ましかったとです。子供たちのために必死になれることが、羨ましくて悋気が湧いたとです。俺供の息子も生きていれば、小学六年に成い申す」
 将校服の目に涙が光った。校長が、にじり寄った。顔をくしゃくしゃにして、将校服の手を握った。
 
 陽のあるうちにと、大急ぎで荷物を積み替えた。昭吉は急かされる思いで、船のエンジンに点火する。将校服や船長たちが見送る中を、挨拶もそこそこに桟橋を離れた。
 夕焼けの海を南へと向かう船の上で、昭吉は成功の喜びを噛みしめていた。校長の顔にも喜びの色が溢れている。輝男は口笛を吹きながら舵を握っていた。誰もが上機嫌だった。
 気分のいい空気を乗せて、船はひた走る。夜半に屋久島を通過した。なおも南下する。
 帰りの航海は順調だった。七島灘の荒波に揉まれはしたが、船酔いする事もなく、吐喝喇列島の景観を楽しんだ。
 「行きより、帰り道の方が近い」と言うのは本当だな、と昭吉は妙に感心した。
 島伝いに船を進めて行って、三日目には大島海峡を走り抜け、古仁屋の港に停泊して、美里に電報を打った。何事も無ければ、明日の昼頃には帰り着ける。
 「アス ハマオリ ウテンケッコウ」
 昭吉は、電報の文を頭の中で繰り返しながら、眠りについた。
 
 馴染みの顔が秋利神の海岸に揃っていた。秋那集落のほとんど全員だろう。昭吉の教え子たちが波打ち際で手を振った。あちらこちらで歓声が上がっていた。砂浜に面したアダンの木陰には、赤ん坊を抱いた女や老人たちが車座になって、弁当を広げている。年寄りの間では早くも、自家製の泡盛が酌み交わされているようだ。校長がそそくさと船を下りて、車座の仲間に加わって行った。
 男達が次々と海に飛び込んで来て荷揚げを始めた。胸まで海水に浸かりながら、それでも喜びに満ちた顔で、積み荷を担いで行く。昭吉と輝男は、船の上から男達の肩に荷物を乗せる作業に追われていた。
 「浜降りとは、上手い事を考えたものですね」
 仕事を続けながら昭吉が言った。
 「そうだな、年寄り達の知恵には恐れ入る」
 「浜降り」は、島の年中行事だった。旧暦七月の最も暑い時期に一日だけ仕事を休み、集落の全員が浜辺に集まって、歌や踊りで気慰みをするのだ。子供達にとっても思い切り海で遊べる楽しい日だった。今日の場合は、闇船の積み荷を秋那まで分担して運ぶために、浜降りを利用したのだった。集落の人間が一斉に海岸へ移動しても、年中行事とあれば、誰にも咎められる心配はない。
 家族揃って海へ来た子供達は、もうそれだけで嬉しくて仕方がないと見える。潮溜まりで浴びたり、小魚を追い回したりと騒がしい。五、六年生ともなれば、海の深みにせり出した岩山の上から、真っ逆さまに飛び込んで、互いの勇気を競っている。高さ十メートルは有るだろう。海から切り立つ絶壁だった。
 突然、「アメリカの船だ!」と子供の声が飛び込んで来た。振り向きざま、手をかざして沖を見つめる。
 「LSTだな」
 輝男が言った。大きく角張った灰色の船体は、一目で識別できた。前後して二隻の警備艇の姿も見える。
 隊列を組んでゆっくりと東へ向かっている。一隻の警備艇が列を離れて、船首をこちらへ向けた。真っ直ぐに全速力で来て、海岸の様子が確認出来る位の距離まで近付くと速度を落とした。二人の水兵が銃を構えている。闇船の廻りに緊張が拡がって行く。
 「積み荷が見つかったら、全ては水の泡だ」
 警備艇は、ずんずんと進んで来る。もうおしまいだ、と昭吉が諦めかけたその時、
 「見ろっ!あそこだ!あの岩の上」
 うわずった声で輝男が指さす。
 「美里だ!」昭吉の声も叫びに近かった。さっきまで子供達がいた岩山の上に、美里が長い髪を風になびかせて立っている。海に向けてそそり立つような断崖の頂だ。
 だが、何という格好なんだ。膝下までの短いズボンを履いただけで、上半身は裸だ。裸の胸を晒して、警備艇の方を向いている。丸い乳房が微かに揺れた。思わず昭吉は視線を逸らした。
 警備艇の上ではどよめきが起こり、口笛が飛び交っていた。船の動きが止まった。
 昭吉は再び岩の上へ目を向けた。美里が、天を仰ぐような仕草で大きく呼吸する。次の瞬間その体が、ふわりと宙に浮いた。伸びやかな肢体が空中で静止したかと思うと、ゆっくりと落下を始める。しだいに加速が付いて、ついには、波しぶきを上げて海に吸い込まれた。
 静寂が辺り一面を包み込む。風の声も波の音も昭吉の耳から消えていた。昭吉は息をのんで海面を見つめた。ようやく美里の体が現れた。近くの岩にとりついて海から上がると、素早く岩影へ消えていった。警備艇の上で大きな拍手と喝采が湧いた。さっきまでの、からかうような声の調子とは明らかに違う。さわやかな歓声だった。
 その瞬間を待っていたかのように、一人の女が砂浜に飛び出て、軽やかに、手舞い足舞いを始めた。昭吉の母だった。警備艇へ向けて、たっぷりの愛嬌を振りまきながら、波打ち際へ進んで行く。すかさず、校長が後に続いて滑稽な手踊りを始めた。船上でどっと笑い声が上がった。指笛が鳴った。太鼓に枹がはいった。一人また一人と女達が踊りに加わって行く。軽快に弾む太鼓の響きにつられて、年寄りたちも腰を上げた。昭吉の母を中心に、陽気な踊りの輪が拡がって行った。船からは絶え間ない拍手が送られている。
 艇長らしい若い士官が右手を高く上げた。警備艇は大きく旋回を始め、沖へ船首を向けてゆっくりと動き出した。船上では幾つもの水兵帽が振られ、浜では安堵の溜息が洩れる。白い航跡が細く長く延びて行った。








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