日本財団 図書館


小説・ノンフィクション部門佳作受賞作品
 ≪小説≫
子捨て村
清原つる代(きよはら・つるよ)
本名=本名 中村つる代。一九四七年生まれ。主婦。一九八三年「夜の凧揚げ」で九州芸術祭文学賞地区優秀作。九〇年「みんな眠れない」で第二十一回九州芸術祭文学賞佳作。九三年「蝉ハイツ」で第一九回新沖縄文学賞を受賞。二〇〇一年「クジラの入江」で第一回南日本文学大賞・佳作受賞。沖縄県糸満市在住。
 
 入船町のバス停から、桟橋へは歩いて五分ほどだった。対岸には太古の恐竜が長々と寝そべったかたちの加計呂麻島が、水際まで枝を垂らした樹々の色も鮮やかに横たわっている。その加計呂麻島へ日に一往復する定期航路の船やチャーター船が二十艘あまりも錨を下ろす港町だった。船客案内所で秀之が村の名前を告げると、カウンターの中の娘が三浦丸という船が通っていることを教えてくれた。
 「旅行ですか? 学生さん」
 切符を渡しながら、そう言って笑った口元からこぼれた歯並びが白くて健康そうだ。
 板壁がところどころめくれた事務所の中は入の出入りが多くて、往来のように埃っぽい。天井にはどこぞの塵捨て場から掻っ払って来たような旧式の扇風機が耳障りな音を立てて廻っていたが、ちっとも涼しくはなかった。
 「あんな田舎へ、何しに行くのかねえ、この兄さんは。何も見るところないのにねえ」
 案内所の外へ一歩踏み出すと、照りつける太陽に眼の前がくらくらした。海へ向かって突き出した幾つものコンクリート桟橋の上には透明な陽炎がゆらゆら立ちのぼり、秀之の頭の中にまで白くて熱いもやを広げ始めた。
 桟橋へつづく道には物売りの声が満ちていた。バラック建ての休憩所や露店が立ち並び、土産物売りや豆腐売り、果物売りや、盥いっぱいに赤や青やの眼に染みるような原色の魚を満載したおばさんたちがわめくような売り声を上げている。秀之が覗いてみると盥の中には海から今、揚がったばかりのような瑞々しい魚が跳ね躍っていた。よく肥ったハタ類やタカサゴ、飛びきり真っ赤なキンメダイもいればウルメイワシやカツオもいて、尻尾をピンと反らし、盥の外にまで泳ぎ出しそうにしている。
 休憩所の粗末な椅子に腰かけ、爺さんどうしがゆで卵をむいて食べていた。それを見ていると秀之の腹がクーと鳴った。昨夜の八時過ぎ、鹿児島を出港する船に乗って初めてこの島へ着いた。途中の海は波が荒くて船酔いがひどく、夜通し嘔吐の連続だった。秀之はからからに萎んだ胃袋を抱えて船から降りたが、水のほかは何一つ食べ物を口にしていない。背中のリュックが疲労困憊の背中からずり落ちてしまいそうで、足元もおぼつかない。
 休憩所の暖簾を思わずくぐって、ゆで卵とコーヒー牛乳を注文した。リュックを脇へ降ろし、息もつかずに貪り食っていると隣に座っていた爺さんが湯呑み茶碗を引っくり返した。黄色い茶が秀之のリュックにこぼれかかった。慌ててリュックを持ち上げた。中にはわずかな着替えや洗面道具にまじって、母親の骨壷が入っている。
 休憩所を出て、再び目的の村へ行く船を探し始めた。宝栄丸、光進丸、仲間丸などはどれも定期船で、幾つかの村を朝早くから順ぐりに廻って買い物客を乗せて来る。午後の便はそれらの村へ町からの客を落としてゆくらしい。
 やっと見つけた三浦丸は出港間際のエンジン音をひときわ高く響かせていた。甲板からも窓のついた船室からもかなりの乗客たちが港の方を見降ろしている。秀之は桟橋と船との間に渡された木梯子を急いで上った。
 目眉が濃く頬骨が高く、顔の輪郭もどこか似通った島びとたちの中に、肌の白さや服装からして秀之と同じ都会からの旅行客だと一目でわかる母子連れが、船首に近い甲板に肩を寄せ合って座っていた。髪を赤く染め、長く伸ばした爪に派手なマニキュアを塗った若い母親に付き添われた四、五歳位の少年が心細そうな顔つきで辺りをキョロキョロ見廻している。秀之は磁石に吸い寄せられたように母子連れの隣にリュックを下ろした。
 「ママ、ぼくもキャンディー食べたいよ」
 青ざめた顔に唇の色だけ赤い少年が母親にねだっている。桟橋の上を白布に氷と染め抜いた旗竿を立ててアイスキャンディー売りが行き来しているのだ。周囲の子供たちが旨そうに食べているのを見て欲しくなったのだろう。この島の焼けつく暑さには大入でさえ喉が渇いてたまらないのだから、子供はなおさら我慢できるわけがなかった。母親は桟橋の上を鈴を鳴らしながらせかせか歩いてゆくアイスキャンディー売りを呼び止めた。
 「一本下さいな、イチゴの、赤いのを」
 アイスキャンディー売りのおばさんが箱を開けて、中から真っ赤な苺キャンディーを一本取り出し、こっちへ振り向いた時、三浦丸では船長が桟橋との間の木梯子を引き上げようとしているところだった。キャンディー売りのおばさんは待て待てという風に手を打ち振りながら三浦丸の方へ駆け寄った。おばさんにしてみれば一本十円の僅かな稼ぎであっても儲けのチャンスを逃したくなかったのだろう。大急ぎで木梯子を上って来て、男の子に滴の垂れるキャンディーを手渡した。若い母親が財布から小銭を出しておばさんに渡した。
 おばさんは巾着のついた前垂れに小銭をしまって梯子を下りて行ったが、よほど慌てふためいていたからだろう。足元がつるりと滑って、あっと思う間におばさんは桟橋と船との間の海中に転落してしまった。桟橋を行き来していた人たちも、船首を並べた船の上からも好奇の視線が一斉に集まった。
 おばさんの転落した海は突堤になっていて深かった。おばさんは泳ぎができないらしく、水中に沈んでスカートを風船のようにふくらませ、ぶざまな恰好でもがいている。手足をばたつかせ、海水をしこたま飲んで苦しそうに浮き沈みしている。近くの船から男が一人海中へ飛び込んだ。おばさんを抱きかかえて岸へ泳いだ。おばさんは時ならぬ珍事に眉をひそめる見物人で黒山になった桟橋の上へ引き揚げられ、飲んだ水をごぼごぼ吐いた。それでもおばさんは節くれ立った指にしっかり巾着付きの前垂れを握りしめている。おばさんのブルーマーのような下履きがびしょ濡れになったスカートの下から透けて見えるのが、見物人の眼には滑稽さを通り越してどこか物哀しく映った。鼻くそほどの小銭のために危うく溺れかかったおばさんは、見物人の嘲笑に見送られてすごすごと退場する喜劇役者だ。騒ぎが治まって気がついてみると、男の子が折角買ってもらったアイスキャンディーは口にも入れないうちに殆んど溶けて、男の子の手元には芯棒だけが残っていた。
 
 三浦丸が何事もなかったように出港すると、男の子はリュックの中から機関車のおもちゃを取り出して、音真似をしながら遊び出した。それにも飽きると母親に、本当にあしたで東京へ帰っちゃうのかと訊ねている。
 「いつ、ヨーちゃんを迎えに来るんだよっ」
母親は良い子にしてたらすぐ迎えに来るから、おとなしくお婆ちゃんの家で待っているようにと応え、男の子の頭を撫でる。
 「お婆ちゃんと仲良くするのよ、ヨーイチ」
 「うん、わかったから、いくつねむったらむかえに来てくれるのさあ」
 男の子に責められ、母親は口ごもった。
 「それはねえ………」と顔色を曇らせている。
 「十なの? 二十なの?」
 「それはねえ………」
 思ったより正直者らしい母親は男の子の額に顔を寄せて再び口ごもった。秀之は聞くともなく聞いてしまった話の中身から母子がこの島へやって来たわけをうすうす悟った。どうやらこの若い母親は離婚か、或いは男に捨てられるかして足手まといになった少年を島に暮らす自分の母親の元へ預けに来たらしい。
 三浦丸はのどかなエンジン音を立てて、一時間余り島と島との間の海峡を航行した。やがて加計呂麻島が眼の前で大きくなった。複雑に入り組んだ海岸線や入り江に沿って陽光を眩しくはじく砂浜が白い帯のように伸び、緑滴る熱帯樹に覆われたかたちで一つ一つの集落が入り江の奥にひっそりと寄りかたまっていた。船は加計呂麻島の北端に近い岬を廻った。最初に寄る村の入り江が近づく。四、五人の客が木梯子を伝って砂浜へ下りて行ったが、桟橋も何もないらしい。荷物を担いだり抱えたりした客たちの足跡が、眩しい砂の上に深くめり込んでゆく。次が萌木村、次の岬を廻ったところが知之浦で客の殆んどが慌ただしく下りてしまった。残ったのは秀之と例の母子連れだ。
 最後の入り江に秀之の目的の村があると船長が教えてくれたが、どうやら母子連れの下りる村も同じところらしい。
 そこにもやっぱり桟橋はなかった。船が波打ち際に着く前から迎えらしい老婆が砂浜にポツンと立っていた。灼けつく陽差しの中で老婆の姿はゆらめく陽炎のように揺れている。
 「サヨコなあ、その童ばあがヨーイチか」
 渡された木梯子を伝い下りる母子連れに、砂浜の老婆がかれた声をかけて来た。
 「母ちゃんよー、元気だった、手紙も出さないでごめん、ヨーイチをしばらく預かってね」
 若い母親は甘えるように言って、男の子の背中を押した。男の子は老婆の前によろけ出て、ぺこんと頭を下げた。
 「この人はまさか、父親じゃ………」
 木梯子を後から下りて来た秀之を認めて、老婆が見当違いの言葉を発した。
 若い母親はあわてて老婆の肩を小突き、
 「違うの、この人は、知らない人なのよ」
 と頭を振った。その時、別の老婆が秀之たちの前にぬっと現われた。それが秀之の初めて見る祖母だった。マスお婆だった。
 「ヒデユキとはおまえさまか、こんな不便な島までよく訪ねて来てくれたのう」
 男かと見間違うほどマスお婆は上背が高く、背筋もしゃきっと通っている。髪の毛もたっぷりあって、写真で眺めるオキナワのお婆たちのような珍しい髷に結っていた。
 「今日はもう遅い、明日の朝、墓へ夏江の骨を納めに行こうかのう」言われて秀之は、
 「厄介になります」と頭を下げた。
 ハマヒルガオの花が群がり咲く浜づたいの道を、母子連れの後につづいて集落の方へ歩いて行った。
 やわらいだ陽差しに磯の匂いが濃く紛れ込み、都会では感じられない安らかさに陶然と包まれながら秀之は母を想った。
 胃ガンで亡くなった母の夏江は、故郷のうわさを秀之に殆んどして聞かせたことがなかった。親の反対する男と駆け落ち同然に家を飛び出し、もちろん島も抜け出して大阪の大正区というごみごみした町で暮らすようになった母たちは、二度と島の土を踏むことがなかった。両親との連絡もそれっきり断った。秀之が生まれた直後に鉄工場の夜勤明けだった父親は交通事故に巻き込まれて命を落とし、母親は以後二十数年、女手一つで一人息子を育て上げることになった。病院の皿洗いから掃除婦、付添婦をしながら夜も昼も働きつづけ、秀之を大学まで通わせてくれた。勉強しろとか親の苦労を見ろとか、うるさい小言を一切言わない気丈な母親で、めそめそしたことが大嫌いな性分だった。それでも息を引き取ってみると、病院のベッドの枕の下には父親の写真が若い時のまま大切にしまってあった。黄ばんだ写真の中で秀之にそっくりの痩せ型の男が、何か言いたそうな人懐こい顔をこっちに向けて笑っていた。
 通夜を病院の地下にある霊安室で済ませて、火葬場へも一人で行った。灰色の骨壷にわずかな骨を納め、電車に揺られてアパートへ帰った。線香と花を近くの商店街で買い求め、骨壷の前に供えたが、母親の長い間の苦労をおもうと涙も出なかった。
 この家で母親が産声を上げ、多感な少女時代を過ごしたのかとおもうと、秀之には煤けた天井のどす黒い雨漏りの跡さえ妙に感慨深く映った。これで俺もとうとう独りぼっちか、天涯孤独の身になったのかというおもいがひしひしと込み上げて来て、枕元に置いた母の骨壷を起き上がって抱いた。
 翌朝早くマスお婆に付き添われて、母親の遺骨をガジュマル樹の繁る山間の共同墓地へ葬り、村道を戻って来ると広場らしいところに突き当たった。相撲の土俵場が築かれてはいるが補修する男手がないのか傷みがひどくて、角々が崩れかけている。その向かいに集会所があったが、板壁がめくれ上がったり腐ったりして老朽化が進み、強い台風が一吹きしたら間違いなく倒壊してしまいそうだ。
 行き交う人の気配の感じられない閑散とした村には珍しく、広場には子供たちが十数人群れていた。隅っこの鉄棒に足を絡ませている子、勢いよくブランコを漕いでいる子。自転車か何かの壊れたタイヤを外して来て、器用そうに輪廻ししている子も居れば、昔懐かしい陣取り合戦に興じている子供たちも居た。二昔も前のそんな遊びに熱中している子が今時この世の中に居るなどと、都会から来た秀之には信じられない光景だ。
 鍵っ子だった秀之はファミコンゲームに育てられた。母親のいない、がらんと寂しいアパートの部屋で終日ピコピコピコピコ電子音を響かせつづけた。子供がみんな公園や路地から姿を消して、換気の悪い室内にこもり、眼を兎のように真っ赤にしてテレビゲームに熱中しているのが今時の都会の子供らの風景なのに、この村の子供たちは明らかに二十年以上も前の世界にタイムスリップしている。何かと言えば中学生はおろか、もやしっ子の小学生までが他人に向かって平気でナイフを投げたり、切りつけたりするような殺伐とした都会の子供たちの風景とはおよそかけ離れた、この村の子供たちの原始的な遊びの光景が秀之の心に奇妙な感動を呼び起こした。
 二、三人が広場の空を涼しげに覆ったガジュマル樹の木蔭でマンガ雑誌を読んでいる。女の子のグループは地面に敷いたゴザの上で着せ替え人形ごっこをしていた。紙でつくったお札や食器類、葉のついた竹箸などが並べられているのはままごと遊びだ。どうぞどうぞ、ごっつおうさまだのと愉しげにやり取りしている。
 昨日同じ船に乗り合わせていた母子連れの少年が輪の真ん中にいるのも見えた。
 「あの子はよう、陽一ち言うてこの村で暮らすことになとうんよ。母親が都会で悪い男に捨てられたんじゃろう、昨日浜に迎えに来とったおばばを覚えておるじゃろ、あれが娘の母親でな、引き取って育てることにはなったが、いつ迎えに来るやらのう。若い者らの考えることは村の年寄りにはよーわからん」
 マスお婆の頬や口元には男かと見間違うような産毛が生えている。長の年月剃ることも忘れた草のような産毛だ。昨夜遅くまでマスお婆の膳で聞いた話では、この村には男が数えるほどしかいない。若い時分からの大酒飲みが崇って、六十過ぎにはどの男もころころ死んでゆく。殆んどの家で女ばかりが長生きすることになり、知らぬ間に婆さんばかりの村になってしまったという。何とか生き長らえている爺さんもいないではないが、中風になって寝たきりの病人と惚け老人ぞろいではどうしょうもない。これがろくな働きもせんのに食べるわ食べるわ、養い手の婆さん方の苦労も考えずに終日どこかの家の縁側に集まっては、味噌や魚や山芋やをお菜に茶飲み話ばかりしておる。
 日がなごろごろしおって、夜になると人が変わったように元気を盛り返す困った年寄りも居るんじゃ。陽の高いうちは片足引きずってえろう不自由らしかに、夜になると足腰までがぴんしゃん立ってよう、一人暮らしの婆さんの家へ次々夜這いをかけよるから、どうやってエロ爺さんの悪さを治したもんかと村のみんなで頭を抱えよるがのう。
 マスお婆が語って聞かせている間に、秀之は陽一少年が島の外からゲームボーイを持ち帰っていて、村の子供たちに自慢らしく見せびらかしているのに気づいた。
 だから新入りの少年の周りに子供の輪ができていたのだ。村で暮らすうち二十年も前の遊びの世界にタイムスリップしていたこの村の奇妙な子供たちには、昨日都会からやって来たばかりの少年が持ち込んだ小さな四角い箱が珍しくて仕方ないらしい。僕に貸してよ、私に貸してよと子供たちの手が奪い合うように右からも左からも突き出た。
 「順番だよ、順番に貸してやるよ」
 陽一少年が輪の中で悠然と答えている。
 「七、八年あずかっとる子も居てのう、この春、小学校に上がったもんもいるくらいじゃ。母親は忘れてはいなんだかランドセルば送って来よったち、それしょって二里離れた隣村の分校へ朝夕山越えして通いよるがな」
 マスお婆が子供らを一通り見廻すようにしながら深い溜め息を漏らした。
 「ではこの子供たちは?」
 「そうさな、全員てて親なしの哀れな子供らよ、その上母親からも捨てられてはな、おばばたちが養ってやるしかなか」
 陽一少年は自分がこの村へ置き去りにされる運命なのも知らぬげに、新しい友達に囲まれて得意満面の顔つきだった。四角い小箱を両手に捧げ持ち、せわしげな電子音をひびかせている。
 「ヒデユキは、釣りは好きかの」
 血のような大輪の花の咲くハイビスカスのことを島では仏桑花と呼ぶらしい。その仏桑花が生け垣になってマスお婆の家をぐるりと囲んでいる。生垣を廻ってお婆の軒先に着くと、マスお婆がいきなり沖へ船を出して魚捕りに行くと言う。まさか、と秀之は首を傾けた。婆さんたちが釣り?それはないだろう。
 「お総菜が無うなっての、ヒデユキもついておじゃれ、これからええ潮時になるでのう」
 「僕がですか、釣りなんか生まれてから一度もやったことないっすよ」
 マスお婆は勿体ないという顔をして、
 「お婆らは月に四日、交替で海へ出とるぞ。村には魚捕る元気な男衆が居らんからの、畑仕事でも何でも婆さんらが手分けしてやるほかなかよ、やり始めると面白いもんじゃて」
 言いながらもう家の裏手の物置へ廻って、櫂や竹で編んだ漁具籠をせっせと取り出し始めたのには驚いた。
 「ホーイ、マスお婆や、支度はできたかや」
 門口から姉さん被りにした老婆がすたすた入って来た。手には柄の長いタモと底に硝子板をはめ込んだ箱状の漁眼鏡を下げている。
 「ホーイ、カマド婆や、すぐ行きますぞえ、今日は青年どんも共に頼むでな」
 「青年どんとは嬉しか、若返らせてもらおうかえ」
 お婆たちと連れ立って浜へ下りる途中、軒の崩れかけたあばら家の前を何度も通った。人が住んではいるらしく戸口は開け放されていて、うすい布団に横たわった爺さんが見える。寝たきりではないらしいが縁側の座椅子から一歩も動こうとせず、猿のような皺くちゃの眼でじっとこっちを窺っている爺さんも居た。マスお婆から昨夜聞いた話の通り、一軒の家の縁側ではどこにこれほどの爺さんが隠れて居たかと奇異に感じるくらいの頭数が車座になって賑やかに茶を飲んでいた。
 「ホーイ、マスお婆や、大漁して来なされや」
 「大物に曳かれんようにの」
 爺さんたちが歯の無い口元で笑っている。
 「何を言うか、痴れ者らが」
 マスお婆は舌打ちして浜への道を急ぐ。後ろで爺さんたちが囃し立てるようにどっと笑った。男と女が逆転したような光景ばかりだ。
 「あれらも昔はな、腕のいいカツオ漁師じゃったが………立ち寄る港々に女ばこしらえての、女房泣かした爺さんが何人も居るわい」
 マスお婆が呟く。昨日三浦丸の着いた砂浜の脇はごつごつした大岩の磯が鋭く海中に突き出ていて、その先端近くにも小柄な爺さんが一人この暑い日盛りに黒いこうもり傘をさして、その陰の中にちんまり座り込んでいた。
 「クジラは見ゆるか、米蔵さんや」
 マスお婆に声をかけられ、白髪頭の爺さんがこっちを振り返った。
 「今日はまだ通らんの、潮吹きさえ始まったら三キロ先のクジラも見ゆるんじゃが」
 「じゃがじゃが、しっかりクジラ守りばして、余計なことは考えん方が良かぞ」
 マスお婆たちは浜で待っていた別の老婆と合流して、手漕の船をアダン樹の根元から波打ち際へ引きずり下ろした。船が水に浮かんだところで、米蔵爺さんが昨日の話の中のエロ爺さんだと聞いて秀之は二度びっくりした。
 歩いてこそ見せなかったからわからないが、昼間の足萎えはどこへやら、夜になると猿のように身軽になって独り暮らしの婆さんの家へ夜這いをかけるという。若いころの米蔵爺さんは近海で我が物顔に鯨を捕る捕鯨船の乗組員として華々しく活躍した男らしい。遅くに村一番の美人嫁を拝みに拝み倒して娶ったのは良かったが、その嫁が病に倒れ、あっけなく死んでしまった数年後に夜這いの悪癖が出るようになったという。芳子、芳子と死んだ恋女房の名前を呼んで、寝静まっとる婆さん方のからだの上にのしかかったりするから、
 「もうてぃてぃ顫いするよ」
 村じゅうの婆さん方から毛嫌いされて、一時は精神病院にでも押し込めようかと取り沙汰されたところを、さすがにマスお婆だけは哀れにおもって逸る婆さん方を説き伏せ、監禁するような真似だけは避けられた。その後も米蔵爺さんの病気は間遠になったと言っても、月に一度の割合で夜這いの悪い癖がぶり返すから、今でも村の婆さん方は戸閉まりせずにはおちおち眠るわけにいかない。そのくせ昼間はああやって若い時分を思い出しよるかのう、クジラの潮吹きを一日中監視しとるんじゃ。昼間ああやっとる姿は誰にも害の無いええ爺さんやが、夜になったら足萎えは治るし、人相までがらりと変わるんじゃから厄介なもんじゃて。
 マスお婆がしゃべくっている間にも、都合四人が乗り込んだ紡錘形の板付け船は入江を離れた。
 「ヒデユキも、さあさあ漕ぎなされ」
 櫂を手渡されて秀之もぎごちない手つきで漕ぎ出した。赤と黒の上塗りが斑状に剥げかかった船は、水に浮かぶと意外にしっかりしていた。マスお婆たちはいつも漁に出ているためか、海の上でも手慣れた漕ぎっぷりだ。一行は潮の流れを小気味良くさばいて沖を目指した。遠く対岸には昨日渡って来た港町のある大島本島が横たわり、内海は油凪ぎして鏡を張りめぐらしたような穏やかさだった。太陽は中天にまばゆく輝いていた。
 振り向いて見る村の佇まいはのんびりと眠たげな光の中にたゆたい、エロ爺さんの悪癖に悩まされている村の日常が信じられない。
 海の水は明るく澄んで、萌黄色に輝き渡っていた。沖へ進むにつれ、その明るさが濃い群青に染まる。大阪湾のヘドロ臭い水とは大違いだった。海峡の中ほどまで漕ぎつけた。そこは波もかなり荒く、カツオやマグロの回遊する大海原に直接つながっているかんじに心が躍った。来て良かったのかも知れないと秀之は思った。母の死をしばし忘れることができ、束の間だが心が晴れ晴れした。
 船は錨を下ろし、麦わら帽にもんぺ姿の婆さんたちが船縁に釣り糸を垂れた。道具は都会の釣りマニアが使う高級竿などとはおよそかけ離れていた。赤児をあやすがらがらを大きくしたような仕掛けに太目の縒り糸を巻きつけただけの素朴なもので、婆さんたちは手縄と呼んでいた。豚の血を何度も塗り重ねて仕上げた手縄は先立った夫の形身だったり、よいよいになった男たちから譲り受けたりしたものらしい。餌は昨夜のうちに捕っておいた川エビがあった。婆さんたちはそれをタナガと呼んだ。バケツの中で骨まで透き通ったタナガが威勢良く跳ねている。餌にするには勿体ないほど繊細なタナガが塩っ辛い海の陽をキラキラと宝石のように弾き返している。
 秀之もその一匹を苦心して釣り針の先に引っかけた。秀之が糸を垂らすのと入れ違いに、舳先に陣取っていたカマド婆が早々と獲物を釣り上げた。朱の色が眼に染みる鮮やかさだ。大正区のごみごみした市場でなんか見たこともない虹色の魚だった。体長三十センチくらい、小判型のまるまる肥った魚が船底で餓鬼大将みたいに暴れている。
 「眼が赤いから赤眼じゃ、夏場はこれが時期での、底じゅう赤眼で湧き返っとるわい」
 マスお婆が皺深い目元をやわらげて言った。その言葉通りにあとからあとから赤眼ばかりが釣り上げられる。婆さんたちは時間を忘れて魚に没頭、船底はたちまち赤眼であふれた。
 最初の一匹を釣り上げた時は秀之もさすがに興奮した。暴れる赤眼をつかみ損ねて背鰭の刺にチクリと刺された。痛っ、と怯んだあとから指先にうす赤い血が滲み出た。
 「血は自分の口で吸い取れ、そうやって漁に馴れるんじゃ」
 マスお婆が獲物を船底へ投げ入れながら諭す。秀之は塩からい指先を口に含みながら虹色の魚たちをじっくり観察した。名前の由来通り大きな眼がウサギのように赤い。うるうるした赤い硝子玉だ。もたつきながらも秀之に二十匹近い釣果があった。馬鹿だろうが何だろうが相手構わず釣れる魚らしい。婆さんたちは男そこのけの腕前で、秀之の二倍から三倍もの釣果を挙げていた。
 これじゃ爺さん方の出る幕はないな、婆さんばかりがこんなに元気じゃ、爺さん方が早死にもするし、よいよいの病人にもなるだろうさ。秀之は内心、村の爺さんたちに同情を覚えなくもない。用の無くなった爺さんたちがあちこちの縁側に寄り集まって、茶飲み話にうつつを抜かす筈である。
 携帯ポットから茶を飲む時も、婆さんたちは片手に手縄を垂らしたままだった。
 「陽もだいぶ傾いたようだし、そろそろ終わりにしますかの」
 マスお婆が掌をかざして陽の行方を追った。帰途の船足は漁の重みでゆったりと進んだ。
 時折知り合いの漁船とすれ違ったりすると、
 「ホーイ、今夜は御馳走かえ」
 互いに声をかけ合う。鹿児島航路の大型船が傍らを通った時は大波で船がどんぶらこと揺れた。やがて村の入り江が秀之たちを迎えるように見えて来た。満潮らしく、昨日三浦丸で着いた砂浜は波避けに積まれた珊瑚の石垣のすぐ足元まで海水が寄せていた。その海に何か円っこいものがぷかぷか浮いて見える。黒いビニール袋かと思ったがそうではない。
 西瓜くらいの大きさで、二つ三つ四つ……と数えてゆくうち、どうやらそれが人間の頭らしいと分かった。全部で七つ、向こうむきに海面に浮かんでいる。黒い長い髪の毛がその周りになまめかしく流れていた。
 秀之は眼を疑った。船縁に思わず上体を寄せたかと思うと、視線は専らそっちの方へ釘付けになった。年寄りと、母親に捨てられた子供たちだけが住んでいるとばかり思い込んでいた村のどこに、こんなに沢山、年頃の若い娘が隠れていたのか不思議でならない。心臓がどきどき打ち始め、両の頬が火照った。
 こちらからは表情も目鼻立ちも分からない娘たちのあらわな水浴姿に、秀之の想像力はなまなましく掻き立てられる。岸へ向かって泳ぎ出す者、白い背中を翻して海中へ潜る者、たっぷりした髪の毛を手櫛で梳き洗う者など、娘たちはおもいおもいに水浴を愉しんでいる。誰一人として近づく船に注意を払う者などいない。秀之は我を忘れて船縁を叩いた。同じ船に乗り合わせているマスお婆たちのことはすっかり脳裏から消えていた。娘たちの一人が音に反応してこっちへ振り向いた。つられてほかの娘たちも次々と船の方を振り返った。
 秀之は一瞬、魂が抜けるかと思うほど驚愕した。のぼせ上がっていた顔面を嫌と言うほど平手打ちされたかんじだ。ついで騙された人間の苦い気分で胸の辺りまで酢っぱくなった。思ってもみなかった無数の皺が、年頃の娘とばかり思い込んでいた者らの顔に深々と刻みつけられている。娘たちは年老いた蟹のように醜く笑っていた。
 いや、そこにいたのは老女ばかり、全員が皮膚のたるんだ婆さんばかりだ。顔面は平家蟹のように皺ばみ、雨垂れ模様のしみが濃く浮き出ている。かさついた眼が壁の節穴みたいに秀之を見据えていた。こんな皺々婆さんたちが村の若者たちを虜にした娘時分に戻ったかのように嬉々とはしゃいで、水とたわむれる光景がこの世の中にあるなどと俄かには信じられない。但し、あらわになった乳房は昔の豊満さのかけらもなく、老婆たちの胸にワラ草履のようにぶら下がっているばかりだ。それでも秀之はしばし茫然自失の態であった。心ならずも眼の前に繰り広げられている老婆たちの奇怪な水浴姿に眼を奪われていた。
 「何をおまえさん、驚きんさっとるのか。可愛い娘が村のどこぞに隠れているとでも思い違いなさったのかえ」
 マスお婆の見透かしたような物言いに秀之はハッと我に返った。
 「そうではないけど………村の婆さん方はどうしてこんなに元気がいいんですかね」
 聞きながら秀之は船尻で舵を取っているマスお婆の眼をまっすぐ見返した。母親の母親、自分と同じ血が体内に流れている人間とは思えない不可解さが眼の前の逞しい老婆の全身から立ち上っている。血のつながった肉親、祖母などという安直な絆はいつの間にかどこへやら消し飛んで、見知らぬ島の謎だらけの女酋長のような老婆が秀之の前に傲然と立ちはだかっていた。
 「子捨ての村じゃからな、お婆たちがしゃきんとしておらなんだら、どうにもならん。食うてゆけんがの」
 「――子捨ての村ですか」
 秀之もつられて大きな溜め息をついた。
 「おばばの家の孫娘も、ケイコを預けっ放しでもう四年になるかのう、手紙一本小遣い一つ送ってよこさず、鉄砲ん玉のごとある」
 舳先に居たカマド婆が話に加わって来ると、秀之と並んで真ん中の席に座っていたチル婆さんが肩をコリコリいわせながら、
 「昨日、お婆の隣にも陽一ちゅう子供が連れて来られたがね。母親はちゃらちゃらした洋服ば着て、明日あたり都会へ戻る筈だよ」と呟く。三十二世帯のうちの十四軒が娘や孫娘などから足手まといの子供を押しつけられ、養うはめに陥っているという。預かり子たちは初めのうちこそ母親がいつ迎えに来るかとめそめそ泣いているが、同じ境遇の子らと親しく交わり、じき素朴な村の暮らしに馴染んでしまう。ろくでもない母親の面影を慕うこともやがてなくなるという。村の暮らしは子供らにとって自由そのもの、誰からも勉強しろとか、宿題やれとかうるさく叱られることもなく、男の子も女の子も日の暮れるまで海辺や山の中や村の広場で手足を真っ黒に汚して遊んでいられる。野生の猿そのものになって山に抱かれ、海に揺られ、川エビを捕り、貝を拾い、椎の実をどっさり山から持ち帰って竈で焼いて食べる。こんなのんびりした暮らしは都会にはなかったから――
 男に捨てられ、騙されて年中くよくよガタガタ嘆いている母親と、六畳一間の狭苦しいアパートで鍵っ子になってこせこせ暮らすより、はるかに幸せな暮らし方だと子供ら自身が肌で感じているのだろう。子供らにはもう母親に捨てられ、厄介払いされたという後ろめたさの意識など無くなっているのだと、マスお婆は秀之に向かって言いたいらしい。
 「子供らはの、今じゃ、捨てた母親を怨んだりゃあしとらん。村で暮らして居る限り、人を怨むような罰当たりな人間には育たんわの」
 考えてみれば秀之だって、母親の夏江が子供の自分より男と暮らす方を選んでいたとしたら、二十年も前にこの村へ、マスお婆の元へ預けられていた人間かも知れないのだから、これはもう人ごとでは済まされなかった。村で育てられている子供たちと秀之とは、魂の深いところで繋がり合っている兄弟のようなものだ。子捨ての村の子供らと秀之とは同じ運命を背負わされた兄弟とも言えるのだ。
 島にも、この村にも母親の遺骨を納めに来ただけで、ほかには縁もゆかりもないと我が心に割り切っていたが、村の婆さん方の暮らしぶりや母親に置き去りにされた子供らの逞しい育ち方を知れば知るほど、磁石にも似た強い力がこの村へ秀之を惹きつけてゆく。母の遺骨を抱いて半分は抜け殻となり、あとの半分は体内の血が凍りついたようになってこの島へ、村へやって来た秀之の頑なな心が、少しずつ少しずつ解きほぐされ、やわらかな呼吸と人間らしい暖かな体温を取り戻してゆくようなかんじなのだ。
 秀之の心はその変化に敏感に反応していて、母を許さなかったマスお婆に対しても徐々にひらかれ、打ち解けてゆくようなのだ。
 
 積み上げられた珊瑚の石垣近くに船を舫い、婆さんたちが捕って来た大量の赤眼を笊に移し替え始めた。秀之も暴れる魚を手づかみにして、次々と笊に投げ入れながら、浜で娘かと見間違えた婆さん方の達者な泳ぎっぷりをたたえて、我知らず感嘆の言葉が出た。瞼に映っているのは抜き手を切ったり、海中へ潜ったりしてはしゃいでいる婆さん方の子供にかえったような姿だ。
 「この村じゃ当たり前のことよ、畑仕事や漁の後では風呂沸かすより、泳いだ方が手っ取り早いからのう、夏場の愉しみじゃが」
 マスお婆が引き取って応えると、
 「じゃがじゃが」
 ほかの二人も声をそろえた。
 「おまえさまは知らんじゃろう、泳ぎっくらさせたらここに居るマスお婆が村で一番速いでの、うそじゃと思うたら明日浜へ来て、泳ぎっくらしてみたらええ」
 カマド婆がそう言いながら魚を満載した笊の一つを小脇に抱えて、浜の道を歩き出した。マスお婆もも一人の婆さんも同じように魚でいっぱいになった笊を抱えて、カマド婆の後につづいた。
 「こんな沢山の魚をどうするんです?」
 秀之の頭に浮かんだ素朴な疑問だ。
 「分け合い助け合いよ」
 「村じゅうの人間が待っとるもんな」
 婆さんたちが口々に答える。
 浜づたいの石垣を巡らした道の奥に崩れかけた茅葺き屋根の家があった。カマド婆が家の門を入って行って、しきりに主の名前を呼んでいる。庭の仏桑花の木蔭に古びた便所があって、その戸をぎしぎし開けて下履き一枚の痩せた爺さんがこっちへ歩いて来た。鶏ガラのような足元がよろよろしている。
 「彦爺よ、赤眼が大漁したどや、今晩のおかずにしなされ、捌きは自分でしなされや」
 カマド婆が言いながら魚を手渡す。
 「ほいほい、ありがとうさん、これで寿命が一日伸びたごとある」
 彦爺が赤眼を三匹もらって、炊事場の方へ廻ってゆく。門口で待っていたマスお婆たちは何事か囁き合い、それぞれの道へ分かれた。
 「村じゅうの家へ配って歩くでな、ヒデユキはわしの後について手伝え」
 村の家々は山裾に拓けた畑や薮の中に散っているため、廻るのには骨が折れた。途中、子供らが群れる広場の前を通ると何やら騒がしい。「米蔵じいさんだ、米蔵じいさんだ」
 男の子も女の子も口々にわめいて崩れかけた集会所の裏に隠れたり、道の向こうへばらばらと散ってゆく。見ると広場の南側からこうもり傘をさした小柄な爺さんがぴょこぴょこ歩いて来る。昼間、浜でクジラを見張っていた曲者の爺さんだ。広場には夕闇が濃く流れて、島の長い一日も暮れようとしているのに、黒いこうもり傘をさした奇妙な爺さんが子供たちを恐慌に陥れ、追い散らしている。その姿にはどこか偏執狂的な人間に特有の臭いのようなものが濃く絡みついている。
 「子供らは正直なもんよ、村で一番怖いのが米蔵爺さんらしくての、顔見ただけでああやって逃げ廻っとるんじゃよ」
 マスお婆が大きな溜め息を漏らした。
 「何とかならんかのー、米蔵爺さんさえ悪さをせんけりゃあ、この村は極楽なんじゃが」
 言葉から、この村の婆さん方が米蔵爺さんの俳徊にだけはほとほと手を焼いている様子が察せられる。
 「米蔵さんや、どこへ行きなさるが、これ、この赤眼ば持って家へ帰りなされや」
 マスお婆は米蔵爺さんに魚を持たせて、自分の家へ無理やり追い返そうとした。
 「マスお婆よ、たまにゃ汝ら家で夕飯呼ばれたいがの、今晩辺りはどうかや」
 米蔵爺さんが上眼遣いにニヤリと笑った。
 「わしの家にはほれ、見よ、大阪から可愛い孫が来て居るでな」
 マスお婆が取り合わないので米蔵爺さんは赤眼を下げ、こうもり傘をさしたまま、すごすごと反対の道へ入ってゆく。爺さんの姿が消えると子供たちが近くの野菜畑や集会所の裏から草の種や泥をからだにくっつけたまま二人、三人と姿を現わした。中に陽一少年の色白の顔も交じって盛んに何か叫んでいる。戸惑いを覚えながらも、少年は何とか村の子供たちの中に溶け込もうと努力しているようだ。息を弾ませて仲間の後を追う少年の屈託のない表情に、秀之はホッと安堵のようなものを覚えた。父親どころか母親にも捨てられた陽一少年だが、この村の婆さんたちの元でなら心に負うた傷を癒し、逞ましく育ってゆけるだろう。同じ境遇の仲間たちにも助けられて、どんな逆境にもへこたれない強い子供に育ってくれるに違いない。そう考えると秀之の頬は自然に緩んだ。秀之自身が、村の婆さん方や陽一少年から一人ぼっちになっても決して諦めたり、自棄になったりせずに強く生きる力のようなものを注ぎ込まれたような気がして、身内が温まるおもいだった。
 
 笊三杯分の赤眼を爺さん婆さんの家へ配り終えて、最後に残った六匹を下げてマスお婆の家へ戻った。お婆は裏の井戸端でさっそく魚を捌き始めた。水を弾きながら鱗を剃ぎ落としているお婆の手指は太くて節くれ立っていて男のようだ。脇に屈んでお婆の手指の動きを見つめているとわけもなく涙が出て来た。
 母の夏江と秀之に都会での苦しい二十数年があったようにマスお婆にも島での孤独な暮らしがあったわけだ。どんな事情で結婚に反対したのかはまだ聞いていないが、一人娘に背かれての村での暮らしは秀之が想像するほどなまやさしくはなかったろう。父無し児となって次々と村へ引き取られる子供らを我が孫のように一生懸命育てる気持ちになったのも分かるような気がした。マスお婆は内臓を取り出してていねいに漱ぎ、炊事場の隅に置いた旧型の冷蔵庫にしまった。それがお婆と秀之との三日分の食糧になるらしい。
 マスお婆の家にもいつの製造かも分からないほど古くなったテレビがあるにはあったが、壊れていて写らなかった。写っていれば今頃、ソウルオリンピックの実況放送をしている筈だ。薄暗い電灯に赤錆びの浮いた炊飯器、冷蔵庫のほかはろくな電化製品もないから、台風情報や何かはもっぱら町役場が流す有線放送に頼るしかないらしい。どこそこの村の誰某が亡くなったとか生まれたとか、いつ何時役場の係員が豚の種付けにどこそこの村へ行くとかの知らせを朝から晩まで各戸に引かれた梁の上のスピーカーが休みなく流している。
 それにしても文明の流れとは別のところで仙人かと思うような暮らしぶりを続けているマスお婆の家に、古びているとは言え冷蔵庫らしきものがあったとは意外だった。意外さを通り越して驚きだった。
 しかも問題の冷蔵庫が亡くなった母の夏江が十年ばかり前、マスお婆にわざわざ送ってよこしたものだったとは………。
 秀之はマスお婆が捌いた魚を皿に盛って蔵いながら、今にも息切れを起こしそうな冷蔵庫の黄ばんだ外壁を指の腹でなぞってみた。元気だったころの母親を思い出した。ついでガンと闘って力尽きた母親の死に際の苦悶の表情が瞼の裏にありありと浮かび上がった。
 「さて、浜へ下りて一泳ぎするかの、夏場は村じゃ風呂は焚かぬ決まりじゃからな」
 座敷へ上がろうとする秀之に、マスお婆が色の褪せた大判のバスタオルを突き出して敷居のところで言った。
 「風呂の代わり? 泳ぐんですか」
 外はもうとっぷり暮れている。
 「今夜は満月じゃ、浜も昼間のように明るんでおるからハブの心配をすることもないでの」
 タオルと石鹸を入れた盥を抱えてさっさと表へ出る。仕方ないから秀之も後をついて歩いた。白砂を敷き詰めた浜への道は背後の山際から上がった真ん丸い月の光で煌々と照らされている。畑の中や薮を過ぎて通りかかる家々は爺さんの一人暮らしでひっそり静まっているかと思えば、軒先から弾けるような子供の笑い声やテレビの音声、婆さんらのぶつぶつ言う声がひびいて結構にぎやかだ。
 子供が縁側に出て花火をしている家や、婆さんと孫とが夕餉の膳を囲んで向かい合う光景が庭の奥や垣根越しに見えて気持ちがすーっと和んだ。その一方で婆さん方の努力を持ってしても果たしていつまでこの村の天上的な平和が保ってゆけるのか、危倶をかんじずにはいられない面もある。とにかく今はこの村の上で時間が停止し、先の見えない年寄りと、両親に見離され捨てられた孤児らを慈悲に満ちた神の手がいっとき包んでくれているようだと秀之は思った。そのおもいが秀之自身の心をも深く慰めてくれるようだ。
 月の輝く浜へ着いた。マスお婆は絣のもんぺに古着のシャツといった珍妙な恰好のまま、秀之は短パン一枚になって海の中へざぶざぶ浸かった。満月の光が揺れ動く夜の波間を妖しく照らし、透明な雨のように二人の上に降り注いでいる。そんなきらきら輝く水中にマスお婆と秀之だけがクラゲのように揺らめき浮いていた。
 「嫁さんになるおなごは居るのか」
 突然、マスお婆の声が波間から湧いた。
 「そんなもの、まだまだ………」
 「そうか、お婆はこの通り何もしてやれんが、おっ母の分も精いっぱい生きちくれよの」
 しみじみした口調で言われ、秀之は唐突に衝き上げてきたものをぐっとこらえて頷いた。
 海からの帰りに村の真ん中を流れる大川に下りて、潮に濡れたからだを漱いだ。うっそうと繁る亜熱帯樹林の山々から流れ落ちる真水は夜に入ってかなり冷たくなっていたが、肌にすっきりと心地良かった。
 家へ戻って秀之が縁側に座り、棒で突き刺せば落ちて来そうな満月を眺めている間に、マスお婆は昼間釣った赤眼を焼き魚と煮つけにして出してくれた。
 「ヒデユキはお婆を怨んでおろうが、おまえのお父は船乗りでのう、一年の半分は海の上で働く男よ。じゃから反対もしたが、まさか駆け落ちするとはなあ、それっきりお父は陸に上がって工場仕事をするようになったらしか。夏江は負けたと言うのが嫌いな性格じゃから、助けちくれとは一度も言ってよこさんかったの。わしによう似て気の強いおなごじゃったもの」
 マスお婆はお膳を片づけた後、濃い茶を淹れて飲みながら訥々と語り出した。母親の夏江が村を飛び出して行った経緯や音信不通になったことなどに関して、血を分けた孫にこれだけは言って聞かせておかなければならない思いが強くあったのだろう。秀之にしてみれば母と娘の長い間の心の軋轢や積もり積もった愛憎劇を垣間見るおもいだ。
 マスお婆は胸の閊えを洗いざらい吐き出したことで気持ちが楽になったらしい。寛いだ表情を顔いっぱいに取り戻して、
 「明日は我ーがタコ捕り番じゃ、引き潮になったら浜へ下りるでの、秀之もついて来うよ」
 村のお婆たちは三人一組の輪番制で海の漁やタコ捕りに出かける。三日に一度はどの組かが沖へ出て、全戸へ配る魚貝を捕って助け合っているのだそうだ。旧三月三日の節句の前後は大潮に当たるから、村じゅうのお婆たちが周辺の浜や磯へ出かけて蛤を掘ったり、ティラダ、イショダミ、ヒュウゲ、シャコなどの貝拾いや、ウニ、ガザミなどの蟹類、同じく春先にはスヌイ、アオサ類の海草を採る。それらは一年を通してお婆たちの貴重な保存食となり、村を潤す。
 「ウートート、トートガナシ」
 マスお婆は朝も夕も先祖の仏壇に線香をともし、懇ろに掌を合わせていた。亜熱帯の気候と海辺の利で村のお婆たちは父親のない子供を何人押し付けられてもどうにかこうにか食べさせてゆけるんじゃがね、マスお婆が秀之に布団を敷いてやりながらしみじみ言う。
 「役場から貰う子供手当があろう、あれも子を捨てた母親らの半分しかお婆たちの元へは送って来んよ。お婆たちはわずかな年寄り年金ば孫の米代や学用品に削られる始末じゃ。それでも孫はこの村の宝じゃもんな」
 その日の夜更け、昼間の漁の疲れで秀之がぐっすり眠っていると、深夜三時を廻ったころか襖の向こうでドタバタ騒ぐ音がして、寝間着の胸元をだらしなく開けたマスお婆が驚愕の色もあらわに秀之の寝間へ転がり込んで来た。髷は崩れ、帯も半分ほどけて腰からぶら下がった様子が何やら争った後らしい。
 「米蔵が、米蔵が………」
 口から泡を吹くように繰り返すので、起き上がって襖の向こうを見ると、着物の前をはだけた米蔵爺さんがうつけた表情で突っ立っている。股間からは異様なものがはみ出していた。秀之は何一つ頭に浮かばないまま、猪みたいに爺さん向かって突進した。爺さんのからだは手応えのない豆腐か、立ち枯れ木のように縁先までぶっ飛んで仰向けに転がった。
 
 翌日の昼ごろから爺さんの姿が村のどこにも見えなくなった。最後に浜で船支度をする米蔵爺さんにたまたまカマド婆が出くわしていて、
 「沖の方でクジラが盛んに潮吹きしちょるのが爺さんには見えるらしか、こんな内海に滅多にクジラが入るわけないのにな。クジラ捕りに行くちゅうてそりゃあ慌てて柄の長いトギャとか銛とか船に仰山積んでの、急いで漕いで出よったぞい」
 翌日も日が落ちて爺さんの家に灯りが点かないことに気づいた隣の者が騒ぎ出してから、言うのだ。次の朝が明けると、
 「米蔵爺さんの頭もいよいよ狂うてしもうたらしか」
 村の婆さんたちが口々に言って一日じゅう沖を眺めていた。その夜半から生ぬるい風がどんどん強くなって、大嵐がやって来た。役場の有線放送が電線をビュービュー撓わせる強風の中で台風接近を告げた。次の日の夜は凄まじい暴風雨に辛うじて点いていたうすぼんやりした電灯までも停電になってしまい、村じゅうは深の闇に落ちた。漆黒の闇の中にシャチの歯を想わせる稲妻が鋭く光り、滝の流れ落ちるような雨が降った。どの家のお婆たちも息を詰めて、頭の上で怒り狂う暴風雨をやり過ごしているのだろう。陽一少年はどうしている? クジラ捕りにと無鉄砲な船出を企てた米蔵爺さんの身はどうなっているかと秀之の心は穏やかでない。
 思わぬ台風襲来に遭って、秀之の出発も延びてしまった。翌晩もそのまた翌晩も真っ暗闇の暴風雨にローソクを灯し、原始の暮らしに戻ったような三日間だった。
 四日目の夜中過ぎからようやく風の勢いが衰えはじめた。朝にはさしもの暴風雨も跡形もなく過ぎ去り、久しぶりに仰ぐ空が真っ青に晴れ渡っていた。鳥たちがどこからか戻って来て鬱憤を晴らすように鳴き交わしている。
 村へ来るまでに切断されていた電線がどこやらで繋がったか、梁の上の有線が耳障りな雑音のあとに久しぶりの音声を発し始めた。欠航していた航路の案内や出船入り船の時間を事細かに流している。秀之の乗る予定の船がその日の夕刻には対岸のK町を出港することも分かった。秀之はリュックの中身を片づけ、仏壇に掌を合わせた。マスお婆が背後でがらがらと家じゅうの雨戸を開け放っている。
 「もう一日くらいゆるっとして行かぬのかや」
 そう言って引き止めたが、今さら秀之の意志が揺らぐ筈はなかった。
 「米蔵爺さんはどうなったのかな、あの嵐じゃ生きて帰れるとは思えないけど………」
 二人は浜への道を急いだ。三浦丸は朝の八時半ごろ、村の入り江に入って来るのだ。
 「あの嵐じゃ生きては居られまい、どこかの海で船こぼれしていようのう」
 マスお婆の沈痛な口ぶりの裏から、長年の重しが取れた喜びが隠しようもなく顯れている。嵐に姿を変えた神さまが村のエロ爺さんを厄介払いしてくれたかという安堵の表情だ。
 村では人が行方不明になっても捜索隊を頼んだり、町の消防へ通報したりはしないのだろうか、ふとそんな疑念が秀之の心に兆したが、嵐の前の晩にマスお婆の寝間へずかずか侵入して来た無法者の爺さんを思い出すと、そんな疑念も泡粒のように消し飛んだ。
 浜へ着くとうねりの残る海は上げ潮にかかっていた。知らないお婆が三人、漁へ出る支度をして波打ち際に船を浮かべている。
 「台風直後の海に出て、平気なのかなあ」
 秀之が言うとマスお婆は大事ない大事ない、湾内で釣るんじゃから心配ないと手を振って見せた。浜づたいの道では村の子供たちが多勢寄って、台風に吹き飛ばされて来た木切れやがらくた類を集めてはおもちゃ代わりに遊んでいた。中に陽一少年の顔が、兄ちゃん、帰るんかと言うように秀之を見た。少年は靴も履かない裸足の足裏からうす赤い血を滲ませている。秀之は、「頑張れよ!」と少年の背中に思わず声援を送った。
 迎えの三浦丸が村の入り江を廻って来た。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION