小説・ノンフィクション部門佳作受賞作品
≪小説≫
オールマン
佐藤 敏(さとう・びん)
本名=佐藤敏彦。一九三六年北海道生まれ。北海道大学卒業。新聞記者、TV報道記者、会社役員、会社相談役を経て現在は政治団体主宰。趣味で研究執筆、新聞雑誌掲載、全国論文コンテスト一位受賞多数。六十歳を機に小説書き勉強開始。福岡県大野城市在住。
1
厨房長アダム・マリクの姿が、航行中の船上から消えていた。
定年退職で下船してゆく日の朝のことだった。非番の者全員と一緒にとることになっていたお別れ朝食会に姿をあらわさなかったので迎えにいったが姿が見えず、スピーカーで呼びかけ全員で船内をくまなく探したがどこにも見当たらなかった。ジイサンめ昨夜のさよならパーティの酒に酔っぱらって海に落っこちたか、バカ言えコケが生えた船乗りが海に落ちるかよ、グラス一杯で金魚みてえに真っ赤になり二杯でオカに上げた蛸みてえに足がよろけたからなあジイサンは、そんな足で甲板へ昇ってゆけるわけがねえ、ションベンに立つのがやっとだぜ、などと乗組員はことさら明るく冗談をとばし合いながら探し回った。なぜなら誰もがひそひそ声で口々にひょっとしたら誰かが金を奪う目的でジイサンをやったんじゃないのかよ、いったいどいつがあの誰からも好かれていたオールマンをやったんだ、おれがやったんじゃないことだけが確かで誰がやっても不思議がないほどジイサンは金をしこたま溜め込んでいたろうからな、そうとも田舎に引っ込んででかい屋敷を建て若い女に身の回りを世話させ優雅に暮らせるだけの大金をな、やったのは進水以来この十八年間一緒にやってきたクルーの一人であるわけがねえ臨時で乗り込んでるやつらかそれとも最近乗り込んだクルーの一人か、いったいどの国のロクデナシがやったんだと疑心暗鬼になって互いに険悪な目を光らせて見合っていた。欧州アジア航路の定期貨物船サンマリクルスはパナマに便宜船籍を置いた日本の海運会社のチャーターバック船だけに乗組員は多国籍で、進水以来からのクルーとそれが退職した後釜の新しいクルー、そのクルーが定期休暇をとった穴埋めに乗り込んできた臨時要員という三種類の船員が四つの国籍で乗り合わせている。〈まずいな、ひどくまずい〉船長の青柳は胸を凍らせた。ことの真相を明らかにしてこの疑心暗鬼を解消しスッキリさせてやらなければ、普段は表に出ない国籍の違いがもとの不信感や猜疑心からくる不和と摩擦の火の手が上がりかねないことを、それが船の安全運航を損ないかねないことをせっつかれるように青柳は危倶した。ことの真相の可能性は三つ、誰か不心得者が金目当てで殺して死体を海に投げ込んだものか、酒にめっぽう弱いだけに前夜のさよならパーテーでふるまわれたカクテルの酔いをさまそうと甲板に出てよろけ闇夜の海へ転がり落ちたものか、オカに上がってゆく先で待ち受けている何かの厄介ごとに嫌気がさして自殺の身投げをやったのか???いずれにせよそれが起こったのは真っ暗闇の公海上であったろうからこれから定期検査のドック入りする国シンガポールの警察が捜査するのか、マリク厨房長が国籍のインドネシア警察が捜査することになるのかはとにかく警察が真相にメドをつけられるのはずいぶん先のことになるのは間違いない。〈本船の安全運航を維持するのが責任である船長のおれ自身で真相を突き止めなければならないな〉と青柳は思っていた。
厨房長アダム・マリクは皆からオールマンと呼ばれていて船長の青柳が八年前に乗り込んでその呼び名を聞いたとき、オールマンをオールを漕ぐ男という帆船時代の一般船員の意味かなと思ったのだが違っていて、オールドマンすなわちジイサンを言いやすくオールマンと呼んでいることを後になって知った。マリク厨房長は乗船してきた十八年前すでに頭髪が真っ白だったのでジイサンすなわちオールドマンとあだ名をつけられたのだ。そしていつからか乗組員は「オールドマン」はジイサン、「オールマン」は厨房長アダム・マリクに一目も二目も置いた敬愛を込めた呼び名として使い分けてきていた。マリク厨房長は頭髪が真っ白の見ただけで判るオールドマンすなわちジイサンであるとともに乗組員の全員から敬愛される「オールマン」であったのだが、その姿が消えてから誰もが呆気にとられたのはオールマンの身の上について何一つ知っていなかったことに気づいたことであった。オールマンの個室に残されていた文字が記されているものは彼の船員手帳ただ一つ、手紙も預金通帳も保険証書も住所録も金銭出納記録も請求書領収書も日記のたぐいも写真も現金も金目のものもいっさい見当たらなかった。そう言いやオールマンから家族のことを聞かされたことはなかったな、休暇を取ってサトに帰ったことが一度もなかったんじゃないの、誰だって退屈まぎれにガキの自慢話やてめえのドジな人生をおもしろおかしく語って聞かせるもんだがオールマンだけは話したことがなかったな、やつはオランダ人かなんかの白人まじりの男前だから若い頃はさんざん女を泣かせていい思いをしたろうってその話をしつこく訊いたんだが苦笑いするだけだったぜ、そもそもジイサンはえらい無口でただニヤニヤ笑っておれらのバカ話しを聞いてたよなあ、いったいやつの身辺はどうだったんだろうと乗組員はいぶかりながら言い合った。部屋に残されていたおもな私物はわずかな衣類とポータブルのカセットラジオとそのラジオから録音したに違いない大量の音楽テープに世界各国の料理本だけ。白人の血がまじっていたに違いない長身で端正な顔だちのオールマンの身上は謎に包まれ不明だった。その謎を解くのが船長であるおれの仕事だろうと青柳は考え、仮に殺人事件であったとしたなら真相を解くのは警察の仕事なのだから、船長のおれがオールマンの身内の者を探し出して知らせてやらなきゃならない。彼の国籍であるインドネシアはドック入りしたシンガポールから手が届くほどすぐそこの距離にあるのだから行かなければならないのだ。
だが残されていたオールマンのただ一つの痕跡である船員手帳に記載されていて訪ねたホームアドレスは、ジャカルタの都心部に立つ荒れはてた空き家のショッピングビルだった。一九八○年代後半アジアの奇跡の時代に華々しく開店したのだが、スハルト長期政権の倒壊とアジアバブルの崩壊に足をすくわれ倒産したと聞かされた。同行したインドネシア人の二等機関士エンガノが、よくあることです都心部がホームアドレスではビルに建て替えられて消えちまうんですマイッタですねと言い、仮にオールマンと一緒に暮らしていた者がいたとしても十数年前のことだから市役所へ行って尋ねても無駄でしょうね船長とダメを押した。言われるまでもないなと思って青柳は頷き、ホームアドレスが消えてしまっても船員手帳に書かれている出生地は車で行ってせいぜい二〇〇キロほどの所じゃないかと言った。仮にオールマンが生涯ひとり身を通していたにせよ兄弟姉妹や親戚の一人や二人はその出生地にいるはずだからオールマンの身の上は聞き出せる。レンタカーを借りてのんびりドライブを楽しもうぜと青柳が言い、インドネシア第二の大都市スラバヤに家族が暮らすエンガノ二等機関士が、まあ道はロクデモナイありさまでしょうがジャワの田舎情緒をたっぷり味わえるのは間違いないですなと言い、それで調べは終わるわけだから行ってバタバタ片付けちまいましょ船長と気軽な顔つきで同意した。何かの障害が先に待ち受けているなどとは二人とも夢にも思っていなかった。
消えた厨房長マリクの船員手帳に記されている出生地のそこはインド洋に面した半農半漁の青い海と浜の白砂と熱帯雨林の緑が美しい小さな村だった。遠くから人が訪ねてくるなんてことは年に一度あるかないかだと言いながら村役場の男は出生届をとじたぶ厚いバインダーを六〇年前までさかのぼっていって怪訝の眼差しを上げ、アダム・マリクは生まれて三ヵ月後に死亡してますなと言った。死亡診断書と埋葬許可申請書が添付されているので死亡は間違いないからお尋ねのその人はこの村で生まれたアダム・マリクではありませんぜと念を押した。となるとあの厨房長はいったい誰なんだとエンガノがたまげて叫び青柳も呆気にとられて息を飲んだ。おそらく…と前置きして役場の男はこともなげに死んだ人間アダム・マリクの出生証明を買い取ったんでしょうなその人は、なにせこんなへんぴな田舎村ですから確かめに来る者なんかいるわけないんで成りすまして通すことができるんですな死んだ人間にだってねと言った。まあ気休めにしかならんでしょうが死んだアダム・マリクの身内の者を訪ねてみたらいいでしょうと紙に三つほど住所を書いてくれた。
役場の小さな建物を出るやエンガノがその住所の紙を地に叩きつけるようにして投げ捨て死んでしまっているアダム・マリクの身内を訪ねたところで何にもなりませんぜ船長と叫び、ホームアドレスは空き家のショッピングビルで出生地も名前もウソで判らないときちゃあ、その先へ行く手掛かりゼロでどうにもお手上げですわと言った。確かに残されたものからの手掛かりはゼロになったにしてもそれで終わりにする気に青柳はなれなかった。あの温和で心優しく寛大な誰へも分けへだてない態度で接して皆から敬愛されたマリク厨房長が、あろうことか死人の出生証明を買い取って前身を隠し通していたその秘密の闇の奥深さに青柳は抑えがたく惹かれ、そういう重い秘密をかかえながらああも穏やかで満ち足りたふうに見える日々が送れたそのわけを飢餓するように知りたくなっていて、死人の出生証明で隠していた秘密の存在が判ったからには書かれたものの手掛かりがゼロであっても終わりにはできないなあと青柳は言った。しかし船長どえらい時間がかかりますぜと困惑で顔をしかめて言うエンガノに青柳は、仕方ないさと肩をすくめて見せたが本心はそのほうが渡りに船でいいではないかとホッとしていた。今度のドック入りを機に一ヵ月の休暇を取って東京へ帰らなければならない「もう待ったなしの年齢なのよ」と母から険しく釘を刺されていた男の務めなる用件が待ち受けていて気重になっていたのだが、この調査にえらい時間がかかるとなると東京へ帰ることができない断わりの言いわけが立つと思ってすっかり気が楽になっていた。エンガノ二等機関士のわたしゃ一週間しか休みが取れないんですぜという言葉に急ぎ立てられて青柳は車へ戻り、エンガノの気違いじみたカミカゼ運転で田舎道を飛ばして二人は夜のジャカルタヘと戻った。
2
泊まった五つ星ホテルのレストランで皿の料理を気のない顔つきでつつきながらエンガノはしみじみと、オールマンが作ってくれた料理にやどんな高級レストランのものだってかないませんなあ食えたもんじゃないですわとうんざりした口調で言い、白衣に白いシェフハットの肥満の男がテーブルを回ってワゴンの上の料理を取り分けている姿へ憎々しげに視線をやって、見てくだせえよ船長あそこのデキソコナイめは厨房から出る残飯を意地汚く喰らった豚みてえにみっともなく太りやがって、うちの船だったらああいう醜く太ったでぶの厨房員は食欲をなくするでかいクソのかたまりだってんでみんなに袋叩きにされて海に放り込まれちまいますわ違いますかね船長と言った。でかいクソという言葉に顔をしかめながら頷く青柳の脳裏に浮び上がっていたマリク厨房長の汚れのしみ一つない白衣白帽のシェフ姿は長身でほっそりして輝くばかりの清潔感に満ちていた。厨房員の厨房から食堂のテーブルへ料理を運ぶ際の服装は、調理のときに着ている白のTシャツ姿や精肉の血や煮汁の汚れが付いたエプロン姿のような薄汚い食欲を減退させるたぐいの恰好はダメ、ズボンは膝の出たうすぎたないジーンズも洗い古してくたびれきった作業ズボンも地中海の港で買ったリゾート用短パンもノー、靴は後ろを踏んだスニーカーのつっかけもビニールサンダルも履き古した革靴のどた履きも禁止で、洗い上げた純白のアイロンがびしっとかけられた白衣に白ズボンに白のシェフハットに船が支給した黒革靴をぴかぴかに磨き上げて履く完壁なシェフ姿で、テーブルに付いた乗組員が五つ星レストランの常連客かヨーロッパの王侯貴族であるように丁重かつ優雅に料理を配って回ったものだ。その光景を思い出しながら青柳は目の前のテーブルについているエンガノ二等機関士を眺めておかしさを噛み殺した。いつもロクデナシだのクソのかたまりだのクタバッチマエだのと口汚く言い散らしているこの男が黒スーツに黒の蝶タイというどこへ出しても恥ずかしくない正装に身を固めてテーブルに収まってさまになっているのも、ああしたマリク厨房長がいつのまにか作り上げていた本船の食堂の大した流儀がそうさせているものであることに青柳は感心するとともにおかしかった。まったくいつのまにかという感じで乗組員の全員がネクタイにスーツ姿で食堂にやってくるようになり、大声のバカ話しと駄馬がいななくような大笑いはうそのように消えて誰もが小声でたしなみ良く会話を交わしながら食事を楽しむようになっていた。あの温和で物静かなマリク厨房長がそう強要するはずのものではないし誰かからそうしようではないかと言い出したわけでもなかったのにである。長期休暇にあたったクルーの穴埋めに乗り込んできた臨時の船員や本船を降りていった乗組員の後釜で乗り込んだ者が、薄汚れた作業着にどた靴のままや非番で部屋にいるときのくたびれきったジャージ姿やTシャツによれよれのズボン姿やパジャマ姿につっかけサンダルで食堂へやってきて、股をおっ広げたぶざまな格好で椅子にすわってテーブルに片肘つきながら大口あけて料理にパクつくというていたらくに、根っからの乗組員は険しく投げつける視線で警告した。いったい何で食堂に入るおれたちにああも辛く当たらなきゃなんないんだとその礼儀知らずのデキソコナイ――と乗組員は呼んでいた――連中はぼやきつつ次第に本船の食堂の流儀になじんでいってネクタイ姿で食事をとっていた。そのことをエンガノも思い出したのだろう周囲のテーブルを埋めている服装がまちまちの食事客を眺めまわして、うちの船の連中ならどこの五つ星レストランへ出しても恥ずかしくないマナーでめしを食うだろうよこのデキソコナイのケツの孔どもが恥ずかしくなるほど立派にですぜ船長と言った。その言葉のひどさに青柳が呆れておいおいそんな汚い言葉を厨房長の前で言ったのかえと眉をひそめるとエンガノはまさかと言って苦笑し、それにしてもこうしてみるとあのオールマンって人はいろいろと大したものだったですよねえ船長、そういう人が死人の出生証明を買い取ってまでして隠さなきゃならない秘密をかかえていたなんて信じられねえと絶句した。
テーブルの一点を凝視して考え込んでいたエンガノが顔を上げて決心した表情で、あっしには一週間しか休暇がないんですがいいですともその一週間をまるまる注ぎ込んでその調査とやらを手伝わせてもらいましょと切り出し苦々しく顔をしかめて、言ってしまえば情けない愚痴になるんでお聞き苦しいでしょうがあっしの女房ときたらまだ四十前だというのにすっかり太りやがって腹は妊婦なみにボテてるわ背中にやぶ厚い肉がつくわ尻はみっともなく横に広がりぶら下がっているわで使い古しのくたびれ切ったアムスの売春婦そっくりになってしまい、九ヵ月ぶりに帰る亭主のあっしを金蔓が達者でいるのを見て安心したみたいな卑しい眼つきで迎えやがるし、二人いるガキの上が十五の娘なんですがえらい反抗期ときたから父親のあっしをクタバリぞこないの動物でも見るみたいな嫌な眼つきでちらっと流し目をくれただけで自分の部屋へ消えちまうし、小さいほうはもらった土産をなんだこんなものという白けた顔で放り出して現金もらったほうがよかったと抜かしやがるんだから、まったくどうにもやりきれない思いでこの一週間の休暇がいささか気重になって海の上にいたほうがどんなにかマシという気になっていたんですよ、独り者の船長には所帯持ち男のこういうやりきれなさは判らないでしょうがと言った。青柳は苦笑いして判らんでもないがそれが世間で言う男の務めってものなんだろうから仕方がないさなと言うとエンガノは、あっしはこれまで年がら年じゅう一週間しか休暇を取らずに船に乗りっぱなしで働いて家族のためにとコンクリート塀をまわしたベッドルームが五つにバスルームが三つもある世間のどなた様に見られても恥ずかしくない庭つきの屋敷を建てたんだからその男の務めってやつは立派にはたしてるつもりなんですがねえ船長と言った。青柳が大きく頷いて大変だったろうが立派なものだなと言ってやるとエンガノは目を輝かせて膝を乗り出してきて、オールマンにはあっしらみたいなハンパ野郎が五つ星レストランのお客様みたいにもてなしてもらったうえに毎日毎日世界中の料理を最高の味と盛りつけで楽しませてもらったんですよ船長、港に着いてオカへ遊びに上がってゆく連中に「オカで旨いものをたらふく食ってくるぜ」なんてな憎まれ口をたたくバチアタリは一人もいなかったですよ。つまりあっしの言いたいことはサンマリクルスの乗組員全員がオールマンにえらく世話になって借りがあるってことですよ、そのお返しにしてはあっしの休暇の一週間なんざあ恥ずかしくって使ってくださいなんて言い出せたもんじゃあないんですが、正直言ってサトに戻る時間がなかったといういい口実になるんで助けると思って一緒させてもらいますよ船長と言った。それへ頷く青柳も思わずこのわたしも東京へ帰らなくてすむいい口実ができたとホッとしているんできみと同じさと言い出しそうになって苦笑し、お袋には悪いが見合いの話は今年もまたお流れになるなあと気になりながらも開放された気分になってくつろいでいた。頭のなかはマリク厨房長の穏やかで満ち足り何一つ不満なものはないかに見えた日々の風景で占められ、いったい何が彼をしてああも満ち足りさせていたのだろうと不思議に思い、死人の出生証明を買い取って隠さなければならなかった忌まわしいに違いない秘密の重荷を背負っている者であるのにと思えば不可解でならなかった。彼が隠さなければならなかった秘密よりもそのことのほうがむしろ知りたいと焦がれるように思っていた。彼には家族がいるはずなのだがいったいどこにいるのだろう?
エンガノもまたマリク厨房長のありし日々の平穏な姿に思いを捕らわれていたのだろう疑問の眉をひそめて青柳を見つめ、オールマンとあっしはサンマリクルスが進水したとき以来十八年間一緒だったんですけど、はっきり言ってオールマンが休暇を取って船を降りるのを見たことも聞いたことも一度もないんだから女房子供がいたとはとても思えないんですなあ、オールマンがオカに降りるのを見たのは給料をもらったとき町へ一人で行って二時間くらいしてから戻ってきたときくらいのものですよと言った。その言葉に青柳は身を乗り出してオールマンは給料を全額現金で受け取っていたからそのとき銀行へ行ってどこかへ送金したんじゃないのかと言った。乗組員の給料のうちの現金払いを申し込まれている分は給料支給日前後に寄った港の取引銀行に振り込まれている現金を事務長が引き出してきて船長から手渡すのだ。エンガノがなるほどと合点してそういえば遊ぶ金を借りにいったデキソコナイの恥知らずへオールマンは財布を広げて空っぽなのを見せて船の生活には金の必要がないんでねえと言ってたそうだから、金を全額どこかへ振り込んでいたのは間違いないでしょうがしかし振り込みに行った銀行も振り込んだ先も突き止めるのは無理でしょうなあ船長と眉をひそめて言った。頷いて青柳もオールマンが会社からの振り込みを頼まなかったからには振り込んだのが自分であることを隠して匿名で送金したに違いないと思っていた。いったい何でそんな金の送りかたをしたんでしょうねえオールマンの気持ちがさっぱり判らねえと顔をしかめていぶかるエンガノへ青柳は、それはオールマンが死んだ人間の出生証明を買い取ってまでして身を隠さなければならなかった理由にかかわりがあるはずだ、その振り込み先はどうしても見つけ出さなきゃならないなと言った。見つけ出すことができますかねえと疑いの眉をひそめて見つめてくるエンガノへ青柳は、方法がないわけではないさ見てなというように肩をすくめて見せた。そうまでして給料を送金し続けていたオールマンなのだからその送金相手を受取人に指定した事故保険に入っているに違いないと考えて、再保険引き受けの世界最大手であるロイドのロンドン本部へ調査依頼を入れていた。エンガノがしきりに疑問の首をひねって今になって考えてみるとオールマンには一文の得にもならないのになぜあれほどあっしら乗組員に良くしてくれたのか不思議でならないですよと言った。それはたぶんオールマンは自分の給料は乗組員からもらっているんだと考えたんだろうなあ船会社じゃなくてと青柳が答えるとエンガノは、しかしオールマンはなぜそんなふうな誰も考えないようなことを考えるようになったんですかねえと言って首をひねり、そこのところを知りたいのはわたしも同じなんだよこのわたし自身のためにと青柳は胸のうちで呟いた。
3
香港……にオールマンが掛金を払い続けていた事故保険の保険金受取人に指定されていた二人の住所があった。その一人が住む丘の中腹に押し合うように密集して建っている古びた中層アパートで二人が会ったのは一人暮らしの老女だった。六十九歳のアイリス・チェンが三十九年前の記憶を一年前に起こった事件を語るようなしっかりした口調で、あたしの亭主が乗り込んでいた大型クルーザーが爆発で沈んであたしの亭主を含めて三人が死に一人が行くえ知れずになったんですよ、小さな子供を二人残され食うや食わずのひどい貧乏暮らしをしていたところへ見かねたようにお金が送られてくるようになって本当に助かりましたと言い、送金主は匿名なので誰なのか判らなかったんですが亭主の雇い主だった組の親分さんくらいしかそういうことをやってくれそうな人はいませんからそうに違いないと思って感謝してたんですと言った。組の親分とおっしゃいましたがそれは香港ギャングのボスのことですかねとエンガノがいかがわしげに眉をひそめて訊くと老女は気色ばんで、そりゃまあギャングのボスと言ってしまえばおしまいだけどこれまで三十九年間もあたしと子供に生活費を送り続けてくれたんだから絶対に悪い人じゃないですよと頑固な調子で言った。エンガノが呆れてやれやれというように眉をひそめて青柳を見やってオールマンのことを知らせてやりましょうよという目配せをしてきたが青柳は首を小さく横に振って、そうすることはオールマンが匿名で金を送り続けた意志に反することになるのだから駄目だと押しとどめた。その大型クルーザー爆発で一人が行くえ知れずだったという男の名を尋ねると老女はウイリアム・トンだと答え、イギリス駐屯兵相手の淫売女に産み捨てられて孤児院で育ったのを親分さんが引き取った乱暴者で女たらしのロクデナシだそうですよと言った。どうやらマリク厨房長は行くえ不明者ウィリアム・トンに違いないと青柳は感じた。
図書館で三十九年前の古い新聞を出してもらって探し出した大型クルーザー爆発事件のトップ記事には男の四枚の顔写真がついていて、その一枚の行くえ不明になっている男の写真は焦点がぼけているうえに茶色くすっかり変色してひどく見えにくかったが白人との混血ふうの眉目秀麗な若いときのマリク厨房長その人に見え、エンガノもこりゃあオールマンに間違いないですぜとたまげて言った。死亡者の写真三枚のうちの一枚は老女が言っていたウイリアム・トンを孤児院から引き取ったギャングのボスの一人息子マックス(二十二歳)、他の二人はクルーザーの乗組員でその一人があの老女アイリス・チェンの亭主であるからには、もう一人はオールマンの保険金受取人に指定されていたもう一人の女性の亭主であることは間違いないと青柳は思った。記事では行くえ不明になっているウイリアム・トン(二十六歳)は香港黒社会の大物ドラゴンベンことベンジャミン・ウーから息子のように信頼されて大仕事を任されている切れ者でやり手の若手幹部ナンバーワンでボスの長女アリスの結婚相手と噂されている幸運者と書いてある。読み終わって紙面から顔を上げたエンガノは眉をひそめて船長これはただごとではなかったはずですぜと言い、青柳は頷いてボスの息子とウイリアム・トンのあいだには抜き差しならない確執があったろうなと言った。父親がわりのボスから息子なみに愛されたに違いない切れ者のやり手で白人の血が混じった眉目秀麗のウイリアム・トンがボスの長女アリス(二十四歳)と結婚するとなると、年下のボスの息子の目には自分の立場とボス継承権を奪われかねない脅威と映ったに違いないと青柳は思った。そういうボスの息子とその取り巻きがウイリアム・トンの抹殺をたくらんだとしても血なまぐさいギャングの世界では何の不思議もない。中国人の血を誇りとする香港ギャングのボスの息子にしてみればウイリアム・トンは祖国を植民地支配する憎っくきイギリス人の血が混じったそれも淫売の息子という受け入れがたい異質分子に見えるだろうから、ウイリアム・トンをウー一族の血統の華である自分の姉を色仕掛けでたぶらかし夢中にさせて血を汚そうとした恩知らずの不届き者として殺したところで父親のボスは黙認せざるを得ないだろう。切れ者でやり手と新聞に書かれたほどのウイリアム・トンがそういう危機と相手の危険な動きを察知しないはずがなく、この大型クルーザーの爆発はトンが先手を取って打った自分の命を守るための必殺の先制攻撃であったとしても不思議はないと青柳は思った。
そういう青柳の思いを察する表情でエンガノは身を乗り出してきて三十九年前と言いやあ一九六○年代の初めだから共産中国から逃げてきた中国人がアジアじゅうの中国人黒社会に根を伸ばしてきていてさかんに殺し合いの抗争をやらかしていた物騒な時代だったそうですが、だからといって息子を殺されたボスはクルーザーに爆弾を仕掛けて爆発させたのがそういう抗争をしかけてきた連中だなんて思いはしませんぜ、行くえ知れずになっているウイリアム・トンがやったと殺された息子の取り巻き連中が大騒ぎするだろうし親のボスの面子としてもトンを長女と結婚させて死んだ息子の後釜として後継者の地位を与えるわけにはいきませんから、トンを飼い主の手を噛んだ恩知らずの息子殺しと決めつけ処刑するべく行くえを血なまこで捜したのは間違いないですぜと言った。青柳が頷きこれでオールマンが死んだアダム・マリクの出生証明を買い取った理由が判ったなと言うとエンガノは顔を曇らせ、オールマンは身を隠してあちこち逃げ回ったすえインドネシアに流れついて自分の年より五歳も若い出生証明で間に合わせなければならなかったほどせっぱつまった生死のどたんばに追い込まれていたんですねえと言った。厨房員なら船の上も陸の上も仕事は変わらないのでバレないから船員手帳も出生証明と同じく大金を払って偽造を手に入れたに違いなく、そうやって大急ぎで外国航路の船に乗り込み海の上へと逃れたに違いない。
それを思いながら青柳はふと、自分が船乗りになろうと思い立った動機はその海の上へと逃れようとしてのことであったことを思い浮かべた。おれはお袋から高級官僚か大企業の重役になるんだと言われて育って公立なら東大法学部で私立なら慶大経済学部と言われて小学生の時期から塾がよいのガリ勉を強いられ受け入れてきたのだが、その受験の日に合格間違いなしの太鼓判を押されていた東大の試験場へは向かわずに商船大学へ行って受験し合格したのは、そういうお袋がおれの人生を頭ごなしに決めてかかった束縛から逃れようとしてのことだったし、今度のドック入りを機に休暇を取って東京へ帰らなければならないのをこの調査を格好の口実にして断わったのも、お袋から「もう待ったなしの年齢なのよ」と厳しく釘を刺されていた男の務めなる結婚をして所帯を持つという束縛から逃れようとした心境からなのだろう。お袋の言う「あんたは来年は四十歳になるのだから世間なみにそろそろオカに上がって船会社の重役になる道を踏み出さなければならないのよ」というその世間なみにということが男の務めとともに重く気持ちにのしかかってきてならなかった。「いつまでも若いままでいられるわけでないんだから」というお袋の言葉が鋭く胸につき刺さって痛いのは、おれにその世間なみへの心のこだわりがあるからなんだろう。その見合い相手の顔は十人並みだが気性のしっかりした上昇意欲の高いというお袋好みの女性と結婚して子供の二人も持ったとすると、エンガノが言ったような世間のどなた様に見られても恥ずかしくない大きな家に住むことと会社の重役になることにこの先の人生が束縛されてゆくことだろう。それはかつて受験の日に合格間違いなしの太鼓判を押されていた東大の試験場へ向かわず商船大学を受験し合格することで一度は拒絶したはずの親の束縛と戻ってゆくことなのだ。それでいいと得心できるのか?青柳はいま再び自分がその岐路に立っていて思い惑っていることをはっきり意識した。
その青柳の物思いを絶つようにエンガノが声高にそれにしても判りませんねえ船長、オールマンはそうやって海の上へ姿を隠すんだったらなぜ爆弾でボスの息子もろともクルーザーを吹っ飛ばす前にさっさと逃げ出さなかったんでしょうかと言った。青柳は自分の内心にわだかまって吹っ切ることができないでいる世間なみと母が口癖に言う世間体へのこだわりを思いながら、オールマンにはギャング仲間や世間に対して誇示しなければならない意地とプライドがあって逃げ出せなかったんだろう判るじゃないかと言った。そりゃまあ判りますけどしかし息子を殺したあとただ逃げまわったんじゃあ意地もプライドもあったもんじゃないですよ船長、なぜ親父を殺してボスの座を奪わなかったのかどうも判らねえやと首をひねるエンガノへ青柳は、自分を孤児院から引き取って親代りで育ててくれた人だから殺せないと思ったんだろうと言いたいところだが違うだろうな、イギリス人と混血の眉目秀麗なマスクでボスの長女を夢中にさせたほど女にもてて新聞に切れ者のやり手と書かれるほどの男に通常人の何倍も強い野望と上昇意欲と闘争心があって当然だろう、殺される前に殺せと息子を殺したあとすぐボスも殺そうと動いたのは間違いないだろうが失敗して逃げまわるはめになってしまったんだろうなと言った。そういう女にモテモテでギャングの幹部の派手で刺激的な暮らしをしていた切れ者の野心家が、しがない船乗りになって毎日毎日することなく単調な海を眺めて暮らすとなるとずいぶん辛かったでしょうなあとエンガノが顔をしかめて言い、青柳が大きく頷いて身にふりかかった運命の残酷さ非情さを呪い恨んで苦しみ人生に絶望したろうから自殺しなかったのが不思議なくらいなのに、そうしなかったのはいつの日にか香港に戻って再起して見せてやると執念を燃やしていたんだろうなあと言った。エンガノが恐ろしげに溜息をついて爆発の巻きぞえで死んだ船員二人の残された家族に金を送ってやったのもただの同情心からだけではなかったのかもしれませんなあ、香港に戻るときに備えて打った手の一つかもしれないし非情なギャングの世界ではいい美談になってその身を飾ってくれるものになるでしょうから、抜け目ないと言うか非情と言うべきかとにかく凄まじいものじゃないですか船長と嫌悪の表情で言い、青柳はそれへ頷き胸の内でおそらく最初はそういう非情な打算で金を送ったのかもしれないと思いながらも、その打算がいつからか消えて三十九年間も匿名で金を送り続けるようになったその無私の心境は、いったい何からどうしてそうなったのか焦がれるように知りたかった。
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二人が二日がかりで探し出したウイリアム・トンを良く知るという八十六歳の老人は自分のことをボスの片腕だったと言って、ボスの息子マックスは組の後継者であることを誇示するために顔色ひとつ変えずにピストルの弾を人の頭に打ち込んで見せて得意がるような冷血さだけがとりえの気違いじみたデキソコナイで、父親のボスもその人徳のかけらもない凶暴さを持て余していて組の後継者にするわけにいかないと言ってウイリアムに期待をかけていたものさ、マックスがクルーザーの爆発で死んでウイリアムが行くえ不明になったのを仕方がなかったことだと言ってウイリアムを後継者にすべく姿をあらわすのを待っていたのにやつはどう狂っちまったのかボスを殺そうとしたものだから、ボスとしては面子も愛情もすっかり丸潰しにされた格好になってやつを殺さざるをえなくなり殺し屋を向けたということなんだが、言ってみればそうなったのはやつの淫売の子で産み捨てられたという出生の不幸がそうさせてしまったんだろう他人を信じることができない根性が破滅の墓穴を掘ってしまったということだな、頭が切れてクソ度胸のある油断のならないあのままいけば大物になったのは間違いない大した若者だったのを自分で潰してしまったんだから惜しいことをしたものさね、ボスのほうも身内の一番大切な二人の若者を一度に失ってしまったうえに姿を消したウイリアムを半狂乱で追ってえらい出費を重ねるわ組の束ねはおろそかになるわで最後はボスの座から追い落とされて狂い死んでしまったよと言っていた。
丘の中腹に建つ高層ホテルに泊まった二人はスカイラウンジのレストランから街の夜景のまばゆいばかりの灯火と暗い海上に散りばめられた無数の船の光を見つめながら若き日のアダム・マリク厨房長――ウイリアム・トンを追想していた。香港黒社会の大者ボスの一人息子に生まれたがゆえに姉と結婚するだろうやり手の男を、自分の立場とボス継承権を奪われかねない脅威とみて殺そうとし殺されてしまった若者マックス、そのボスから実子以上に信頼された切れ者でやり手の若手幹部ナンバーワンでありながらその親代りですらあるボスを信用できずに殺そうとして破滅の墓穴を掘っていったもう一人の若者ウイリアム、ボスもまた黒社会の大物の面子のために愛するウイリアムを許すことができない怨念の地獄に落ち込んでいって最後はボスの座を奪われ狂い死んだというこのやりきれない思いにさせられる悲劇は、この世をはばかるギャングの黒社会で起こった事件であることを除けば、オカの世界で日常茶飯事にやられている地位と富と名誉を奪いあう際限のない闘争劇の一つでなかったかと青柳は思った。その点からいけば海の上の船の中にはそれがない。地位といったところでそれは資格試験で公平に決められてくるものだし、たとえ船長といえども狭い個室では金目のものを買い誇って詰め込もうにもスペースがない。青柳の脳裏にマリク厨房長の清潔で整頓されたわずかな私物しかない小さな船室が思い浮かんできて、彼のその人いちばい強く激しい野望と上昇意欲と闘争心は死神に追われて逃げ込んだ長い海上生活のなかでいつのまにか穏やかに消えていったのかもしれないと思ったとき、青柳はそういうマリク厨房長に自分の心のなかを覗き見たような感じに打たれた。おれがお袋にお膳立てされた見合いをいつも断わり続けてきたのはそういう束縛から逃れたいというものではなく、おれの十六年間の海上生活がマリク厨房長――ウイリアム・トンをその強く激しい野望と上昇意欲と闘争心から解き放ったと同じように、おれをしてオカの上でくりひろげられる地位と富と名誉を求める際限ない闘争に加わりたくないという思いにさせていたからではないのかと思った。青柳はテーブルの向こう側でガラスの外の夜景に目をやり暗い表情で何やら思いにふけっているエンガノを見つめ、おれがもし世間なみの年齢で結婚して子供の二人もいたとしたらこの男と同じように大きな家を買ってその払いのため長期休暇の期間中も休まず船舶管理会社の斡旋で他の船に乗り込んでいただろう。そういうオカの上のものをおれはいっさい持たないできたがゆえにオカの上の地位と富と名誉を求める闘争に加わりたくないと思うようになっていたのだろう。オールマンが消えたこの事件がなかったらおれはそのことに考え到ることができないで苦悩していたに違いないと思いながら青柳はオールマンを追慕していた。
エンガノ二等機関士がもの思わしげにオールマンはなぜボスが追い落とされて殺し屋に追われる心配がなくなった後も船に乗り続けて香港に戻ろうとしなかったのだろう、派手で刺激的な欲しいものは何でも手に入れることができる生活を取り戻せたのにですよ船長と言い、青柳は苦笑してそういうものを斬った張ったの命懸けであくせく手に入れることがばかばかしく無意味なつまらないものと思うようになったんだろうと言い、海の上のオールマンが他人の想像を絶するほどの苦悩と絶望にさいなまれ、それを通して至高の心境へと到達したのだろうことを思って、そのようなオールマンの死にまさる苦しみを安らげ癒して至高へと導いた海が持つ偉大な力に胸がふるえるほどの感動をおぼえていた。エンガノが疑問の顔で海のいったい何が良くてオールマンはオカに戻る気持ちを捨てたんだろうと訝り、青柳はそれへ答えずオールマンがオカに戻ると待ち受けている地位と富と名誉を奪いあう闘争の生活を捨て去り、それがいっさいない海の上の小さな船室の暮らしに穏やかで満ち足りた安らぎを発見して海にとどまったオールマンの比類なさを思い、十八年前にサンマリクルスに乗り込んできたとき真っ白だったというオールマンの頭髪にそれへ到るまでに通ってきた苦悩の谷間のいかに深く険しいものであったかに胸が潰れる思いがした。エンガノがいらいらと誰にしたっていい金になるという欲と一緒に海へ出るんで、オカと同じ金にしかならないんなら船に乗る者は誰もいないでしょうにオールマンときたら稼いだ金を見も知らない女と子供にくれてやった、そのうえ船が港に着いてもオカに上がらず船の上から望遠鏡でオカを飽かず眺めていただけの四十年近い海の上の暮らしは、いったい何が目的だったのか判るなら聞かせてくださいよ船長と詰め寄られて青柳は肩をすくめ、わたしにはどうも判らないなあと言いながら胸のうちで、オールマンにとって海の上で暮らすというそのことが目的であって海の上こそがオールマンが暮らすオカそのものであり、人が陸の上から海を遠望して楽しむのと同じようにオールマンは船の上から陸を望遠鏡で眺めて楽しんでいたのだろう、オールマンにはそうやって眺めたオカの上は人が陸の上から見る海の風景以上に興味をそそられ楽しめる見ものであったに違いないと思った。
エンガノが溜息をついてオールマンは暇さえあれば甲板に出て海を眺めていたけど飽きもしないでいったい何を見ていたんでしょうねえ船長、ただ青い水と空と白い雲があるだけにしか見えないんですがといぶかり、それへ肩をすくめてみせた青柳の脳裏に白髪が太陽にきらめくオールマンの姿が思い浮かんでいた。おれがジョギングで甲板に出たときいつもオールマンは風の当たらない後部甲板の物陰に置いた彼専用のデッキチェアーに腰を降ろして海を見つめていたなあ、そのそばを走り抜けるおれへ向けてきたその顔には穏やかな満ち足りた思いの微笑が輝いていたのが不思議でならなかったが、いまにして思えば地上の財や富や名声を求めてやまない人間の業から解き放されていたオールマンの目に海は、ただ青い水と空と白い雲があるだけのものでは決してなく日々見あきることのない無限の数の新しい発見をしていたのだろう。考え直してみれば水と空の青さも白い雲も刻々と変わって瞬時として同じものを見ることはないのだろうし、ただ水だけが広がっているとしか思えない海面にもよくよく見ると無数の種類の生き物だちが飛び交い泳ぎまわっているのだろう。地上のものの何ものをも求めないオールマンの目にはそれらのすべてが見えていて満ち足りていたに違いないと青柳は思った。
エンガノが感無量の思いの表情でオールマンが作ってくれた料理は最高だったですねえ船長この先二度とお目にかかることがないのだと思うとこの世が終わりになってしまうみたいに気落ちしてならないですよ、マックスというデキソコナイがいなかったらいまこうして眺めている香港の黒社会をあの人は好きなように動かしているんですよね、そういう人にあんなに良くしてもらったことが夢みたいでまるで信じられない、いったいどんな心境からああまであっしら乗組員につくそうという気持ちになったんでしょうねえと尋ねられて青柳は胸のなかで、地上の地位や富や名声を求める欲望から解き放たれて他人をおのれの欲求の対象と見ることがなくなったときはじめて人は、他人へ何一つ求めることなしに供する無私の奉仕に無限の喜びを感じることができるのだろうと思い、オールマンはそれができた希少の人であったことをあらためて思い知って感無量になっていた。青柳はそれを言っても理解できないかもしれない気の良い二等機関士を優しい気持ちで見つめ、もしオールマンに会うことができたらぜひそのことを聞いてみようではないかと言って微笑した。
それへエンガノが頷き調査のすべてが終わったという大きな溜息をついて青柳を見つめ、あっしは明日の早い便でサトへ戻って女房子供の顔をちらっと見てから不定期船に乗り込みますんでサンマリクルスで船長にお会いできるのは三ヵ月後になりますねえ、このドック入りのあいだ船長は日本へお帰りになるんでしょうねと言うその意味へ青柳は苦笑して否定の首を振り、いやいや帰らないことにしたんでその話は今年もお流れだなと言ってお袋はいよいよかんかんになって怒るだろうなと思い、どこかの国のオフシーズンのリゾート地へ行ってぼんやり日を過ごすことにするさと胸中で呟きこの十八年間そうやって過ごしてきたリゾート地を思い浮かべた。好きになれそうな町を求めて一週間ごとに宿を変えてさまよい落ち着いた先はいつも海がすぐそこに見える場所であったことが思い浮かんでいた。エンガノが眉根を寄せてしかしねえ船長お節介な口出しをしたかないんですがそういう暮らしをいつまでも続けていられるものでしょうかねえ、若いうちは港々に女ありで楽しくやっていけるでしょうが十年二十年はあっと言うまに過ぎてしまって年寄りになったとき一人身じゃあさびしかないですかと言った。そのときはそのときだよと苦笑して言う青柳の胸中にまるで灯がともったようにオフシーズンのリゾート地で会ってともに暮らした女性たちが思い浮かんできた。その誰もが何かの重い失意を胸にいだいていて止まり木を求める疲れた小鳥のようにやってきて青柳に会い、帰らなければならない時間に急き立てられ引き裂かれるようにして去って行った。おれはこの先ずっと船に乗り続けてシーズンオフのリゾート地でそういう幾人もの女性に会うことだろう、その一人といつの日にかどこかの国のいまはまだ知らない町で穏やかな老後をともにするかもしれない、それでいいのだ、オールマンがこれを聞いたらきっと「それはいいですねえ」と顔を輝かせて言うに違いないと思った。
あっしはね船長とエンガノが身を乗り出してきてオールマンは夜の闇にまぎれてゴムボートかなんかでこっそり海の上へと逃れて行ったんだと思いますよ、本船がマラッカ海峡を通ったときは月がない真っ暗闇の夜だったんで減速して走ってたから楽にそれができたはずです、海はすっかり凪いでいたし一番狭い地点を選べば岸までわずか七キロほどの距離でしょ泳いでだって行き着けるんだからそうしたに違いありませんよと言った。微笑を浮かべて黙っている青柳へエンガノはさらに言葉に力を入れて船が港に着いてもオールマンがオカに足を降ろさなかったのは万一の危険を考えた用心のためだったんでしょ、だから定年で船を降りたあともどこかに身を隠してひっそり暮らしたかったに違いないですよと言い、照れくさそうに肩をすくめてまあ言ってみればあっしの気持ちとしてはそう考えたいというただの願望なのかもしれませんがねと小声になって付け加えた。
青柳は無言でうなづきオールマンが深夜の暗い海上をゴムボートを漕いで遠ざかって行く姿を想像した。そうであって欲しいと焦がれるように思った。だが考えてみるまでもなくその可能性は皆無だった。さよならパーテーで飲んだカクテルの酔いをさまそうと甲板に出て闇夜の海へ転がり落ちたこともありえなかった。あのボスが放った殺し屋の執拗な追跡から逃れきったオールマンが金目当ての押し込みに殺されて海に投げ込まれるなどはなおさらありえないと青柳は思った。あの夜オールマンは……と青柳はそのことに思いを沈めて眼下に広がる夜景の灯火を見つめ、この真っ暗闇の底にまたたく無数の灯火のようにあの夜の月のない真っ暗な海では無数の海ホタルが青白い光を輝かせていただろうと思った。闇の甲板上でそれを見つめるオールマンの姿を思い浮かべる青柳の耳許へエンガノが苦しい胸の思いを打ち明けるように小声で、オールマンは我が身を海に投げ込んだんでしょうかねえ船長、オカに上がった先で待ち受けている人目を忍ぶ侘びしい暮らしに嫌気がさしてと言った。
遠くの暗い海上でまたたく無数の船の光に目をやったまま青柳は首を大きく振ってそれはないと否定した。でしょうとエンガノは声を弾ませあっしの言ったようにオールマンは夜の闇にまぎれてゴムボートでこっそり海の上へと逃れていったに決まってますよ船長と言った。それを遠くのこだまのように聴きながら青柳は胸のなかで激しく否定の首を振ってオールマンにはオカに暮らしはなかったのだ、海の上の生活こそがオールマンにとってのオカの暮らしそのものでありあの小さな船室こそがオールマンにとっての家であったのだ。そういうオールマンが定年退職を迎えて船の上からオカに降りなければならない日は、オールマンにとって人生そのものが終わりを迎えた日そのものであっただろう。青柳の脳裏にさよならパーティの夜オールマンが見せていた穏やかで満ち足りた何一つやり残したものがない人だけが持ちうる安らかな微笑が思い浮かんでいた。そうなのだあの夜オールマンはみずからを……と思った青柳は視線の先に広がる夜の闇のなかに、海ホタルの青白い光に照らされながら海の安息の深みへとゆっくり沈んでゆく白いオールマンの死衣装のキャンバス袋が見えていた。