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2001 国際保健協力フィールドワークフェローシップ 参加報告
国際保健協力フィールドワークフェローシップに参加して
豊川 貴生(琉球大学医学部6年)
 
 「なぜ国際保健に興味があるのか」と聞かれることがよくあった。「なぜって…」。改めて聞かれると、私はたびたび言葉に詰った。きっと、「ろくに国内には目を向けず、一見華やかに見える海外ばかり安易に興味が向き、浮き足立っている」とでも思われていたのだろうと諦念の感に陥ることもしばしばであった。やがて、「海外には、日本で目にする機会が少ない現実を実際に目にし、考えることが出来るから」などと、もっともらしい答えをあらかじめ用意し、出すようになっていた。
 しかし、この回答に、私自身どこかが釈然としないものを感じ、原点に近い答えを探すようになっていた。そして、この答えを探す作業は、私がなぜ医師になることを志したかという、大きな二つの動機と深く結びついていたことに気が付いたのである。
 一つは、borderlessな職業としての医師像を抱いていたことである。私は韓国籍を有している。日本という国に身を置きながら、異国の国籍を有しているという事実は私自身の自己認識過程に重要なファクターであった。そして、日本で生きていくには決して有利とはいえない事実をバネに、いつか国籍を超えるような職業につきたいという強いモチベーションに変わったのである。
 もう一つは、communicationに重きを置く職業としての医師像である。私は幼少の頃から円滑なcommunicationが大の苦手であった。それは今も変わらない。今まで幾度となく周りの人を傷つけてきたように思う。人と良く・善く対話が出来る自分になりたいという、その希望がやがて医師を目指す動機となった。
 このような動機を志とし医学部に進学した私は、いくつかの実体験を経て、国際的な視野に立ち、かつ対話を重んずる国際保健という分野に興味を持つようになった。この「国際保健」こそ、私にとって国境を越え、健康という人類共通の目標について、語り合いを通じて双方が学びあう“borderless”“communication”dynamics for healthであり、自分が求めていた医師像でもあった。
 一般に、国際保健は「国際」と名の冠する活動のため、mass(大衆)を対象にし、費用対効果の面からも特に予防活動に重きが置かれることが多い。しかし、活動を実践するのは、紛れも無く一人一人の個人なので、結局予防活動に携わる人間は、個人の社会活動における健康のための意識や行動変容を促すためのメッセージを伝えることになる。だが、それは言葉で簡単に表現できるものではない。至難の業である。今回のフェローシップでお話を伺えた経験豊富な諸先生ですら、思い通りにいかないことがしばしばで、予防活動の効果的な実践に頭を抱えており、伝達方法の変更など様々な工夫を現場で重ねているということを包み隠さず教えていただけたことは大変貴重であった。
 今回14名のメンバーがフェローシップの海外研修に参加した。自明のことだが一人一人が各々の内的世界を有していた。研修期間中、参加したメンバーの間で何度も意見の衝突があった。机を叩き、声を荒げる場面も一度や二度ではなかった。しかし、communicationを通して、お互いの価値観を認め合い受け入れることで、お互いの関係が新たな段階へと進んでいった。Borderlessは国境にあるのみではなく、すぐ隣にあった。自分が欲していた生き方、すなわち国際保健のスタイルは、実は身近なところにも求められていたのである。
“Think Globally, Act Locally.”
 この言葉は開発分野で余りにも有名な言葉である。私はこのスローガンを耳にした時から、その言葉の真意を誤解していたように思う。私は“Global”という言葉から漠然とした、そして、無味乾燥な世界像を想像していたように思う。 「貧しく、紛争が止まず、難民が溢れる第三世界、そして、物的には豊かだが心が荒廃し、共同体が崩壊しつつある先進諸国…」などと。
“Think Globally, Act Locally.And Think Individually,Act Integratively”
 このフェローシップを終えた今、世界の一人一人の顔を頭に浮かべることが出来るようになったと感じている。各々の生活を、隣人を、内的世界を有して、各々の土地で一生懸命生きている人々。大声で泣き、笑い、生まれ、そして死んでいく人々。我々と彼ら一人一人がお互いを意識し合い、共に生きていかなくてはならない一私はこの言葉を、強調するためにあえて加えたい。
 
国際協力の現場を見て・・・
後藤 杏里(東京女子医科大学5年)
 
 物質的豊かさの中でぬくぬくと過ごすことが出来ている私、その一方、貧しさの中でなんとか生きている人々。このように世界には色々な暮らし方、考え方をしている人がいるということをはっきりと認識したのは、小学校低学年の頃であった。それは、遊ぶことや学ぶことの面白さを発見し始めた私にとって、驚きであると共に「どうして?」という疑問がふくらんだ。中でも、働かなければならなかったために学校に行くことができず、読み書きさえできない大人が沢山いるという話を聞いた時の衝撃は大きかった。小学校6年生になった年(1990年)はちょうど国際識字年に当たる年で、私の関心はますます高まり、自分達なりに紙芝居やポスターを作って下級生に訴え、学校全体で募金を募った。今から考えれば、幼かった私達は、それが自分達に出来る精一杯の国際協力のように感じて満足していた。しかし、ある時期から国際協力=資金援助という図式に疑問を持ち始めるようになった。
 国際協力とは、一体どのように考えるべきものなのだろうか。この10年間に学んだ知識や精神的成長だけでは、世界的視野に立って国際協力をどうとらえればよいのか、はっきりとした答えをまだ見つけることができなかった。この fellowship への参加は、こうした思いを少しずつ確かなものにしたいと考えたからである。そして、この11日間に実際経験したことは、国際協力へのとらえ方をより確実にするものであった。WH0、厚生省、JICAの先生方からのお話を聞くだけでなく、実際に中部ルソンでの母子保健プロジェクトを見た時、国際協力というものが協力を受ける側にとって直接役に立つものであり、今後の発展につながり、彼ら自身で存続できる方法でなされなければならないということをはっきりと認識できた。特に、JICAの柴田さんが現地の保健婦の方々と共に仕事をしながら、褒めることによって、その人を励ましたりサポートしている姿は印象的で、その結果、現地の保健婦の方々は自分達で仕事をしているのだという自信で輝いて見えた。これが現地に即した、現地に残る国際協力なのだなと実感できた。この時、金銭的援助は必ずしも最上の協力方法ではないということを改めて感じ、私の心の中にあった疑問に対し、より明確な答えを見つけることが出来たように思う。
 将来、私がどのようにして国際保健に関わっていくことができるかはまだ分からないが、その形にこだわることなく、人と人との関わり合い、結びつきを大切に考える人間でありたいと思う。そして、地球上のどこに住んでいようとも、文化・宗教・言語が異なっても、根本的な喜怒哀楽の気持ち、生命への畏敬やそのかけがえのなさを思う気持ちは、人間として同じであると信じたい。「様々な相違はあっても自分だけの価値観の枠にとらわれないで、まるごとその人を受け入れられる人間が国際人なのではないだろうか。」と、おっしゃられていたJICAの萩原次長の言葉を目標に、自分の人間性と知性を磨いて、日本だけにとどまらず地球という広い視野で人を、人が住む地球をかけがえのないものと思えるような医師を目指したいと思う。
 このfellowshipは、熱帯雨林のように未知の宝がいっぱいに詰っていて、新しい貴重な体験、出会い、感動があった。帰国後も、沢山の思い出やメモ、資料、新たに築かれた仲間達から、まだまだ沢山の発見がある。これほど自分にとってかけがえのない財産を得る機会をもてたことにとても感謝している。最後に、この研修で出会った全ての人に、そして、特に笹川記念保健協力財団の方々、香川教授、バルア先生、泉さん、研修に参加した全ての仲間に心を込めてこの感謝の気持ちを伝えたい。
 
 
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おわりに (ハンセン病医学が、教えてくれたこと)
佐々木 将博(東海大学医学部5年)
 
 私は、らい予防法が廃止された年に多磨全生園を訪れ、我が国のハンセン病の壮絶な歴史を学ぶ機会を得て以来、少なからずこの病に関心を抱き続けてきた。
 本年5月11日、熊本地裁のハンセン病国家賠償請求訴訟判決は、元患者に対して国が賠償金を支払うことを命じ、政府は地裁判決の控訴を断念した。国会は、「ハンセン病患者に対する隔離政策により、多くの患者、元患者が人権上の制限、差別により受けた苦痛と苦難に対し深い反省と謝罪の意」を表した。
 熊本地裁で、かつて厚生官僚ながら、国の隔離政策の誤りを証言された大谷藤郎先生は、この判決に対して、「国の責任はもとより、ハンセン病だけではなく、すべての医学、医師、医療従事者の社会的責任が問われている。」と、本質をズバリついた発言をされている。
 さらに、大谷先生は、テレビのインタビューを通じて、また、新聞紙上で、「不確実性をもつ医学と国家権力が結びつき、社会的な弱者といわれる人々への人権侵害が、想像を絶する苦しみを生んだ事実」を繰り返し述べられている。
 私は、この数年間にハンセン病に生涯を捧げてきた医療者のことを、いくつかの著書を通じて知り得た。その中の一人、かつてWHOのハンセン病専門家として、そして沖縄愛楽園の園長として、人生の40年以上をもハンセン病とともに歩まれた、犀川一男先生は「門は開かれて」の中で、次のように回想されている。
 「私は、彼らと共に生きつつ、かえって彼らの中に学び励まされることが多かった。この病気が不治の病であった頃の、あの極限の命を生き、どん底の人生の苦悩と悲哀とを負って、それを越えていった病者たちの清楚な魂に驚嘆し、襟を正し、そこに人間の生きる真の姿をみた。「病み経て」はじめて心の中に真珠を作り出していた人たちの姿に、私は常に心惹かれたのであった。」
 私は、犀川先生をはじめ、ハンセン病に関わってきた人々から、医療の原点、人間の生き方といった、根本的な問題を突きつけられてきたように思う。
 上述したことを踏まえると、2001年という、21世紀のはじまりは、ハンセン病史においても極めて大きな意味をもつものと思われる。さらに、現在、医学を学ぶ私にとっても、このフィールドワークヘの参加、すなわち、全国の医療を学ぶ仲間とともに、フィリピンのハンセン病の実情のみならず、開発途上国の保健医療の実態を直視する機会に恵まれたことは、意義深いものである。
 詳細は割愛するが、当初、私の参加はある意味で、偶然の産物のようにも感じたのだが、研修するにあたって、偶然を必然にするためには何が求められるのか、ずっと考えていたように思う。
 国内研修の第1日目、大谷先生、紀伊國先生はじめ、錚々たる先生たちのメッセージは、「社会的人間、国際的人間になるために、自立した人間として、医学で、社会的立場を考えよ。将来の核となるものをつかみ、例えどの世界に生きようとも、その核を活してほしい。」というものであった。
 私にとって、11日間は五感を徹底的に働かせ、身体を動かし、精一杯の想像力で仲間と語り合う、実に刺激に溢れた時間の連続であった。医学・医療を学ぶ学生たちと、これほど濃密で凝縮された日々を共にできたことは、なんという幸福であろうか。
 あらゆるところで、一期一会かもしれないが、かけがえのない出会いがあり、私の人生にとって忘れられないであろう光景を目にしてきたが、ここでは、もう一度ハンセン病に触れてみたい。
 我々は、フィリピンのハンセン病の実情を学ぶためにホセ・ロドリゲス記念病院を訪問した。この病院の玄関には歴代の大統領が、ハンセン病患者に囲まれた写真が掲げてあり、いわば、フィリピンのハンセン病の研究と臨床の中心的な施設である。
 病院の講堂で、皮膚科及び公衆衛生の専門医であるDr. Sanchezから、ハンセン病の診断から治療まで説明を受け、はじめて患者さんに接した。さらに、ここではハンセン病を診断する過程を見せていただいた。あくまでも、皮膚からの組織を顕微鏡で診断するもので、日本のPCR法といった高額な機器による診断はなされていない。日本に留学経験をもつある医師は、フィリピンの医療事情に葛藤を抱きながらも、悲観する様子はなかった。むしろ、今なおハンセン病の罹患率が高い東南アジアで、この病の制圧のために精力的な活動をしている医師の表情には輝きが感じられた。
 開発途上国では、金がかからず、高度な技術を要しない住民主導の医療が優先され、それが必要であることは、一応理解していたつもりではあるが、現地を見て学ぶことがいかに問題意識を高めるのか、改めて心に刻みこまれた。
 ハンセン病に対する社会的偏見についても尋ねてみたが、隔離政策こそないものの、現在でも偏見は存在し、差別がもたらす問題は解決されていない。
 このフィールドワークを終了し振り返ってみると、ハンセン病医学を通じて、実に多くのことを学ばせていただいたと思う。ハンセン病のもつ歴史的、社会的、人権的側面をしっかりと認識し、強制隔離によってもたらされた惨めさを思い起こし、しっかりと伝えていくことが、この研修に参加したものの責務であると私は考える。
 これから再び大学生活に戻ることになるが、この研修に当たって、ずっと学生たちにエールを送り続けてくださったバルア先生、最高のコーディネイトをしていただいた泉洋子さんに、心から感謝するとともに、キセン、シホ、アンアン、トシ、ココ、ケイコ、ヒロ、ジミー、ジュンジュン、タケ、アコ、ユウスケ、テッペイと呼び合った仲間たちと、「医療に何が求められるのか」、「何をすべきなのか」、考え続けたい。
 終わりに、人道的に、あるいは、医学的にハンセン病制圧活動を展開し、このフィールドワークを全面的に支援していただいた笹川記念保健協力財団に対して、厚く感謝申し上げます。
 
待ちに待ったフィールドワークと沢山の得たもの
佐藤 弘之(新潟大学医学部5年)
 
 2年生の12月のある日、大学の掲示板でこのフィールドワーク・フェローシップの募集を見た時から応募できる学年になったら参加しようと思っていた。
 単純に、ただでフィリピンに行けて面白そうと思ったのも理由の一つではあるが、以前バイトをしていた八王子の国際研修センターで、JICAのプロジェクトに参加していた様々な国の研修員達と知り合い、JICAが各国でどのようにプロジェクトを立ち上げ、それを住民がどのように感じているのかを知りたいという理由もあった。
 JICAのプロジェクトに関しては、湯浅先生や柴田さんのように、フィリピンの文化や習慣を考慮しながらプロジェクトを個々に調整し、現地の住民からも高く評価されていることを実感することができた。地域に根ざした医療が存在し、この積み重ねが国際保健には重要であると感じさせられた。
 それと同時に、今回のフイールドワーク・フェローシツプに参加して重要であったことは、私にとっては予想外に二つの大きなものを得たことである。
 一つ目は、世界で活躍する先生方にお会いできたことである。先生方からお話を伺うこと自体は、プログラムにより予め分っていたことではあったが、実際にお会いすると、発せられる一言一言に今までの経験に根ざした重みがあり、それと同時に、私たち学生を育てていこうとする暖かい気持ちが感じられた。特にWPROの尾身先生が予定時間を大幅に越え2時間以上もお話ししてくださったことは、感謝し尽くせないことである。人生哲学について教えてもらったように感じるが、これからの人生で何かにぶちあたったら、先生がおっしゃっていたように、自分に素直になって一番いい方法を見つけたいと思う。そして、いつか尾身先生のように、後輩達に同じ事を伝えられるような人になりたい。
 二つ目は、全国から来た13人の仲間である。私は今までにも、ロシアの大学での医学研修や、メキシコでの地域医療見学、アメリカでのHIV/AIDS患者に対するボランティアに参加したことがあったが、どれも1人か2人で行うものばかりであった。今回のように個性的な13人が集まり、お互いの経験や知識をシェアしながら集団生活をすることはとても刺激的であり、みんなと生活していく中で自分の長所や短所にも気づくことができた。
 国際保健の分野では、問題にぶちあたったとき、正しい答えが一つあるのではなく、それぞれのバックグラウンドに基づいた答えがある。例えば、14人いれば14の答えがあり、それらの答えに対して議論を深め一つに絞り込むことにより、14人における最良の解決方法を得られる。フィールドワークに対しても同じことが言える。どのようにでも答えが出せる中で、我々14人は現在の能力で最善と思われる「答え」を出した。それは周りの人から見れば不十分であるかもしれないが、この結果を出していく経験をできたことに満足している。これが国際保健に関わる醍醐味なのかもしれない。将来、人種・国籍・民族・性別・文化などが異なる人たちと、人々の健康向上という一つの目的のために、議論しあいながら仕事をする、その小さな一歩を経験できたことを二つ目の得たものに含めておく。
 最後になりましたが、今回お会いしたすべての方々、特にバブさん、泉さん、学生時代に貴重な体験をシェアした13人の仲間達に感謝します。
 もう一つ最後に、世界中の子供たちが幸せに暮らせる日が来ますように!!
 
フイールドワークフェローシツプに参加して
清水 寛之(慶應義塾大学医学部5年)
 
 私が、このプログラムに参加した理由は、日本以外の世界を見てみたいというのが一番大きかった。何故ならば、今まで、外国を見たことが無く、日本という国を内側からしか見たことが無かったので、日本以外の国を見ることで、違った日本の見方ができるかもしれないと思ったからであった。では、国際保健協力の何に興味があるのかというと、これは、自分なりの国際保健協力に対する解釈であり、異論を唱える人もいると思うが、今は海外で働くことよりも国内にいる外国人労働者の医療に興味があり、私は、これも国際保健協力の一つなのではないかと思う。このように外国人労働者に興味を持ったのは、フェローシップに同行して下さったバルア先生のインタビューの中に、フィリピン人男性が、不法滞在なので病院に行くことが出来ずにバルア先生に電話で相談する一節があり、これを読んだ時、ふと私の家の近くに住んでいる外国人は病気になったらどうしているのだろうかと思ったのがきっかけだった。国際保健と聞くと、海外を連想してしまうことが多いと思うが、私は、このように国内のことに興味を持ってフェローシップに参加していたので、みんなからは少し違うのではないかと心配をしていた。しかし、ミーティングの中で「国際保健協力とは?」という話題になり、自分の意見を言うことができ、それに対する反論や共感も聞けた。このことは自分にとってはかけがえのないもので、フェローシップに参加した一つの成果だと思っている。
 フェローシップに参加して得た一番のものは、いろいろな知識と考えを持つ仲間とめぐり会えたことと、その仲間といろいろ議論できたことだと思う。また、国際保健の問題を解決するには医学的知識や見方だけでなく、様々な角度から問題を見てアプローチすること、自分なりの哲学を持つこと、人間とは何か、自分とは何かを考え、知ることが重要だと痛感した。また、このフェローシップは国際保健協力のための研修であるが、尾身先生、Dr. Ramos、バルア先生や他の素晴らしい先生方の講義は、国際保健という枠を越えて、人間とは?人生とは?という問いに対するヒントや気付きを与えてくれるものだった。この11日間は、フィリピンの人々の逞しさ、底抜けな明るさ、そして、子供達の大きく輝く瞳と笑顔、たくさんの元気、思い出、気付きを与えて頂いたとても貴重なものだった。
 これから10年後、20年後、更にそれ以降、自分がどこでどのように医療に携わっているかはフェローシップに参加した今でも分からないし、自分の考えや環境も変化している。ただ、今もこれからも変わらないと思うことは、フィリピンから日本に戻って来てからもう一度読み直したマザー・テレサのこの言葉である。
 “私達のしていることは大海の一滴に過ぎません。でもこの一滴が無ければその分狭くなり、海でなくなってしまうのです。”
 これは、私が、ボランティアを始めるきっかけとなった言葉であり、今回のフェローシップを通して、これからどこでどのような活動をしようとも、この言葉にあるように大海の一滴(世界の中の一人)であることを感じられる活動をしていきたいと改めて思った。
 最後になりましたが、このような貴重な研修に参加させて頂いたことに感謝申し上げます。バルア先生と泉さん、参加者の方々(みんなご苦労様。これからも宜しく!)、そして、今回のフェローシップで出会った全ての方々に感謝申し上げます。
 
未来への責任
高岡 志帆(大阪市立大学医学部5年)
 
 エンパワーメントとは誰かが誰かに力を与えるということではなく、人々自身の中から湧き起こってくるもの、ということである。(「いのち・開発・NGO」より)
 私自身の中から湧き起こってきたものとそのきっかけ:
 私が「国際保健」に興味を持ったのは、医学部3年生の秋であった。歯科医である父が、NGOでネパールに行くというので同行した。異なる言語や文化を持つ社会の中で「ボランティア」することがとても新鮮であり、楽しかった。強烈なインパクトを与えてくれたこの経験が私の内なるエネルギーとなり、世界中の医学生と交流をもつようになった。その中で、様々な「楽しい出逢いと出来事」があり、様々な生き方や価値観が私をゆっくりと発酵させてくれた。一方、大都市・大阪の負の遺産と言われている釜が崎で、路上生活者達におにぎりや生活必需品等を配るようになった。このような過程で、救いがたい貧富の差や解決の糸口の見えない政治的問題を抱えた「社会」という大きな壁にぶち当たり、私のエネルギーは徐々に尽きていき、気がつくと疲れきった私がいた。
 この疲れた自分とは裏腹に、やはり私の「国際保健」への興味の残り火はまだ燻っており、この度の国際保健協力フィールドワークフェローシップに参加することになった。研修の間中、様々な光で私の心は暖められ、心のエネルギーが充電されていった。ゴミ山で私の髪をずっと引っ張っていたあの黒い瞳の少女、力強さと優しさとで多くの研修生を魅了した先生、太陽のような笑顔で私を癒してくれた同志...。私は彼らを好きになった。そして、彼らの思いに応えていきたいと思っている。
 未来への責任(responsibility)は、今応える(response)ことである。不安や疲れを感じるときは、前へ前へと進まずに一歩後ろに下がればいい。その一歩は責任の放棄を意味するのではなく、螺旋のように連なる軌跡を描く未来を築いていく過程の一歩である。そんな中、本研修で応えていきたい対象を見つけることができたことを嬉しく思う。
 最後に、全ての人に感謝の意を表したい。








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