日本財団 図書館


バーナードの夢(十一)
棚橋 隆
 
 人が日記を書いたり写真をとったりするのは、自分の記憶が不確かでいたってアテにならないという事をよく知っているからにちがいない。しかし、ペンを紙に下したり、カメラのシャッターを切ったりする時、歪みはすでには始まっている。その原因は私という物体や、私の思考自体が絶えずゆらいでいるからだ。自覚される真実は果してどこにあるのか?印象もまた、刻々と変っている。形も色も光も翳も陽炎のようにみるみる姿を変える。鴨長明はおおよそ次ぎのように書いている。ここに方丈記の主題がある。
 「人と栖と無常をあらそうさま、唯、朝顔の花に宿る露に異ならず、また、水の泡にぞ似たりける」。人生の無常を水の泡にたとえる鴨長明の思惟はいたって現代的、科学的で、ナチュラリスト、ライアル・ワトソンがこの方丈記を読んだらどんなに刺激され、触発されることだろう。アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキ、昨年九月十一日の米国での同時多発テロ事件のような悲劇はしがない私どもの人生にミニ版として絶えず生起している。今日も明日も、そして、いつでも。
 バーナードが陶芸の深い魅惑の世界に初めて気付いたきわめて重大な瞬間、その契機について私の得た資料は今の所、残念ながら少ししかない。それも非常に不確かなものでしかない。それを補充したり補正したりする時間は老人の私にはもはや与えられない。
 式場隆三郎の「バーナード・リーチ」(式場編著、建設社刊、昭和九年四月二十五日発行。普及版、六一〇部、八円五十銭。特装版九十部、十八円特装版はリーチの署名入)。リーチ自身の自伝(「東と西を超えて」)、それと、「リーチ展」カタログの年譜(一九八○年、大原美術館、朝日新聞主催)それだけ。私はこのカタログは、その東京三越の会場で入手した。このカタログ作製時には、浜田庄司が一九七八年に八十三歳で亡くなり、リーチは一九七九年、九十二歳で亡くなり、この二項目が入っている。セント・アイヴズで私はリーチに「Dr.シキバの貴方の本、よまれましたか?」と尋ねたが、彼は「いや、私は日本語の読み書きはできないから読んでいない」ときわめて素っ気ない返事で全く関心を示さなかった。Dr.シキバにも興味はないようですぐ話をそらせてしまった。彼らは親友だったのに。.この本の出版された昭和九年四月には、四十七歳のバーナードは四回目の来日をしていて、九十冊分に署名をいれている。
 式場隆三郎博士は多力者だった。日本医師会創始者の武見太郎はその会長、式場は副会長。市川市に精神病院(国府台病院)を設け、現に私の住んでいる大室山の高台に、富士も、伊豆七島も見晴らせる最高の眺望を持つ病院を建てた。しかし、そこはしばらくして一時、ホテルとなり、今はある会社の保養所になっている。美術畑ではゴッホの熱心な研究者で、昔、私も彼の編著の「ゴッホ画集」を愛読していた。が、その本は戦災で失った。ある精神障害者の建てた特異な建築について報じた、きわめて奇異な著書「二笑亭綺譚」貼絵画家、山下清を熱心にパトロナイズした事でも名高い。柳宗悦一派の民藝運動にも深く関わった。子息、式場俊三氏は次のように書いた。
 「長岡の花火」という貼絵がある。
 昭和二十五年一月の作で、前年の夏、信濃川にあがった花火を見物にいった時の思い出である。この作は式場隆三郎の応接間にかかっていて、そこへ柳宗悦、バーナード・リーチの両氏が遊びにきたのだが、二人はまるで他の話題を忘れたかのように、この絵を眺めつくしたのである。「なんとすこやかな単純さか」と柳氏がため息をついた。リーチさんは友人、梅原隆三郎氏の血みどろの画業をいとおしむように、「五十年後に残るのは花火の方じゃないかな」とつぶやいた(式場隆三郎生誕百年記念展「式場隆三郎とその時代」平成十年七月、市川市)。
 昨年三月三日、日本民藝館で私はリーチについて拙ない話をしたが、その最後に私は「バーナード・リーチは素朴派だ」と断定を下した。それは右の俊三氏のリポートの鮮烈な印象に基づいている。「素朴派」の理念、または、理論については日本での研究は昔も今も遅れていて充分ではない。しかし、素朴者を尊重するリーチのこの大胆な予言は、梅原には気の毒だが芸術的にやはり正しかったのてはないか。そして私のあの時の言葉もある程度には式場降三郎は昭和四一年、六十七歳で亡くなった。清は「先生は六十七で死んだな、ちょうどいいな」と言った。清が、その折りしも地方の自分の展覧会へ川向いて日本人の平均寿命の話をしていた時だった。それにぴたりだったのだ。
z1056_01.jpg
1911(明治44)年4月、美術新報社主催の新進作家小品展での記念写真。前列右富木憲吉、左は坂井犀水、後列右森田亀之輔、B・リーチ。(建設社刊「バーナード・リーチ」より転載)
 式場が清をパトロナイズしたのは、精神科医の立場と美術愛好家の立場の両面からきている。だが式場は余りに有名人で余りにも多力者だったが為に、彼のパトロナイズを悪くとる人がある。しかし、それは誤りだ。式場隆三郎は純粋に美を愛する医師だったのだ。清を為にするような邪意は全くなかった。誠実だった。
 バーナードが来日してまもなく楽焼を体験して陶芸に開眼したことはすでに述べた(三月号、「バーナードの夢(九)」)、彼は自伝で、Enthralled I was on the spot seized with the desire to take up this craft(福田陸太郎訳「このおもしろさに心を奪われた私は、即座にこの工芸を自分も始めてみようという欲望にとりつかれた」四一頁)と述べている。この福田訳はまちがっていない。正しい。しかし、問題は、「Enthralled」の一語を訳するのに十四字を費やしていることだ。英語では「この面白さに」などという表現はなされていない。説明的で蛇足なのだ。これでは感動が冗漫に稀薄になってしまう。英語の、この過去分詞を使った簡潔で強い表現法は日本語にはないし、英語は強いストレス・アクセントで、日本語はピッチ・アクセントなので、表現が、弱く冗長になってしまうのだ。言葉は翻訳しただけで意味が充分に伝わる訳ではない。この文の初めにそしてまた前号にも私が記録の意味について色々と述べたのは、この理由による。リーチは原作(英文)の五十七頁で次ぎのように述べている。
  I began to think more seriously of  how to make a living by some combination of art or craft,possibily with Tomi or Takamura.(福田訳「多分トミか高村といっしょに、美術とか工芸とかを組み合わせて生計をたてるにはどうしたらいいかをいっそう真剣に検討し始めたのは、この頃のことであった」四十一頁)
 リーチの陶芸への志はこのように強く触発されたのだ。それを生活の糧にしたいと。福田訳は日本語の特性によって浮世絵(または日本画)のように淡泊平板で、リーチのこの原文はあたかもフォンタナの油絵のように形象がナイフでキャンバスに、ずばり、切り裂かれたかのようである。強い。こうした文章のあたりに、他にリーチの原文で二、三、腑に落ちぬ所がある。早い話がリーチたちを楽焼茶会に導いたをgahoshaは「画報社」と訳されているが、そのような名のギャラリイを私はどの資料にも発見できなかった。リーチの誤記憶らしい。彼はまた、富本憲吉をTomi(トミイ)と愛称でよんでいるが、この発音は和訳にあるように「トミ」では日本語だと女性になってしまう。「トミイ」が男性だ。福田はリーチの元の発音を実際に耳で聴いていないのである。(つづく)
(詩人)








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION