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中国民間版画ノート(六) 外国人による中国民間版画研究 4 水尾龍造〈2〉
瀧本 弘之
2.業余で始めた中国民俗研究
 一九〇五年から一〇年にかけて彼は、師範学校の外国人教師としてこの地域て教鞭を決った北京出による教職てあり、様々な学利を教えて中国の人々の問に入り込み、深くその生活と習慣を体得していった、勤務地は遼東半島の中央部で、岫岩というところである。現在も地図上に「岫岩満州族自治区」がある。日本が日露戦争(一九〇四〜〇五)に勝利し、その後の第一次世界大戦(一九一四〜一八)参戦、山東出兵と、中国への傾斜を深めていった時代であり、当地の文化への無理解から起きる軋礫が拡大していた。
 「当時は、中国の風俗について特に研究した日本の本はありません。中国でさえも詳しい研究はないんです。それで、どうしても、中国人の生活様式を研究しなくてはいかんと感じたんです、…中国人が生まれてから死ぬまでを研究する、そしてその間に、誕生から成長、結婚、中年になっての社交、そして病気、死、つまり全生涯です。」〈注1
 明治三十年代に出た参謀本部の「北京誌」(一九〇〇年)などにも、北京の上流階級の風習についての概説的な記述はされていたが概論に過ぎず、より詳細かつ具体的にその現実を掘り下げたものは、事実上皆無であったといえるだろう。
 ひとくちに風俗といっても、歴史の永い中国のあらゆる分野を包括していて、しかも領域広大な中国のことであり、テーマの大きさに范洋としてつかみ所が無いという印象がある。だから、これだけの大きなテーマを研究するのに、単身、業余で行った人は未だ彼以外を知らない。当時の日本の漢学の世界ではこうした卑俗な民間の、しかし実は木質的なテーマにたいして発想の萌芽がなかったのだろう。
 一九一〇年、満鉄に就職すると永尾はまず撫順炭鉱に働く一万人に及ふ中国人クーリーの勤務体系の「管理マニュアル」を、現場に即して創出するといった仕事を手かけていく。全く異なった文化的背景を持つ下層階級の人々を、いかにして使いこなすのかと考えた結果、こうしたものが生まれたらしい中に強権や威圧では人を動かすことはできない。言葉が通じないと、日本人は直ぐにクーリーに暴力を振ったという。これに永尾は心を痛めてもいた.クーリーの価値観を理解して、それに沿うような人事管理をしなければ、効率のいい経営はおぼつかない。彼はこの仕事の過程で現地の最下層の人々と接触しながら、いやおうなしに中国の伝統と文化を実地に学んだのであろう。その成果が自費で刊行した「中國語炭礦用語集」であった。意志疎通に必要な言葉から、まず始めたのである。
 東亜同文書院卒業で北京語も上手く、中国の習慣にも通じた彼は、数年後には「出世」するが、初めに志した風俗資料の収集と研究は激務の間を縫ってこつこつと途絶えずに続けられた。
 時間に余裕の無い彼のとった方法の中心は、中国人による聞き取り(書き取り)調査であった。各地から満洲に集まってきた学生や知識人らに、地元の風俗習慣を書き記してもらう。また、複数の人物から同一地域の風俗習慣などを聞き取り調査している。
 「調べたい事項を書いて、多少学問のある中国人に家に来てもらって話しを聞きました。日曜に。けれどもそれではとても進まないですから、集めた資料を基礎にして、項目を書きました。中国人を雇って、各地方の研究をやらせた。…(略)…中国人の学問のある人を四、五人雇いました。家内も手伝ってくれました。」〈注2
 こうした研究方法は、満鉄という組織に勤務しほぼ北方の大連に釘付けされている永尾にとっては、私費を注ぎ込んで行える最善の方法であったろう。広大な中国の風俗を研究するのに、最も能率の良い、しかも結果の出易い方法を選んだのである。実証性に裏付けられ、しかも同時代の各地のデータを集めるというこの方法は、文献中心のそれまでの漢学では決して試みられなかった画期的な方法であった。永尾が言わば民間のディレッタントであったことが、中国民俗学にとって幸いしたのである。それにしても私費で中国人の知識人を四、五人も雇うということは、よほど経済的に余裕が無ければできない。
 聞き取りという方法は、それまでの文献主義の漢学の伝統からは外れたものであった。文献中心の学問では、生きた人々から直接取材するという本来は基本であることが、過去をあまりに尊重するためややもすると等閑になっていた。しかし、もとより当時の卑俗な民俗行事などに関して同時代の文献など殆ど存在しない。つまりは文献を自ら作っていくという作業からとりかかったともいえる。そして、これに膨大な過去の遺産である「方志」の「民俗」などの記事を併せて勘案する、彼独自の方法論が確立されていったといえよう。おりしも日本では柳田国男や折口信夫らの民俗学が勃興し、こうした方法の有効性や必要性が認識されていったが、これを「支那民俗」にまで拡大したのは、永尾一人ではなかったか。こうした方法論は、永尾が東亜同文書院で学ぶことによって自ずから実地に身につけていたものであったのではないだろうか。
 東亜同文書院は、東亜同文会(一八九八年に東亜会と同文会が合流して成立、一九〇〇年に亜細亜協会を吸収、初代会長を近衛篤麿公爵、その思想的源流は岸田吟香、荒尾精らに行き着く。創立期の主張は列強の支那分割に対する反対であったが、一九一三年外務省に対支文化事業部がおかれるとこの管轄下におかれた)が上海に設立した学校で、一九〇〇年に設立された南京同文書院が翌一九〇一年に上海に移動して東亜同文書院と改称、一九二一年には正規の専門学校に、さらに一九三九年大学令による東亜同文書院大学となったものである。
 全寮制の自治生活や学生による大陸調査旅行などは名高く、中国に対する独特の見方に基づく教育を展開し、また中国との「日支親善」を理想とする多くの有意の青年を集めた。日本敗戦後には廃校となったが、それまでに四千人以上の卒業生を送り出した。巧みに中国語を操る多くの中国通を生み出したが、学術界に出た人材は少なく(これは当時の学閥からは異端視されたためであろう)、主として中国での実業に携った人物が多いため、侵略を推進する機能の一端を担ったともいわれる。
 実地踏査記録をまとめた「支那省別全誌」は、学生自身による当時の実施踏査記録で、確かにこれは侵略にも利用されたが、本来の目的は地誌調査であった。
 書物を棄ててフィールドに雄飛し、現在の「支那」を対象とする点で、永尾の活動はまさに学生時代からの延長であったのだろう。
3.“昭和版”「支那民俗誌」とその挫折
 二十年以上に及ぶ孤独な研究の成果は、日中戦争開始三年目にして漸くその重要性が外務省から認められた。当時は既に日中戦争が始まっていて、敵国の民俗に対する掌握が必要であるとの上層部からの指示があったのではないだろうか。彼の民俗研究が「認められた」ということは、一面では現地の「宣撫工作」などに必要なため、積極的に利用しようということかとも思われる。一九三九年、外務省内に「支那民俗誌刊行会」が設立され、永尾の純粋な中国民俗研究に対して、印刷費の補助が与えられることになったのである。
 その結果、一九四一年までに大著「支那民俗誌」の一巻・二巻・六巻の三冊が刊行された最初の構想では全部を出版すると十四巻あり、「支那」に止まらず「満洲」「太占」を含んでいた。一年の年中行事から、冠婚葬祭、風俗習慣を網羅した壮大な企画であり、全部が実現していたら、日本人の中国研究の白眉となったであろう(もちろん既刊の三冊でも極めて優れた業績には違いない)
 しかし、まことに不幸な出来事が待ち受けていた。一九四二年一月に、長年の努力の結晶ともいうべき原稿六万枚、参考書籍、写真、絵画、その他中国各地から集めた土俗品など、将来中国民俗を研究するのに必要な一切の資料を火災によって失うのである。
 ことのほか親孝行であった彼は「支那民俗誌」第一冊目の後記で母への感謝を綴っている。その彼が第二冊の後記では、理不尽な罹災について綿綿と綴っている。
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「支那民俗誌」にカラーで掲載された門神像 紙は和紙に近い白い紙を用いて、自然な感じを醸し出そうとした努力か見られる
 「嚢に本書第二巻の筆を措くに当って、著者一身上に関する思ひ出が多かったことは、前巻末にこれを書いた。然るに本巻の印刷中にには、更に大きな事件が発生した。それは外務省の火災であって、為に支那民俗誌未刊原稿は悉く烏有に帰し、延いて本書の刊行を中絶するのやむなきに至ったこと、これである。
 一月九日の朝、出勤の支度を済ませて茶の間に行くと、折りからラジオを聞いていた妻が、丁度今外務省の火災についての放送があって調査課のほうから出火し、会計課の一部まで焼けたということであったが、支那民俗誌の事務所には影響はないかといふ。…(略)…助かっている見込みは万一にもある筈はないと直感したが、しかし永年の仕事の為に苦労させてきた家人に、あまり失望させたくない気持ちで一杯であったから、暖昧な返事をしておいて直ぐに出かけた。…(略)…拓務省のあたりから、路面は豪雨のあとのように濡れて居り、桜田門附近では、電車の軌道を浸した水が厚く氷結していた。見れば御濠の水も著しくその量を増しているやうである。」
 予想に違わず、全てのものが確実に失われていた。それまで生涯をかけて収集した資料や、仕事の合間を縫って汗水たらして書き溜めておいた六万枚の原稿、民俗研究のための民間版画などの諸々の実物資料もすべて灰と化していた。
 「その翌日のことである.用事で外務省に行くと、火事跡の整理が始まっていた。…(略)…原稿棚が並んでいた位置と覚しいあたりを掘って見ると、厚い灰の中から、方二寸ばかりの原稿の焼け残りが、十数枚も出てきた。…(略)…一たんはよい記念物だと喜んだが、一切を潔く忘れようとする今、かかる物は却ってその妨げになるであろうことを恐れて、再びこれを灰中に埋めた。
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「百分」の図。多くの神々を多色刷りした民間版画の「セット」である。実物が袋に入っている状態のものを写真に撮り、カラーで掲載したもの。この状態での「百分」を紹介した図版は極めて珍しい。
 思うに、私は出世を思わず、先輩や友人には礼を欠いでまでも時間を惜しみ、なけなしの財をも投じてこのことに傾注し、妻に対しては常にかういう風に云ひきかせていた。それは広い世間には、一人くらいの馬鹿者はあってもいいであろう。これもご奉公の一端であるかも知れないからといふことであった。しかし今やその馬鹿者の存在も許されぬ始末になったのである。それにしてもこのつまらぬ仕事が、数年前から満鉄・外務省・興亜院など、つぎつぎに厚いお世話を蒙ってきたことを思うと、誠に身に余る冥加で、つまらぬ原稿を失ったことなどは、さっぱりとあきらめてよい気持ちになるのである。」
 さっぱりと諦めてという言葉からには、自らを納得させようとして必死になっている痛々しい姿が浮かぶ。さっぱりと諦められるような簡単なものではないから、その記録をしっかりとしておくということになるのである。淡々と語る口調には、我々の生半可な感想を超越した宗教的な境地が漂っている。
 この失火で彼は、最も大切なものを失い、その三年後には日本の敗戦を迎えることになる。焼跡の東京で、彼はどのような日々を過ごしたのだろうか。いまとなっては、知る手立ても無い。
 年譜によると、彼はその後一度中国を調査に訪れている大火による全資料焼失にもかかわらす、外務省からの援助があって再度の挑戦を試みたようである。しかし問もなく敗戦を迎え、これらの資料もすべては「中国陸軍に没収」され、帰国する
注3〉。
●未完成に終わった壮大な計画
 現在、我々が目にすることが出来る氏の研究は「支那民俗誌」に集約されている。その内容は、
 「支那民俗誌 第一巻」(年中行事 正月篇 上巻)
 「支那民俗誌第二巻」(年中行事 正月篇 下巻)
 「支那民俗誌第六巻」(児童篇 上巻)のみであり、これ以外の全ての原稿は火災によって失われている。それは、
 「支那民俗誌 第三巻」(年中行事III 二月 三月 四月)
 「支那民俗誌第四巻」(年中行事IV 五月 六月 七月)
 「支那民俗誌第五巻」(年中行事V 八月 九月 十一月十二月)
 「支那民俗誌 第七巻」児童篇 下巻
 「支那民俗誌 第八巻」結婚篇 上巻
 「支那民俗誌 第九巻」結婚篇 下巻
 「支那民俗誌 第十巻」葬礼篇 上巻
 「支那民俗誌 第十一巻」葬礼篇 中巻
 「支那民俗誌 第十二巻」葬礼篇 下巻
 「支那民俗誌 第十三巻」満洲人篇(満洲人の風俗羽習慣)
 「支那民俗誌 第十四巻」蒙占人篇(蒙古人の風俗習慣)であり、この本刊行の部数の多さから失われたもののあまりの大きさを知ることか出来よう。
 中国の民間信仰や民間美術の研究にとって、永尾龍造の著作は不可欠の文献であろう。「支那民俗誌」には、同時期の中国人また欧米人の「民俗記録」より具体的かつ詳細に現実の民俗行事が記録されている。地域的には華北や満洲に偏ることは否めないが、写真や図版の数なども格段に豊富である。
 そして驚くべきことに、失われたもののなかには、まだ「未定稿」として以下の原稿があったのである。
 I 民間行事ニ朝廷入リテ宮中行事トナリタルモノノ研究
 II 民間ニ崇拝セラル神及ビ仏ノ研究
 III 満洲及ビ中国ニ流行スル民間ノ伝説
 IV 青幇ト幇トノ研究
 V 婦人ト小児ト結髪ノ研究
 VI 商人ノ間ニテ行ハルル特種ノ風習研究
 VII 商店ノ看板ノ研究
 VIII 農民ノ生活及農耕ニ関スル風俗習慣
 IX 寺廟参拝並ビニ参拝団体ノ組織ノ研究
 X 僧侶、尼姑、道士ニ関スル研究
 XI 飲食物ニ関スル伝説ト迷信ノ研究
 XII 疾病治療及医薬ニ関スル伝説ト迷信ノ研究
(a)山嶽・老樹・太陽・明星辰ニ対スル迷信ト伝説
(b)地震・雷・電・旋風・虹及ビ自然現象ニ対スル伝説ト迷信
(c)家屋及其ノ建築、河川ノ修理ニ関スル伝説ト迷信
(d)蝗虫及ビ農作物ノ害虫駆除ニ関スル伝説ト迷信
(e)其ノ他民間ニ行ハルル種々ノ迷信ニ関スル研究
 もしも彼が注意深く、失われた原稿の写しを残していたらと悔やまれる。今日、これらの原稿が存在していたら、彼の人生も「埋もれた国士」から大きく変わっていただろう。








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