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一九二二年李朝陶磁器展覧会についての一考察
 そごう美術館「日本民藝館所蔵李朝の工芸」展にちなんで
森谷美保
 
 本年六月、日韓で共同開催されるサッカー・ワールドカップを記念して、全国各地で韓国美術をテーマにした展覧会が開かれている。当館で開催する「日本民藝館所蔵 李朝の工芸展」もそのひとつである。本履では、日本民藝館に所蔵される陶磁器、木工品、金工品、石工品、民画など約百三十点の李朝工芸を展覧する。ワールドカップを記念して開催される展覧会の大半が、韓円の博物館、美術館に所蔵される名品を紹介したり、国内の李朝陶磁の逸品を集め展覧しているが、この展覧会もそれらと同様に、「日本民藝館の李朝の名品」を一堂に展覧するいわゆる「○○美術館展」と捉えられてしまうかもしれない。しかし、日本民藝館の所蔵品が李朝の美を発見し、日本に始めてこれを紹介した柳宗悦の収集品だということを考えれば、同じ「○○美術館展」でも、また同じ李朝の工芸品を紹介するにしても、出品される作品の意味は異なってくるだろう。
 本展では、柳宗悦が収集した李朝の工芸品を、柳宗悦の眼によって選ばれた作という視点で紹介をするそのものについて、柳はどう捉え、どう考えていたか、その作のどの部分に柳が惹かれたのかということに焦点を当て、展覧会を構成する。また李朝工芸の収集や朝鮮民族美術館をはじめとする、柳の朝鮮に関わる活動の足跡を辿りながら彼の多彩な活動の中で朝鮮がどのようなものだったのか改めてその意義を検証したいとも考えている。
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鉄砂雲竹文壷(日本民藝館蔵)
 展覧会の準備作業の中で、朝鮮民族美術館が設立されるまでの過程を見直していると、美術館が開館する以前の柳の活動中、一九二二年に京城(現ソウル)で開催した李朝陶磁器展覧会に注目させられた。柳の朝鮮民族美術館設立への活動は、一九二一年一月「白樺」誌上での「「朝鮮民族美術館」の設立に就て」(註1)に端を発するのだがこの時点では美術館を実際に設立するための具体的な計画や建物などは決定していなかった。しかし翌月同様に「白樺」で発表された「「朝鮮民族美術館」に就ての報告」では、朝鮮総督府の齋藤総督から美術館として使用できる建物の提供がされ、美術館設立は少しづつ現実味を帯びてくる。そして柳は美術館設立に向けて、持ち前の行動力で積極的に活動を続け、一九二二年十月には、それまでの活動の集大成ともいえる李朝陶磁器展覧会を開催するのである。この展覧会は朝鮮民族美術館主催であり、また柳が初めて朝鮮で開いた李朝陶磁の展覧会であることを考えると、これが彼にとって美術館設立前の最も大きな出来事で、この展覧会の成功が美術館開館の実現に向けての大きなステップになったといえるのではないだろうか。
 李朝陶磁器展覧会については関係者の当時の資料が比較的残っている。柳が帰国直後に「白樺」に発表した「京城での展覧會、その他」、展覧会をともに準備した浅川巧の日記(註2)、展覧会の展示に協力した富本憲吉が記した日記形式の著述「京城雑信」(註3)がそれである。また富本は、朝鮮滞在中彼が眼にした朝鮮陶磁を大量にスケッチしていて、それらのスケッチをもとに製作した《李朝陶器写生巻》(富本憲吉記念館蔵)には李朝陶磁器展覧会の出品作も描かれている。そこでここでは、当時の資料から李朝陶磁器展覧会を検証し、この展覧会が朝鮮民族美術館や柳のその後の活動に与えた影響について考察してみたい。
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1921(大正10)年5月7〜15日、神田小川町の流逸荘で開催された「朝鮮民族美術展覧会」。会場に立つ柳宗悦。
李朝陶磁器展覧会の開催まで
 ここで簡単に、李朝陶磁展覧会までの柳の行動を整理しておく。
 周知のように柳宗悦が李朝陶磁に目覚めたのは、一九一四(大正三)年の浅川伯教から土産として渡された《染付秋草文面取壷》(日本民藝館蔵*註4)を手にしてからである。この出会いによって李朝陶磁に強く傾倒するようになった柳は、一九一六年八月に初めて朝鮮を訪れて、到着した釜山でただちに骨董屋へ行き、《鉄砂雲竹文壷》(日本民藝館蔵、二十四頁写真)を購入する。この一回目の旅行で李朝陶磁への熱と朝鮮の文化、人々への興味がさらに増した柳は、一九一九年三月に朝鮮で起こった三・一独立運動での日本政府の弾圧に心を痛め、「朝鮮人を想う」をはじめ朝鮮の人々を擁護する文章を発表し、そして一九二〇年末に、朝鮮から来訪した浅川巧と朝鮮民族美術館の設立構想を計り、翌年一月の「白樺」で「朝鮮民族美術館の設立について」を発表する。
 年が明けるとただちに朝鮮へと赴き、朝鮮総督府と美術館の建物について話し合い、景福宮神武門外の観豊楼の提供を受ける。そしてその年の五月七日から十一日まで、日本で初めての李朝陶磁の展覧会「朝鮮民族美術展覧会」を開催する(二十五頁写真)。当時の写真を見ると、陶磁器のほかに民画と思われる絵画も陪に掛けられていて、会場で悠慨深けに作む柳の右脇には、彼か朝町で初めて購入した《鉄砂実竹文壷》が置かれている。展覧会は予想以上の反響で、当初の予定を繰り下げて十五日まで延長したという。
 展覧会のあと、五月末に再び朝鮮へ渡り、美術館の資金集めのため講演会や兼子夫人の演奏会を各地で催して、約二ヶ月に及ぶ滞在を終える。帰国後まもなく妹の危篤の知らせを受け再び朝鮮に行き約一ヶ月後に帰国、翌一九二二年の一月にも美術館の準備のため滞在し、そして李朝陶磁器展覧会のため九月十三日に日本を出発した。
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1922(大正11)年10月5日から京城の朝鮮貴族会館で開催された「李朝陶磁器展覧会」。左より浅川伯教、一人おいて柳宗悦。
李朝陶磁器展覧会
 九月十五日京城に到着した柳はすぐに巧のもとを訪れて、その二日後には巧、伯教らと分院の窯跡の調査に行った。二十四日には、富本憲吉が合流し(註5)、その後展覧会までは連日のように巧や富本、他の展覧会協力者たちと会っていたようだ。十月四日が展覧会展示の日で(註6)、柳は展示の内容について「京城での展覧會、その他」に詳しく記している。それによれば、会場には大きな洋間が二室あって、第一室は研究室、第二室を展覧室にした。十月六日付けの「京城日報」にも大きく取り上げられた展覧会場の写真の裏側には、柳の字で「千九百二十二年十月五日朝鮮京城黄金町朝鮮貴族会館にて「李朝陶磁器展覧会」第二室展覧室」と書かれているので、これがその第二室展覧室であろう(二十六頁写真)。柳によるとこの展示室は、「藝術的立場から優秀と思はれるものの凡てを集め、色彩や模様や形態を深く注意し、相互の品が互いに美を助ける様に配列した」というもので、《青花辰砂蓮華文壷》(大阪市立東洋陶磁美術館)や《鉄砂染付葡萄に栗鼠文壷》(日本民藝館蔵)を前に立つ柳の姿はどこか誇らしげにみえる。この部屋の展示は柳が中心となって、富本、浅川らが手伝ったという。一方、第一室のほうは「研究室」として、(こ分院及その附近窯跡調査(二)京城附近窯跡遺品(三)手法別(四)時代別(五)用途別に展示がされ、主に(三)を富本が、(四)を浅川伯教が、(五)を巧が展示した。
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柳宗悦の写真帳に保存されていた写真。裏書には「Oct. 13 '22柳宗悦 富本憲吉 朝鮮よりの帰 對馬丸にて」とある。
 十月六日には日本キリスト教會堂で講演会が開かれ、柳が展覧会の趣旨について、富本は陶磁器について、浅川伯教が李朝陶磁器の歴史について、それぞれ講演した(註7)。一方、巧は六日の朝から一泊二日で水落山の占窯跡へ調査に出かけていたため、講演会には出席していない(註8)。十月七日に柳らと合流した巧の日記によると、「柳兄はいきなり走って来て僕の肩に双手を置いて、「変わりはなかつたか、会はうまくいつた」と云ふて会の成功を満足そうに語つた」という。十月八日に展覧会の撤収作業を終え、十三日には柳、富本はともに帰国した(二十七頁写真)。柳は帰国途中の船のなかからリーチにあてた手紙の中でも展覧会の成功を満足げに書き記していて、この旅が柳にとっていかに充実したものだったかが伝わってくる。








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