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柳宗悦先生の思い出
中尾 信
 
 昨年九月二十五日に逝去された中尾信氏(本誌二月号に追悼記事)が、亡くなられる直前の八月末頃までお書きになっておられた原稿を遺族の方からご提供をいただきました。「季刊文科」(巴書林)からの依頼で書かれたもので、九十二歳という御高齢で、体調もすぐれなかったため、箇条書きにして、その中から選んで掲載してほしいということで、この中の約半分程が雑誌に掲載されました。
 その後、遺稿になってしまったということで返してもらった原稿を、次女の佐藤洋子さんが読まれて、「民藝」で何かの役にたてば、と編集部に送って下さいました。お亡くなりになる一ヶ月前に書かれたとは思えない明解な文章で、貴重な記録ですので、ほぼ原文のまま掲載させていただくことにしました。
初期の民藝協会
 私が柳宗悦先生のお許しを得て日本民藝協会に入会したのは、昭和十八年三月初旬でした。ところが驚いたことに、その翌日先生は台湾の民藝調査に渡航されました、当時日本周辺の制海権は既に米国海軍に握られ、日本の艦船が次々に米国潜水艦に撃沈されていました。それでその夜は心配で寝つかれませんでした。しかし先生は無事に帰られ、素晴らしい染織の蠻布類や子供用の丈夫な竹の椅子その他多くの家具を持ち帰られ、三越で展観されました。その品々は現在でも時折、民藝館で展示されています。
 当時、虎の門に近い木造四階建ての玉屋ビルの二階に「月刊民藝」の編集室と柳先生の専用室がありました。先生は民藝品の蒐集や調査のために旅行されることが多く、また執筆の為、静岡の海に近い夏冬ともに凌ぎよい知人の家や房総の旅館などに長期滞在されました。一度東京で先生の講演を聞きました。国際文化振興会の主催でした。旧華族会館で在京各国人に向かって着物姿で一時間余、流暢な英語で民藝論を話し終えられた時は、満場拍手喝采でした。
 その年、宇都宮での民藝協会栃木支部発会式に先生のお供をしました。帰途、松林に囲まれた益子町の陶器製作状況を調査したり、皆川ます女の簡潔で素早い山水土瓶の絵付けを見学しました。浜田庄司さんの話によると皆川さんは十歳頃から七十年間で約五百万個の陶器に絵付けしたことになるとのことでした。その夜は浜田さんの大きな農家風の邸に一泊し、初窯の陶器をいただきました。その後、枝垂桜の縞麗な秋田県角館の樺細工(桜の皮)の製作指導の折も柳先生にお供しました。それから岡山県の花莚のデザイン指導のための芹沢?介さんの旅行にも同道させていただきました。また、静岡県森町(森の石松の)の森山窯の製陶指導の旅に浜田さんとご一緒した時は、米国の艦載機の機銃掃射に急襲され逃げ廻ったこともありました。
 「月刊民藝」の為には全国各県の民藝総覧を連載したり、民藝館の為には柳先生の御意向によって民藝品の台帳作りのろに現民藝館長柳宗理夫人の八重子さん(芸大卒・故人)と各民藝品の略図と解説を書き続けましたが、徴兵検査は丙種だったのに三十七歳で昭和十九年末、私にも遂に召集令が来ました。
民藝館の危機
 柳先生にとって民藝館の二大厄機は終戦直前の空襲と直後の民藝館西館の接収問題だったと思います。空襲は昭和二十年五月二十九日夜で民藝館は直ぐ隣まで火が廻り塀のかづらが燃え始め、兼子夫人は近処の井戸からのバケツの水と箒で消火に走り廻り、先生はオーバーのあちこちが火で穴があくという状態だったそうです。あとで「奇跡的な火風の急変で類焼は免れたがその晩は助っ人が誰もなく疲労困憊で二人とも朝までひっくりかえって寝込んだよ」と、話されました。その四日後二十九日夜の横浜大空襲でB 29五百機の波状攻準て一時間半で全市灰になり私は家族五人で命からがら逃げ、無一物になりました。
 戦後の民藝館西館の接収問題は先生の旅行中に起こりました。八方手を尽されましたが無効となり、大量の家財家具類や書籍を本館に移動中、ブレーク夫人(米国の美術研究所長、東京GHQでは広報部婦人部長〕と英同人プライス氏(学習院教授で俳句の世界的宣揚者)の迅速的確な尽力でマッカーサー第一書記官を説得し、接収期日三日前に解除になったのです。
 終戦直後、日米学術会議の日本側の代表役員となられた柳先生の御推薦で私はマッカーサー司令部民間情報教育部の美術文化資料課に最初の日本人として勤務。美術文化の戦争情況調査に京都・奈良に三ヵ月出張し、また文部省発刊の同宝重美目録の英訳に協力しましたが、結局米国の軍事的雰囲気に嫌気がさし、退職後柳先生御指導の下に英文美術月報ART AROUND TOWNを二十五年間発行しました。毎号の論文は柳先生、リーチ氏、その他各国の日本美術研究者達によるもので論題は美術・民藝・俳句・木版画・茶道等でした。また、美術月報発行と同時に美術文化研究ツアー、東京七不思議ツアー、手仕事見学ツアーを始めました。昭和十二年の東大の世界教育会議以来大阪の万国博、東京オリンピック、ロータリ世界大会を含めて昭和五十二年迄の四十年間に少なくとも八万人の外国人を民藝館に案内したことになります。
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ブランデン氏のこと
 エドモンド・ブランデン氏は英文学者であり詩人でした。昭和十年前後東京帝大の英文科(市河三教授・斉藤勇助教授の時代)に招聘されてセーキスピア等を講演していましたが、当時から次の英国の桂冠詩人と擬文されていた人でした。戦争直後、東京をはじめ日本各地が空襲され焼野ヶ原になり、日本人全体が衣食住に窮していた頃、日本人の心のゆとりの為と文化大使として来日し、レッドマン大使と協力して、日本各地で奉仕的な文化講演を続けていました。
 そんなある日、柳先生に「ウィリアム・ブレークの講演を頼んだらどうでしょう」と申しましたら、「それはいいアイディアだが、君、交渉に行ってくれるか」とのことでした。ブランデン氏は麹町三番町に夫人・令嬢と寓居しておられたので頼みましたら、日本民藝館には是非一度行ってみたいと思っていましたから、と快諾されました。講演当日、先生はブレーク学者で詩人である山宮允法政大学教授に司会を頼まれました。そして柳先生は大正三年自著の英文大著「ウィリアム・ブレーク」や「ブレークの言葉」、寿岳文章との共著及び文献、また、戦前から東京丸善通いをして取り寄せられ、また欧米旅行中に入手された百部に近いブレーク文献を展示されました。ブランデン氏は講演後「英国内でもこれ程沢山のブレークコレクションを個人として持っている人は誰もいません」といっておられました。翌日、お礼に日本の水墨画集を差し上げましたら、「水墨は中々詩的だから私は好きです」とよろこばれました。
ラングドン・ウォーナー
 昭和二十一年GHQ民間情報教育部美術課の顧問として、京都・奈良を爆撃から救ったといわれるラングドン・ウォーナーさんが来日し、初春の一日を民藝館の戦災状況調査にと来館されました。柳先生がご不在の日でしたので、私が案内しました。ジープを降りて戦災のない民藝館をみて、両手を拡げて「よかった、よかった」と叫ばれました。「東京中が空襲で焼野ヶ原になったと聞いて心配していましたが、上野の国立博物館と駒場の民藝館が助かったことは、私にとっては京都と奈良が無事だったことと同様にうれしいことです」と言われました。最後に私が「民藝館の存在をどう思いますか」と質問しましたら、「民藝館は私のメッカです」と言われたことを忘れません。あとでこのことを柳先生に報告しましたら、「ウォーナーは仏様のような人だね」と微笑まれました。若い時、大学卒業直後に来日し日本美術を岡倉天心に、民藝を柳先生に教わり、後に柳先生をハーバード大学の美術教師に招聘したウォーナーさんには「不滅の日本美術」(寿岳文章訳)という著書がありますが、その本の「民藝論」の中で日本の民藝を高く評価しています。
宗悦先生が亡くなられて
 昭和三十六年五月七日、柳先生の民藝館葬の日、生涯の師であった鈴木大拙さんが開口一番「柳君、どうしてわたしより先に行ってしまった」と鳴咽され「君は天才の人であった。独創の見に富んでいた。それはこの民藝館の形の上でのみ見るべきではない。日本は大いなる東洋的〈美の法門〉の開拓者を失った。これは日本だけの損失ではない。実は世界的なものがある」と結ばれました。
 志賀直哉さんも「私は前から柳の民藝運動はいまに大したものになるとよくいってきたが、案外早く実現し柳がある程度その成果を見て安心して亡くなったのはせめてもの事であった。柳の他力本願の思想は民藝連動の背景として一貫していた柳宗悦の残した民藝連動は日本ばかりではなく外国にまで及んで実に大した遺産となった」と述べられました
 バーナード・リーチさんもその弔文の中で「五十年にわたる友情が私の心をよぎります。日本は偉大なる人物の一人を失いました。この私は生涯における最も親しい友人を失ったのです」と言っています。リーチさんは明治二十年ホンコンで生まれ幼時の四年間を祖父母とともに京都と彦根に住みました。明治四十二年、小泉八雲の本に触発されて来日し、柳・志賀両氏に初めてあっています。最後は柳・浜田両氏と共に米国を四ヶ月周遊し作陶の実演を続けました。宗教はキリスト教ではなく中東のバハイという宗教の信者でした。晩年「私の宗教」と題する小冊子を和紙和綴じで出したいからと頼まれまして、東京で二百部を印刷して送ったことがあります。リーチさんは終生を作陶により東と西の融合に努めた人といえましょう。最晩年失明された時のお手紙はこんな内容でした「あなたからの一月二十三日付のお手紙を読んでもらいました、私は今、眼が見えないのです。あなたが二十五年間、良い目的の為に英文美術月報を発行されたことに敬意を表します。そのお仕事によって多くの外国人が真の日本人の生活美術の側面を見ることが出来たと思います。何様に反対側向から同じ目的の為に一生を捧げた一人の英同人からの賛辞をお受けください」。
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日本民藝協会賞の賞状は、宗悦師の写真と共に、中尾氏の自室に飾られつづけていた。
 昭和四十三年十月毎日新聞が学芸欄で司馬遼太郎・江藤淳・萩原延寿の三氏を選考者として近代日本百年の再出発にあたって「日本のこころ」をとりあげました。その代表的な体現者、追究者として明治以降の選考を行い七十七人の候補者から十六人の人物が選び出されましたが、その中に西郷隆盛・大久保利道・勝海舟・福沢諭吉・内村鑑三・夏目漱石・宮沢賢治・柳宗悦等の名前が入っています。しかし正岡子規・岡倉天心等はオミットされてます。司馬遼太郎は「好ききらいは別として柳宗悦をいれておくのが正しい」と言っており、結局、広く「日本のこころ」を止揚した人物として柳宗悦が支持されました。
 思うに柳宗悦という人は哲学・宗教・美術工芸という多面にわたる深い蘊畜の人で、日本の歴史から考えられても恐らく百年に一人或いはそれ以上に一人しか出来ないような品格の人と思われます。柳先生からは昭和十八年以来、昭和三十六年御逝去直前迄多くの著書をいただきました。最も有り難かった本は、浄土真宗の門徒の私が文字通り開眼させていただいた先生の御著「南無阿弥陀仏」でした。特に法然・親鷲二上人の思想を止揚し一遍上人が
称ふれば仏も吾もなかりけり南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
という和歌を読んで禅門の大徳・法燈正師から禅の印可を授与された、と述べ、他力と自力、浄門と禅門の不二なることを結論づけられていることは、この本が昭和四十一年「名著の世界」という新聞記事の中で大谷大学の五来重教授が名著として推奨された所以でもありましょう。同教授は同記事の中で「民藝運動は昭和十一年日本民藝館の設立によって結実するがこれは近代日本文化史」のこる歴史的業績といってよい」と言っておられます。
 最後に私が全く意外で、最も感激したことは昭和二十五年十月柳先生から「民藝協会賞」をいただいたことです。それは一枚漉きの和紙に先生の墨書によるもので「多年民藝運動ノ良キ理解者トシ、ソノ紹介ニ努メ、特ニ外人ノ理解ヲ助ケラレシコト多大」とあり、一緒に河井寛次郎先生作の「角壷」をいただきました。
 私は現在九十二歳。肝臓ガンの治療中で入院を続けておりますが老齢の為、手術は出来ぬ由、余命幾許もないと思いますが、柳先生にお会い出来てご薫陶を受けることが出来たことを生涯無上の幸と思って居ります。








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