4. 「日本の選択」―日米リーダーシップ・シェアリングに向けて
●長島昭久、櫻田淳
序―米国の模索
二〇〇一年九月一一日に起こった同時多発自爆テロ事件以降、米国では、「米国の価値」を確認し直そうという動きが、燎原の火のように拡がっている。特に悲劇の舞台となったニューヨークにあっては、以前は世俗的な成功への衝動に駆られた多くの人々が、他を蹴落とさんばかりに、実体経済とはかけ離れたところで、マネー・ゲームに狂奔していたけれども、今や、そのような振る舞いは、影を潜めている。これらの人々は、忙しい日常の中で見失っていた「人間にとって何が大事か」という価値を、あらためて自らに問い掛けている。「家族」の価値を口にする人々もいれば、「他との連帯」の意義を説く人々もいる。「自助」、「質素」、「勤勉」、「節制」、「勇気」といった価値は、米国建国の時代以来、「米国の価値」として大事にされてきたものであった。米国の人々、特にニューヨークの人々は、今、そうした「米国の価値」を見失いかけた自らを省みて、その生き方を問い直しているのである。
本書に収録された演説や論文は、ジョージ・W・ブッシュ大統領が率いる現政権の基本的な対外政策の指針を焙り出している。注目されるべきは、これらの演説や論文では総じて、「無闇な対外関与」を続けてきた従来の政策方針が批判され、「国益に基づいた選択的な対外関与」が方針として示されているということである。これは、コンドリーザ・ライス(国家安全保障担当大統領補佐官)の論文にも、典型的に垣間見られる姿勢である。米国は、対外政策の展開に際して、「出来る事と出来ない事」、あるいは「手掛けるべき事と手掛けざるべき事」を峻別しつつある。そこには、自爆テロ事件後のニューヨークの人々と同様に、自らを省みる姿勢が浮かび上がってくるのである。
このような自省する米国を前にして、日本としては、どのように相対するのか。それが、目下の日本人が考えなければならない課題であるのは、疑いを容れない。
破―日米同盟の将来像
日米安保体制の将来像については、二〇〇〇年一〇月に発表された「アーミテージ報告書」において、米英同盟を理念型にした形での「パワー・シェアリング」(Power sharing=権力の共有)を目指すべきだという趣旨の提案が示されている。われわれは、この「アーミテージ報告書」が示した方向性を是とするものの、これを現実的な当面の目標と設定することには、いささかの躊躇を禁じえない。無論、「パワー・シェアリング」の内実は、明らかではないけれども、「米英同盟並みの日米同盟」という報告の文脈から判断する限り、それは、従来のような日米「分業」(盾と矛の任務役割分担)の地理的な射程を「日本国およびその周辺」から地球規模にまで拡大させるのみならず、直接の武力行使をも含む「共同対処」を目指すものであろう。そうであるとすれば、「パワー・シェアリング」の域に一挙に達することを日米同盟の目標とすることは、日本(の政治)に対して相当な無理を負わせることになる。「パワー・シェアリング」の前提は、集団的自衛権の行使や海外での武力行使を可能ならしめる憲法改正を実現させることであるけれども、それは、日本にとっては、内外における多大な政治的コストを意味する。
また、そのような「パワー・シェアリング」に伴う任務に堪えられる錬度、装備、陣容を自衛隊が手にするまでには、相当の年月を要しよう。特に、そのような地球規模における安全保障上の関与を精確、適時に行うためには、少なくとも英国並みの情報(インテリジェンス)コミュニティが政府中枢に根を張っていなければなるまい。しかも、「パワー・シェアリング」の域に到達した日米同盟は、必然的に日本の軍事部門での積極的な対外関与を要請しているけれども、それは、よほどの深慮を伴って切り回されない限り、アジア周辺諸国からの無用な猜疑を招くことになるであろう。
したがって、われわれは、現状の「ロールズ・アンド・ミッションズ・シェアリング」(roles and missions sharing=役割・任務の共有)という段階から「パワー・シェアリング」の段階へ日米安保体制を進化させる際、現実的な当座の目標として設定されるべき中間的な段階として、「ウィズダム・シェアリング」(wisdoms sharing=智慧の共有)、あるいはそれに基づいた「リーダーシップ・シェアリング」(leadership sharing=政治指導の共有)の確立を提案したい。
「ウィズダム・シェアリング」とは、日米両国が直面する様々な課題について、情報、提案、あるいは構想を共有することである。従来、「ロールズ・アンド・ミッションズ・シェアリング」の段階における日米安保体制の下では、日本が引き受ける役割や任務は、事実上、米国の利益に基づき米国から割り当てられるものであった。その割り当てられた役割や任務を、どのように果たしていくかが、日本の安全保障政策の内実であったのである。
しかし、現在の世界の情勢は、日本に対して、そのような受動的な態度を続けることを許さなくなっている。地球環境破壊、貧困と飢餓、地域紛争、テロリズムの跳梁といった地球規模の課題は、米国が単独で対応できるものではない。たとえ、米国が世界各地から人材を招き、そのような課題に対応する「知の仕組み」を築いているとしても、具体的な政策の実行に際して自国だけの「智慧」(その背景としての情報)に拠って諸々の課題に臨むのは、甚だ心許ない。同時多発テロ事件以後の「不屈の自由」作戦において、明らかな存在感を示しているのは英国である。そのことが反映するのは、アフガニスタン周辺地域の事情に関して、英国が、この地域との歴史的な経緯から米国以上の「智慧」を備えているという事実である。従って、もし、「アーミテージ報告書」が提起するように、日米同盟の実質性を英米同盟並みにしようとするならば、日本もまた、諸々の課題に際して、自らの情報、提案、構想、即ち「智慧」を提起しなければならないのである。
その意味では、本書に収録された十数編の演説、論文は、日本が参照し共有すべき米国の「智慧」の一端を表している。このような演説や論文に表された米国の「智慧」を考慮しながら、日本もまた、独自の「智慧」を示すことを通じて、日米両国が共通の目標を設定できれば、次に提起する「リーダーシップ・シェアリング」の前提を築くことができよう。
そして、「リーダーシップ・シェアリング」の段階における日米安保体制は、日米の共同意思決定を基軸に、日本の主体的な判断による柔軟な多国間安全保障協力の可能性を拓き、海外における直接的な武力行使に至らない水準のすべてのMOOTW(戦争以外の軍事作戦)に自衛隊を参加させることを通じて、日米両国の共同行動を促進する。これによって、日米安保体制の射程は、少なくともアジア太平洋全域に広がり、PKO(平和維持活動)や災害援助などといった自衛隊の緊急展開に必要な一定のパワー・プロジェクション能力を整備することになる。
また、多国間協力についても、安全保障をめぐる価値観を共有する韓国やオーストラリアなどとの安保協力が緊密化するだろうし、今回の国際テロ対応のような場合でも、NATO(北大西洋条約機構)をはじめとする多国籍軍との共同行動へも地球規模で参加することが可能となる。ここまで日本が踏み込んで初めて、日米両国は、戦略協議のための認識の共通基盤を持つことになるであろう。われわれは、このような共通基盤の上でこそ、日米両国は、在日米軍およびアジア太平洋地域における米軍のプレゼンスの有り様について、率直な議論ができるのだと考える。そして、日米両国が、それぞれの地政戦略的な特徴を活かした「リーダーシップ・シェアリング」を緊密化させるならば、日米共同の軍事プレゼンスは、地域安定のための国際公共財となるとともに、日米同盟の地域における存在意義は確立し、同盟の持続性は飛躍的に高まることになるであろう。
この「ウィズダム・シェアリング」と「リーダーシップ・シェアリング」の確立を通じて、多くの実践的な経験を積み重ねることによって、日本国民が「海外での実力の行使」という集団的自衛権の中核概念を許容し、そこから生まれるリスクや政治的コストを引き受ける意思を示したとき、日米同盟は、米英同盟のような「特別の関係」(アーミテージ報告書)へと進化を遂げる準備を完了させたといえるのではなかろうか。
急―米国を知ることの意味
日米同盟の将来は、日米両国が自らに対して、どのような自己像を描いているかということもさることながら、互いに対して、どのような印象や期待を抱いているかによって作用される。「アーミテージ報告書」をはじめとして本書に収録された演説や論文に示された日本の位置付けは、新世紀を迎えた段階における米国の日本に対する印象や期待を表している。しかし、その半面、この半世紀余りの間、日本が米国に抱いた印象や期待は、何と固定的なものであったことであろうか。
日本の対米認識は、半世紀前の「戦争と占領」の記憶に呪縛されている。「圧倒的な力を背景にして物事を無理強いする国」というのが、戦後の日本人が米国に抱く一般的なイメージである。したがって、米国に対する漠然とした反感は、戦後・日本の思潮の中で常に伏流し続け、それは時折、間欠泉のように表に出てくる。同時多発自爆テロ事件以後に米国主導で展開された「不屈の自由」作戦への協力に当たって、日本国内で示された疑念は、そのような漠然たる反米感情と「憲法第九条」に象徴される平和主義感情とが、混然となったものである。「テロリズムは非難されるべきだが、報復を実行しようとする米国も非難に値する」という議論は、その象徴的なものであろう。
しかし、われわれは、「戦争と占領」の記憶にとらわれたまま米国をもっぱら「強圧」「傲慢」という言葉で想起し続けることの不毛は、強調されなければならないと考えている。振り返れば、明治初期、福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、新島襄といった人物が見た米国は、戦後の日本人が見たものとは異なる相貌を見せていた。士族出身の彼らが共感したのは、「礼節」「謙譲」「勤勉」といった価値を尊重する米国の相貌であった。それ故にこそ、こういう人々は、終始、米国の友人であり続けようとしたのであった。一九世紀後期、建国後一世紀を経る前後の時期の米国は、依然として国際政治の上ではさほどの影響力も持つに至らず、「米国の価値」によった国家建設を進めている途上であった。その後の二○世紀以降の歳月の中で、米国は、わりあい無邪気な対外関与を深めるようになり、それが他国との摩擦を生むようになったけれども、「米国の価値」の意義は、脈々と受け継がれてきたのである。
現在のブッシュ政権が、ともすれば経済権益を重視し日本よりも中国との関係に力点を置いたクリントン前政権とは対照的に、同盟国・日本との関係を重視する構えを早々に示したのは、そうした「米国の価値」への志向が働いている。今、幾多の日本人は、自らの価値を大事にしようとする米国の相貌を知るべきなのではなかろうか。
目下、国際政治の舞台で自律的な存在として振る舞えるようになることは、日本にとっては急務と呼ぶべきことである。しかし、それは、米国に抗うという幼稚な経路を通してではなく、米国と共同でさまざまな政策目標を設定し、それを着実に達成するという経路を通じて、進められるべきものである。今、日米同盟は、国際的な公共財に進化すべき枠組みなのであれば、それを首尾良く切り回すことは、日本の基本的な責任の一つである。先刻、逝去したマイク・マンスフィールド元駐日米国大使は、日米関係を「世界で最も重要な二国間関係」と呼んだ。幾多の日本人は、そのことの意味を自省しなければなるまい。