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第3章 ブツシュ政権に向けられる目
1. グローバル化時代の米国の同盟関係
●デービッド・C・ゴムパート
 
 米国が将来、有効性のある同盟を持つべきであるとするなら、それは戦略的な目的が明確で、政治的に公正なものでなければならない。こうした尺度で見るとき、二つの主要な同盟である北大西洋条約機構(NATO)と米日安全保障関係はいずれも、現時点では高い評価を得られない。本論はこれらの同盟へのアプローチの代替案を検証し、選択肢をまず戦略的価値によって、次いで公正さによってふるいにかける。その結果、両方の同盟を再形成し、効果の基準を満たす、より良いものにすべきだとの勧告を行う。
 
友好は強いが、不安定な同盟
 同盟を生み出した冷戦が終結して一〇年がたち、敵対する軍事ブロックがなくなったにもかかわらず、米国と西欧および日本との同盟は無傷のまま残っている。この驚くべき耐久力には三つの理由がある。
[1] 北大西洋と北太平洋にまたがる民主主義の理念がもつ結合力
[2] 統合が進む世界経済における共通の利害
[3] 特定の安全保障上の問題、すなわち朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とユーゴスラビア
 これらの理由によって、同盟は少なくとも現状において有益なものとなっているのだ。
 このうち最初の二つの条件は、今後も持続する可能性が大きく、米国と西欧、日本の友好関係は持続するだろう。そもそも西欧と日本を除外するなら、同盟など問題にもならない。無論、全く別の未来を除外することはできない。経済対立と欧州連合(EU)のうぬぼれが強まれば、米国と欧州の協力関係はほころび、分断されるかもしれない。日本が野望をもつようになり、信頼できなくなる可能性もある。米国は世界的規模の敵という動機を失ったために、過去五〇年間掲げてきた国際主義へのコミットメントを棚上げするかもしれない。
 米国が自らに都合のいいルールをつくる一方、同盟のまとまりを維持するために進んで法外な犠牲を払う意思を失ったとみなされれば、米国の単独行動主義は、欧州や日本が相反するとまではいかなくとも独立した針路をとる傾向を助長する可能性がある。だが、経済的、政治的親和力が勝る可能性のほうが大きい。経済的親和力は米国、EU、日本の経済が次第に融合してきているためであり、政治的親和力は世界的に民主主義が繁栄し、その市民がCNNからMTVに至る共通の情報にアクセスするにつれて、共通の価値観がますます強固なものとなっているためだ。米国とEU、米国と日本の関係はある面で競争的になるとしても、最も基本的な意味において友好的なものであり続けるだろう。
 友好はこれまで二つの同盟がうまく機能するのに役立ってきたが、友好だけでは有用な軍事同盟の永続性を保証できない。結局のところ、これらの同盟が設立された主な理由は、日本と西欧が保護を必要としていたからであり、これらの同盟国が民主的ないし協力的だったからではない。共通の価値観と経済的利害は、防衛協力を奮い立たせ、世界の安全保障への共通のコミットメントの感覚を鼓吹するには不十分である。また、確固たる戦略目的がなければならないが、いずれの同盟もそれを見いだしていないし、少なくとも宣言してはいない。
 明確な、合意された戦略目的が欠如していても、同盟を消滅させるまでには至っていない。NATOはバルカン地域の平和維持活動でそれなりに忙しいし、北朝鮮は米国と日本の関心の焦点となっている。だが、厄介なものではあっても、バルカンと北朝鮮は限定的で、おそらく過渡的な問題にすぎない。セルビア人とアルバニア人の対立が再燃する事態は予想できるが、大セルビア主義は敗北し、しぼんでしまった。スロボダン・ミロシェビッチが失脚したことで、バルカンは彼の野蛮な政治から着実に立ち直るだろう。同様に北朝鮮は衰退した独裁であり、唯一のテコとしては、攻撃されれば、大量破壊兵器を使用するという脅し―ぞっとするものではあるが―しかない。終焉は差し迫ってはいないが、選択肢も残された時間も限られている。こうした状況はいずれも注意を要し、連携した行動が必要となる可能性はあるが、それらは米国と世界の他の二つの主要な経済的、民主的勢力との同盟の永続的な存在理由とはならないのである。
 
戦略的に無意味なのか、ただ方向付けがないだけなのか
 巧みな声明作成や陽気な記念撮影、共通の理念への誇大な言及にもかかわらず、NATOと米日安保が確固たる戦略目的を規定していないという事実を覆い隠すことはできない。欧州と東アジアの「安定」のためという正当化は、異議を唱えることはできないものの、戦略として解釈したり、共同の真剣な防衛努力を推進したりすることはできない。双方の同盟の当局者や知識人は、同盟の存在こそ米国を東アジアや欧州に関与させておくために必要だと断言するが、将来なぜその関与が必要なのかと尋ねられると、あいまいで逃げ口上の答えしかできない。
 同盟が戦略的原理を探し求めていると考えると、不安にさせられる。同盟のすべての加盟国で世論の同盟に対する支持は堅実であるが、経費がかさんだり、方針をめぐる意見の対立が生じたりすれば、その支持は後退するだろう。世論は同盟が必要だと感じているものの、なぜ必要なのかを本当は知らない。あるいは知っていても言えないのである。
 日本との同盟は、中国の隆盛を押しとどめるためのものだろうか。もしそうでないとすれば、何が目的となるのだろうか。米日同盟は、日本の再軍国主義化を未然に防いでいると言われている。だがそこには、同盟がなかったとすれば、日本が独力で多大な犠牲を払って満たさなければならなかったはずの極めて重要な要求を、同盟の存在が満たしているという意味が含まれている。そこで次のような疑問が生まれる。日本の再軍国主義化を動機付けるものとは何か。答えは無論、中国である。だが、日本も米国もそれを言おうとはしない。
 NATOは、欧州およびアフリカや中東のような周辺地域における和平の構築と維持の担い手となるべきであろうか。もしそうなら、どうしてそう言わないのか。そうでないなら、なぜNATOを維持し続けるのか。それはロシアの復活に対する保険のようなものだろうか。もしそうなら、ロシアが復活することはない―なぜなら復活できないからだ―ということが明らかになるにつれ、動機は弱まるだろう。もしNATOの目的が単にバルカン南部における警察機能であるなら、EUが同地域での責任を拡大する―米国も欧州諸国もそうすべきだと言っている―につれ、NATOの重要性は低下することになろう。
 目的が明確にされるまで、これらの軍事同盟は猶予期間の上に存在するにすぎない。たとえ、共通の民主主義的価値や経済的利害によって米・欧や米日の友好関係が維持されるとしてもだ。逆説的だが、同盟は危機によって傷つく―同盟が打ち砕かれる可能性がある―だけでなく、危機の不在によっても傷つく―有用性の欠如が明らかになる―のだ。
 無論、同盟のための戦略的原理は、新たなグローバル化時代における米国―そして欧州、日本―の安全保障上のニーズや利害、責任に取り組まなければならない。その中には世界のエネルギー供給、大量破壊兵器の拡散問題、主要な地域における侵略の防止、虐殺の防止、世界的な製品・資本・情報の流れの保障、隆盛する勢力が敵対的な行動を取らないよう説得することなどが含まれる。これらの安全保障上の挑戦を踏まえると、米国の同盟にとって興味深いいくつかの戦略的なアイディアを考察することができる。
 
代替案―第一の道
 〈選択肢1〉より対等でグローバルな米・欧州パートナーシップ。NATOは真の意味での大西洋パートナーシップになる可能性がある。それは必要とされる場所ならどこでも、共通の利益を保護し、共通の責任を果たす能力と意思―ただし義務ではない―をもつ。その中にはバルカンにおける和平維持、アフリカにおける人道上の災厄への対応、アラブとイスラエルの和平合意の保障、ペルシャ湾岸地域での安全保障の維持、全世界のテロとの戦いが含まれる可能性がある。欧州諸国が東アジアと米州以外の地域で米国と肩を並べるほど大きな役割を引き受けるためには、米国は欧州諸国を従者ではなく、パートナーとして扱わなければならない。そうすれば米国は、もっと多くの資源と注意を東アジア、とりわけ新時代における最大の挑戦者となりつつある中国に向けることができるだろう。米・欧州パートナーシップが堅固なものになるにつれ、やがて中国に挑発的な道を取るのを思いとどまらせることにも直接貢献することになろう。
 〈選択肢2〉米国・欧州間の任務分割。米国は欧州における和平維持の主要な貢任を―欧州に限定しての話だが―欧州諸国の肩に移す。それによって、ワシントンは中東や東アジアなどの他の地域における挑戦に自由に対処できるようにする。この取り決めは、コソボ紛争後の欧州大陸の安全保障で米国への依存度を低めようとする欧州諸国の意図にもこたえるものとなる。NATOはパートナーシップというより、EU・米国間の任務分割を管理する機構となるが、欧州側には予想外の状況によって米国の新たな関与が求められる場合の保険ともなる。同時に東アジアでの米国の軍事的プレゼンスが増すことによって、日本が地域安全保障により大きな責任を果たす必要はなくなるだろう。
 〈選択肢3〉地域パートナーシップの再調整。EU、日本ともに、既存の同盟の枠内で、それぞれ欧州と東アジアにおける、より大きな責任を果たす。米国は両方の地域で関与を続け、中東和平と世界の石油供給を保障する役割を保持する。この代替案の根拠は、米国がグローバルパワーであるのに対して、EUと日本が地域的パワーにすぎないことである。日本はEUに比べて安全保障上の役割を拡大することには消極的だが、最近の地域有事に関する支援的役割の拡大は、日本が厳格な日米安保の枠組み内でより大きな地域的責任を分担することが可能であることを示唆している。
 〈選択肢4〉全世界的な米国のリーダーシップ。米国は両方の同盟や深刻な安全保障上の問題が存在しているすべての地域、とりわけ中東、東アジア、欧州における至上の地位を再び要求する。米国の軍事および技術の優位性が拡大しており、世界の超大国としての存在が比類のない責任と特権をもたらすというのがその根拠である。米国の「一極体制主義者」は、中国、EU、日本など他の勢力の隆盛をくじくことによって米国がより大きな利益を享受することができるとみている。多極的世界を支持する中国、インド、ロシア、フランスは欲求不満を感じるものの、情勢を変えることはできないし、またそうする用意もない。反米的な連合が実現する可能性は小さい。なぜなら、そうした連合のメンバーになる可能性のある国も、米国との関係がもたらす安全保障や経済面における恩恵を捨て去ることはできないからだ(このことは、なぜ中国とロシアが反米連合を形成しないのかの説明となる。両国が古典的なバランス・オブ・パワーの理論に基づいて、そうした運合を形成するとの予測があった)。
 これらの四つの選択肢は、目的が明確であるものの、必ずしも公正なものではない。したがって、そのうちの幾つかは政治的な支持を獲得し、維持することはできない。特に米国の世論は、米国の保護を長年にわたって享受してきた他の民主主義の大国が、その経済力と安全保障上の関心に見合っただけの責任を引き受けることでは満足しないかもしれない。
 
ただ乗りへの別離?
 同盟国の生活が脅かされ、同盟国が自らを守ることができない場合、米国は不釣り合いなリスクを引き受ける用意があった。だが、かつてそれを正当化した条件がもはや存在しないことから、そうした意思は徐々に低下しつつある。もし同盟内の責任分担がそれぞれの当事者の利害と能力を反映しないなら、同盟はますます論議の的となり、有効性を失い、もろいものとなろう。不釣り合いな犠牲を払う米国の意思は、これまでのところ徐々にしか低下していないが、米国が同盟国よりはるかに大きな犠牲、とりわけ人命の損失を伴うような危機が起きれば、急転直下で低下する恐れがある。
 習慣によって、あるいは友好国だという理由から、EUと日本の畏敬すべき能力は総じて過小評価されてきた。今日の世界において、国力―近代的で有用な種類の―は米国とE U、日本に集中している。一一の時間帯をもつ広大なロシアは衰えつつあり、膨大な人口を抱える中国やインドは隆盛を見せているが、いずれも主要な民主主義国の技術・経済力に対抗することはできない。まさに政治的、経済的自由のゆえに、米国、欧州、日本は新時代における国力の主要な源泉であるIT(情報技術)の創造と利用において優位に立つのである。それらは人的・金融的資本によって一つの連合を形成する。
 米国にはるかに水をあけられているとはいえ、欧州諸国は総計で世界で第二位の軍事力をもっている(日本は決断すれば、容易に数年以内に強力な軍隊を配備することができる)。米国とともにEUと日本は世界経済を管理している。貿易と投資を通じて彼らは国際政治に大きなテコをもつ。そして彼らは、強い友人に恵まれ、敵は弱体化しているという状況によって祝福されている。
 ではなぜ、大きな力をもつ二つのセンターが世界の安全保障において脇役しか演じず、米国との同盟において比較的控えめな役割しか果たさないのだろうか。なぜ欧州と日本は米国と同じようにグローバルな利害をもっているにもかかわらず、米国のようなグローバルな視野が欠けているのだろうか。そしてなぜ二つの同盟は、欧州と日本が米国の保護に依存していた昔と本質的に同じ政治的特徴、すなわち米国のリーダーシップの下での序列、米国の指揮の下の戦力、責任とリスクの不均衡な分担、依存の心理を持ち続けているのだろうか。
 状況が変わらないのは、欧州諸国と日本がそうしたやり方にかなりの程度満足しているからである。ただ乗りの習慣を変えるのは容易ではない。それはまた少なくとも短期的には理にかなっている。最も危険な地域―朝鮮半島、台湾海峡、ペルシャ湾岸―において、米国が同盟国からの助力をあまり受けずに共通の利益と国際的な安全保障を守る用意がある限り、同盟国側の助力の意欲は乏しいものでしかない。日本は依存しているとは言わないまでも、資源と政策を経済的地位の向上に集中することが習慣となっている。欧州諸国は世界的な役割に関心をもっていると表明する一方で、自らの繁栄と統一の足場固めに夢中になっている。
 欧州諸国は、日本よりも地域や世界、米国との同盟における役割の拡大を受け入れる用意や傾向をもっている。欧州諸国の間では、発展中のEUに防衛力をもたせる決意が強まっている。「共通外交・安保」上級代表の任命と欧州諸国が相次いで近代的な展開兵力をもつことを決定したことは、一つの曲がり角を通過したことを示唆している。だが、欧州諸国は依然として、遠く離れた危険地域に武力介入するよりも、近くの火事を消すことを望んでいるようだ(独仏の国防相はともに、欧州の安全保障・防衛政策の正当性を説明する際に消火活動のイメージを引き合いに出している)。その結果、米国民は相変わらず、欧州の国民の平均の二倍の額を国防に費やしており、米国の戦力は欧州のそれより大量破壊兵器の脅威にさらされている。
 日本の場合、重要な第三国―すなわち韓国、オーストラリア、中国―は日本が重要な安全保障上の責任を与えられたり、まして自ら引き受けることは望んでいない。欧州におけるドイツ(NATO、EU、全欧安保機構=OSCE=の加盟国)とは異なり、日本はアジアにおける多国間の安全保障および政治的機構の一部を構成していない。このことは、近隣諸国が強国としての日本を信頼するのを困難にしている。六〇年前にアジアの安全保障を脅かしたことによって、日本が今日、アジアの安全保障への貢献を最小限にとどめるのが許されているとは皮肉―不公正とは言わないが―だ。しかし、それが実態であり、今後何年も変わらないだろう。日本の民族主義的な感情が強まっているとしても、それは象徴的な表現―「神国」の無害なほのめかし―にとどまり、米国の力への依存を実際に低下させる選択を行う可能性は小さいだろう。
 
米国は追随者とパートナーのいずれを望んでいるのか
 同盟国が米国の力のとりこになっているのだとしても、米国はそうした依存関係における役割を果たすのを好んでいる。「必須の国家」であること、またそう主張することは、ワシントンでスピーチする当局者と聞き手に自己確認と満足感をもたらす。
 しかし、米国が世界の危険地帯で安全保障を提供する役割をほとんど独占的に果たすことは完全に不合理というわけではない。というのも、それは比類のない影響力を保証するからだ。例えば、中東では米国はその力と役割によって「大いなる悪魔」であるかもしれないが、同時に最大の威勢とうまみのある契約を手にしているのだ。二つの主要な同盟がその中心にある地域でも、リーダーシップは米国に重荷とリスクとともに恩恵ももたらしている。東アジアでは、地域内の均衡に決定的に重要な存在であることによって、米国は日本だけでなく、中国に対してもてこをもつことになる。欧州では、EU加盟国が一致した立場を模索している間に危機に断固として対応する能力によって、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦を終結させたデイトン合意のように、米国は帰趨を決定付ける力をもち、欧州諸国に力強い友人なしにはやっていけないという思いを新たにさせている。
 欧州の人々が言ったように―日本人もそう考えているかもしれないが―米国は重荷をもち上げる時にはパートナーを求め、支配する時には従者を求める。米国は欧州において、EUが自らの役割とみなす地域リーダーの立場を放棄したがらないとの評価を受けている。米国がNATOをパートナーシップとして再編することにあまりにも強く抵抗したため、ワシントンは欧州のどの国の政府よりも、欧州主体の防衛協力を促進する役回りを果たす結果となった。
 米国は同盟を動かすことが好きだが、現状は変則的で不安定だ。同盟国はもっと多くのことができるし、すべきだという米国の主流派の意見は強まりつつあり、もはやそれを孤立主義とか単独行動主義だとして片づけることはできない。世論調査が一貫して示しているのは、米国民が政治家の多くや戦略立案者のように優位性を求めてはいないということである。
 他人にも負担を求める良識は、とりわけ米国の死活的な利害が絡まない時に介入への支持を求められると顕著に現れる。単独行動主義の誘惑や一極体制主義的なレトリックにもかかわらず、冷厳な現実は、同盟国が参加する時にのみ、米国の世論が介入を支持するということである。このことを理解した米政府は、有能で相互運用性のある軍事的提携への関心を強めているのであり、その逆ではない。
 この点で、欧州と東アジアは非対称的である。欧州では、米国の死活的な利害に対して予想し得る脅威は存在しない。したがって、欧州で米国が同盟国の実質的な貢献なしに軍事力を行使することを想定するのは不可能に近い。だが、東アジアでは、米国は重要な利益に対する大きな脅威に直面しており、必要とあれば単独でも介入する用意がある。短期的には、敵対的で、大量破壊兵器をもつ(瀕死の状態だとしても)北朝鮮の近くに米兵が駐留していることは、米国が自らの責任を免れようとはしないということを保証するものである。長期的には、中国の隆盛が地域の安定と米国の利益に対する挑戦となる可能性があり、その場合、日本政府の立場がどうであれ、米国は対処せざるを得ない。こうした理由から、欧州諸国に対する米国の忍耐は、たとえ日本の貢献がはるかに少ないとしても日本に対する忍耐よりも早く限界に達するだろう。
 米国の忍耐力の問題は別にしても、NATO内での現在の責任と権限の分担は不安定である。というのは、大半の欧州諸国が抱いているEUの将来像とNATOは両立しないからだ。結局のところ、EUが欧州の安全保障に対して主導的な役割を果たさないということはあり得ないのではないだろうか。したがって、もしNATOが米国主導のままなら、EUは欧州防衛の中心的役割をNATOから奪い取ることになろう。逆に言えば、NATOを重要なものとしておきたいなら、米国とEUはパートナーシップとしなければならないのである。
 
代替案―第二の道
 同盟を公正なものとしなければならないという条件によって、米国が欧州と東アジアの双方で不釣り合いな重荷とリスク、特権を伴う主導的な役割を果たすという代替案(選択肢4)は排除される。必要とされる米国防費の増加とそこに含意される介入主義の方針は世に支持されないだろう。同時に、米国は日本に対して大幅な要求拡大ができない弱い立場にある。米国の安全保障面の責務を日本が引き継ぐと考えただけで、東アジアの友好国が肝をつぶすということを米国は知っている。
 また、もし日本がもっと多くの責任を負わなければ、米国は東アジアから撤退すると脅してみても、中国の存在のために真実味に欠ける。その上、米国が自らの責務を日本に与えたりすれば、中国の統合を奨励し、武力行使を思いとどまらせるのははるかに困難になろう。それゆえ、NATOと米日同盟の双方における再調整は(選択肢3)、少なくとも現時点では望ましいものではない。
 こうして戦略と公正さのテストの両方を適用することによって、二つの選択肢が残る。すなわち、欧州はEUにまかせ、米国がより多くの注意を東アジアに向ける。あるいはNATOをもっとグローバルで対等なパートナーにする。いずれの場合も、米国は東アジア、とりわけ中国に注意を集中することができるようになる。このことは日本がただ乗りを続けることを意味するだろうか。答えは本質的にイエスである。
 日本を甘言に乗せ、中国に対するより良い全体戦略を形成するためにもっと多くのことを果たすように仕向けることはできるかもしれない。だが、ここでも要求する立場にはない。米日同盟を再活性化し、幾らかバランスを調整することの要点は、中国に背を向けることではなく、むしろ向き合うことだ。つまり、中国がアジアと世界において建設的な役割を果たすよう促しながら、その一方で米国と日本がともに中国が好戦的になることに反対するということを明確に示すのである。
 NATOに関しては、二つの公正な代替案の間の選択は、極めて重要であり、究極的に明解なものである。NATOが欧州やその域外で米国のパートナーとなるか、それとも米国とE Uが任務を分割するという方法を採用して、補完的であるにせよ別々の道を進むかだ。後者のケースでは、NATOは明らかに退行する。戦略的および政治的に、より対等で野心的なNATO―その方が公正であり、目的が明らか―が、任務の分割よりも米国にとっては望ましい。だが、二つの理由から任務の分割は容易であり、それゆえ可能性も大きい。すなわち、米国は欧州を現実のパートナーとして受け入れる必要がなく、欧州は責任を自分たちの比較的安全な場所に限定することができるということである。したがって、NAT Oを恒久的に堅固かつ公正で、意味のあるものにするためには強いイニシアチブを必要としており、そうしたイニシアチブは取ってみる価値がある。
 
結論
 もし米国が責任を果たす同盟国を持つなら、より有効な同盟を持つということになる。もし、米国がより有効な同盟を持つなら、より大きな安全保障を、より少ない費用とリスクで実現することができる。純粋なパートナーを獲得するための対価は、影響力やプライド、行動の自由を一定程度失うということだ。EUは日本よりも責任を引き受ける用意がある。日本よりもEUがそうすることに世界の準備はできている。両者ともにはるかに多くのことができるのであり、やがてそうしなければならない時が来るだろう。そのとき、米国との同盟は弱まるのではなく、強化されるのである。
 








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